赤魚のポワレ
その夜、ツレに呼び出されていつもの店に行く。今日のおすすめには赤魚があるようだ。
席に着くなり、ツレが睨んでくる。
「十万円貰ったんだろ。返す金がないってのはどういうことだ」
「いや、借りてるのお前だけじゃないからさ」
「じゃあ他に返済したんだな」
「いや、全部使っちゃった」
「だからこいつに金を持たせたらダメなんだよ」
カウンター越しのマスターに向かって愚痴るツレを、青年がなだめる。
「いや、真っ先にお前に借りた金を返さなきゃとは思ったんだ」
「じゃあ、なんで俺への借金が減ってないんだよ」
「十万ばかしじゃ屁の突っ張りにもならないからさ、増やしてから返そうと思ったんだよ。うまくはいかなかったけど。よく言うだろ、結果より過程が大事って」
「そういうのは成長するやつが言うんだよ。お前は一つも成長してないだろ」
その時、バターとニンニクの香りが漂ってくる。目の前に焼きあがった赤魚が二皿運ばれてきた。
「まあ待て。いったん赤魚と向き合いたい」
「言われなくても分かってる。話は赤魚の後だ」
マスターが皮ごと行けと言うから、箸で丸ごと持ち上げ、ガブッとかぶりつく。白身のフワ感に、皮目のパリ感が良いアクセントになっている。
丁度良い塩味と、濃厚な味わいが口いっぱいに広がる。染み出した脂の深いコクが、心地よい余韻を残した。
「マスター、腕を上げたね」
「ポワレにしてみたんですが、気に入ってもらえたなら良かった」
半分ほどになった赤魚を見つめながら、ツレがぽつりと零す。
「どうでもいいけど、アカウオって日本語として変だよな」
「なにが」
「日本語なら、音音とか訓訓で読むのが普通なのに、訓音って読みは」
「やめろ。セキギョでもアカサカナでも、赤魚の美味さに変わりはない。考えるんじゃない、感じるんだ」
青年がツレの譫言を一蹴すると、マスターも会話に加わる。
「ウオは訓読みですよ」
「え、なんで。送り仮名ないじゃん」
赤魚の磯っぽさがラフロイグに勢いをつけ、気がつけば先輩の入れてくれたボトルも空になろうとしていた。
――
困ったな。
あれから数日。青年は途方に暮れていた。
金を貰っていい気になっていたが、よくよく考えれば状況は何も変わっていない。借金返済に充てるわけでもなく、食料や衣料品を買ったわけでもない。全てスってしまったのだ。どうりで金がないわけだ。
十万円貰った時の感覚というのは十万円以上なのに、十万円使うときは十万円も使った感じがしない。なんか損した気すらする。
もう一回、十万円貰えないかな。
そうか。もう一回、十万円を貰えばいいのか。
あの爺さんは確か、若者の記憶はどんな栄養剤より効果があると言っていた。
青年は、適当に放り投げてあった覚書の控えを取り出した。そこには、老人の連絡先も記入されている。
ダメ元だ。青年はスマートフォンを手に取り、番号を打ち込んだ。
「はい」
短い返事。声のトーンからして、たぶんあの爺さんだ。
「あの。先日入浴のモニターで伺った者ですが」
「ああ、君か。この前はありがとう。どうしたんだね」
「いや、実はですね。あの仕事を、またやらせてもらえないかなと思いまして」
青年がそう言うと、老人は黙ってしまった。
あれ、良くないことだったろうか。
流れる沈黙を青年が気まずく感じていると、やがて老人がゆっくりと話し出す。
「またこちらから連絡してもいいかね。なにせ、今はとても体調が良いからね」
「もちろんです。ぜひまたお願いします」
青年は愛想よく礼を言い、通話を切った。
やった。脈ありだ。
栄養剤だと言っていたのだから、そんなにすぐには次を必要としないのかもしれない。青年は自分の想定通りに事が運んだことに気をよくして、次の十万円の皮算用を始めた。
――
たまに入る日雇いの仕事で食いつないで一ヶ月が過ぎた。
もう忘れられているのだろうかと諦めかけていた頃、老人から連絡が入った。また頼みたいとのことだった。
約束の日。
青年は再びあの屋敷を訪れ、応接室で老人と向き合っていた。
「よくきてくれたね」
「こちらこそ、お声かけいただきありがとうございます」
「せっかく来てもらったんだが、先に確認しておきたいことがある。湯に浸かるかどうかは、その後で決めよう」
値引き交渉か何かだろうか。青年は身構えた。
「前回は、幸い重大な記憶の入れ替わりは起こらなかった。ただ、今度は二回目だ。君の生活に支障をきたす可能性が無いとは言い切れない。それでもやるかね」
なんだ、そんなことか。青年は拍子抜けした。
この前は何ともなかったのだ。それに、記憶の入れ替わり自体が、この爺さんの妄想という可能性もある。いや、むしろその方が現実的だ。やらない手はない。
「はい。問題ないです」
「そうか」
目の前の老人が、にやりと笑ったような気がした。
「ところで君は、借金をしているかね」
唐突な質問に眉を顰める。
そういえば、そもそも金に汚い男を探しているという話だったか。もしかして、最初からこうしてリピートさせる気だったのだろうか。だったら、ちゃんと答えた方がいいはずだ。
「まあ、あるにはありますね」
「いくらくらいか、教えてもらえるか。もちろん言いたくなければ、これ以上は聞かないが」
「三十万円くらいです」
嘘だ。本当は六十万円借りている。ついいつもの癖で、低めに言ってしまった。
少しの間があって、老人が切り出した。
「百万円払おう。ただし、入浴時間は二時間。どうだね」
「やります」
青年は、反射的に答えていた。
二度目の入浴も、ただ退屈な時間が過ぎるのを待つだけだった。
分厚い封筒を受け取り、屋敷を出た。
飛び上がりそうになる衝動を、青年は必死に抑え込んだ。
二時間の入浴。結果として、心配していたような記憶の入れ替わりなど、特に起こっている気配はない。やはりあの爺さんの思い込みだろう。これで百万円なら、ボロいにも程がある。




