鯵の西京焼き
暑さに耐えかねて青年は目を覚ました。
カーテン越しにも、既に日が高くなっていることがわかる。日当たりだけは良い安アパートのこの部屋は、日中には熱がこもって息苦しくなる。
タオルケットを蹴飛ばし、綿がへたった布団の上で身じろぎする。枕元のスマートフォンを手にとると、画面には大量の着信履歴が表示されていた。
しまった、今日はバイトだったか。
そのままの姿勢でしばらく思案すると、青年はもういいやと画面をスワイプした。このままバックレよう。これまで働いた分の給料がちゃんと振り込まれるかどうかだけが気がかりだ。メッセージアプリを開く。いつものツレから新着メッセージが入っていた。
飲みの誘いだろうか。あわよくば奢ってもらえないかと期待して画面をタップしたが、表示されたのは借金返済の催促だった。青年は小さく舌打ちし、そのままスマートフォンを枕もとに放り投げた。
気がつけば夜になっていた。
何をするでもなく寝転がったまま動画サイトを眺めていると、画面に着信を知らせる表示が割り込んできた。発信者の名前を見る。少し考えてから、青年は通話ボタンをタップした。
「おい、既読つけといて無視すんな」
「返済なら今は勘弁して。バイト辞めちゃったんだよ」
電話の向こうから溜息が聞こえた。
「またか。まあいいや。今いつもの店なんだけど出て来いよ」
「金はないぞ」
「俺のボトルなら飲んでいいぞ。それ以外は自分で何とかしてくれ」
「助かる。その調子で借金もチャラにしてくれればいいのに」
「それとこれとは話が違う。じゃあ待ってるからな」
返事をする間もなく通話が切れた。汗でベタつく体が気持ち悪かったため、青年は軽くシャワーだけ浴びてアパートを出た。
――
駅から少し離れた、繁華街と住宅街の境界あたり。見慣れた電飾スタンドの隣に、おすすめの書かれた黒板が出ている。今日は鯵の西京焼きがあるらしい。
電話口で店の名前を聞きそびれたが、ボトルを入れているいつもの店というならここだろう。ガラス越しに店内を覗き込むと、案の定カウンターには見慣れた姿があった。中に入ると、気づいたツレが手を振ってくる。
青年はカウンター越しのマスターに軽く挨拶して、ツレの隣に腰を下ろした。
「遅かったな」
「シャワー浴びてたんだよ」
「働いてないのに生意気だな」
「そんな酷いこと言うなよ。人間生きてるだけで汗をかくし腹も減るんだ」
青年はおしぼりで手を拭きながら、顔を上げた。
「マスター、こいつのボトルから貰うからグラス一つちょうだい、あと鯵の西京焼き」
「お、やっぱりそれ行くよな。俺も食べたけど、最強だったぞ」
ツレはなかなかご機嫌のようだ。この感じなら今日は遠慮はいらないなと、青年は内心で拳を握る。
バイトを辞めたことに対するツレの小言を、青年は耳に入れず、もらい酒と一緒に飲み込んだ。
やがて、お待ちかねの鯵の西京焼きが運ばれてくる。
魚の焼ける香ばしさと西京味噌の甘い匂いが、たまらなく食欲をそそった。箸で軽く押す。ふっくらとした身がちょうど一口分ほぐれる。そのまま口に運ぶと、漬け焼きされた魚の芳醇な旨味が口の中全体に広がった。
「マスター、これめっちゃ美味い」
「旬ですからね。最強でしょ」
どうやら、登場人物全員がご機嫌のようだ。
「西京焼きって鮭が定番だけど、白身魚の西京焼きも良いね」
「そうですね。でも、鮭も白身魚なんですよ」
「え、そうなの。どう見ても赤いよ」
そんなたわいのない会話を交わす。飯に合うものは酒にも合う。タダ酒ということもあり、青年の酒は順調に進む。
いい具合に酔いが回ってきた頃、ツレが急に真面目な声で切り出してきた。
「割のいいバイトがあるんだけど、興味あるか」
「それは内容によるだろ」
「俺も詳しくは知らないんだけど、一時間で十万円貰えるらしい」
十万円は欲しいが、そんなに上手い話があるわけない。
「まだ犯罪は間に合ってるかな」
「いつかはやるのかよ。先輩から、金に汚い若い男がいないか聞かれてるんだよ」
「失礼な。先輩って、たまにここで一緒に飲んでる人か」
「そう。犯罪に関わるようなタイプじゃないだろ。話だけでも聞いてみろよ」
「確かに。一時間で十万円が本当なら魅力的だよな」
そう言った直後だった。
カウンターの並び、ツレの向こう側から顔が覗き、声がかかった。
「よし、青年。詳しい話をしよう」
先輩がいた。
――
先輩の話はこうだった。
なんでも得意先の偉い人が、入浴のモニターを探しているらしい。会社名を聞けば、誰でも知っている企業だった。確かに水回りの設備でよく見る名前だ。
それにしても、入浴のモニターで一時間十万円。どう考えても怪しい。
「性的な話じゃないですよね」
「仮にそうだとしても破格だと思うけどね。君、どうせ働いてないんだろ。やってみなよ」
先輩がひどく軽い口ぶりで言う。
まあ、どんな仕事か興味はある。青年が思案していると、ツレが耳打ちしてきた。
「おい、先輩に恩を売って、ゴチしてもらおう」
こいつもたいがいだな。青年は呆れつつも、その名案に乗ることにした。
「先輩。この話を俺が受けたら、得意先に顔が立つんですよね。何か見返りが欲しいな」
「一時間で十万貰えるのに、がめついやつだな。金に汚いに偽りなしか。いいだろう。マスター、こいつらの伝票全部俺に付けちゃって。あと、青年にラフロイグ、ボトルでおろしてあげて」
「マジですか。先輩すてき」
「そのかわりこの仕事、絶対に受けろよ」
任せてよと軽く請け合うと、青年はその日、限界まで食べて飲んで、最後にはその全てを道端にぶちまけた。
――
一昨日は久しぶりに限界まで飲んだ。昨日は夕方までひどい二日酔いで、水すら受け付けなかった。
なんとか体調は回復したが、吐きすぎて喉が筋肉痛になっている。
今日は先輩に紹介された仕事の日だ。正直あまり気が進まなかったが、あれだけ盛大に奢ってもらった手前、すっぽかすわけにもいかない。話は通っているから、時間になったら指定の住所を訪ねろと言われていた。
到着して唖然とする。何だこの豪邸は。
一つのブロックが丸ごと高い塀で囲まれている。
今日俺がここに来ていることは、ツレも先輩も知っている。だから犯罪に巻き込まれるようなことはないだろうと高を括っていた。まあ、やばそうなら力づくで脱出すればいい。覚悟を決めてインターフォンを押す。
「はい」
短い応答があった。
「入浴のモニターを紹介されて来ました」
「ああ、聞いている。入ってきたまえ」
ガチャリと門の電子錠が開く音がした。
重厚な門を開き、敷地の中に入ると、玄関まで立派な飛び石が続いている。後ろから再び施錠される音がして、逃げ道を塞がれたような錯覚を覚える。
玄関まで進むと、インターフォンから声がして、入って正面の部屋へ来るよう指示される。
玄関は、土間だけで自分の部屋より広かった。毛足の長い高級そうなスリッパが用意されている。客用だろうかと少しためらってから、青年はそれに足を滑り込ませた。
正面の扉を開けると、老人がいかにも高そうなソファに腰掛けていた。
「よく来てくれた。かけてくれ」
「失礼します」
「緊張しなくていい。何も取って食おうというわけじゃない」
老人の柔和な物腰に、青年は少しだけ警戒を解く。
解いたところで、ここでの無駄話は一時間に含まれないだろうと考え、さっさと話を進めることにした。
「一時間で十万円貰えるって聞いてきたんですが、本当ですか」
「間違いない」
即答だった。
「俺は何をすればいいんでしょうか。危険はないんですよね」
「ああ、危険はない。君は十万円を得て五体満足で帰ることができる。約束しよう」
老人はゆっくりとだが、誤魔化すようなそぶりもなくはっきりと言う。
「それもそうなんですが、そのう、性的な要求とかもないですよね」
老人の表情が少し変わる。
やっぱりそういうことなのか、と青年は身構えた。
「なるほど、配慮が足りていなかったことを詫びよう。安心していい。私が君の体に触れることはないし、その逆も必要ない。覚書を用意したから、よく読んで、問題がないか確認してほしい」
渡された覚書を要約するとこうだ。
テセウスの湯舟という、二つで一セットの浴槽がある。そこに湯を張り、それぞれの湯舟に二人で同時に一時間だけ浸かる。湯はただの水道水であり危険はない。
ここまでは、目的こそ分からないものの意味は理解できた。
だが、機密保持の項目が少し変わっていた。ここでの出来事を他言しないというだけでなく、テセウスの湯船の効果によって知り得たことも他言してはいけない、と書かれている。
「湯船の効果って、どういう意味でしょう」
少しの間があって、老人は話し出した。
「信じられないだろうが、二つの浴槽に同時に浸かると、記憶が入れ替わるんだ」
青年の理解を待たず、老人は続ける。
「病は気からというだろう。記憶が若返ると、体もリフレッシュされるのだよ。私にとって、若者の記憶はどんな栄養剤より効果がある。それが対価の理由だ」
それが本当なら、相応のリスクがありそうだよな。青年が疑問を口にする。
「記憶の入れ替わり。それって記憶喪失みたいになるってことですよね。危ないんじゃ」
「安心していい。一時間で入れ替わるのは、せいぜい今日の朝食くらいの、放っておいても消えていくような記憶だけだ。君の生活に支障が出ることはないと断言できる」
青年は訝しんだが、老人の断言的で不思議な説得力と、ここまで来て帰るのもなという考えから、覚書にサインをした。
――
控えを受け取ると、老人の案内で広い廊下を進んだ。
鍵のかかった扉を開け、地下へと続く階段を降りる。
たどり着いたのは、コンクリートに囲まれた部屋だった。地下とはいえ照明設備は整っていて、無機質だが清潔感もある。
部屋の中ほどに、少し離れて浴槽が二つ並べてある。自分の安アパートにある備え付けの浴槽とは違う、映画か何かで見たことのあるような、四隅に装飾的な足のついたバスタブだ。二つの浴槽には、すでにたっぷりと湯が張られている。
その間には、部屋の雰囲気には不釣り合いな、陸上競技で使うような巨大なデジタルタイマーが置かれていた。
「これが」
「そう、テセウスの湯舟だ。我々が浸かったら中央のタイマーが動き出す。一時間を過ぎたら謝礼を渡そう」
「服は」
「脱いでも着たままでも、好きにしていい。恥ずかしいなら目隠しでもしようか」
からかうような老人の口ぶりは気に食わないが、十万円だぞと自分に言い聞かせる。
せっかくだから、ちゃんと浸かることにしよう。服を脱いで湯舟に身を沈めた。
いつもシャワーだけで済ませているため、肩まで湯に浸かるのは久しぶりだった。
気持ちがいい。
身体の芯から温まると、妙な緊張もほぐれていく。
まだ五分か。
記憶が入れ替わるというのは、いったいどんな感覚なのだろうか。試しに今日の朝飯を思い出そうとしてみる。
記憶がない。
いや、そういえばそもそも朝食なんて食べてなかったか。
ようやく三十分。
地下の謎空間で、初対面の爺さんと二人で並んで風呂に浸かっている。あまりにシュールなシチュエーションに、青年は思わず笑いそうになった。
あと少し。
「さあ、一時間経ったな。謝礼を渡すから部屋へ戻ろう」
老人の声に促され、青年は風呂から上がった。
元の応接室に戻ると、テーブルにはグラス一杯の水と、封筒が用意されていた。
一気に飲み干した水はひんやりと冷たく、火照った風呂上がりの体に染み渡る。
「お疲れ様。記憶に違和感はあるかね」
気遣ってくれているのだろうか。青年は少し考えてから答えた。
「特に、なんともなさそうです」
「それは良かった。今日はありがとう。気をつけて帰りたまえ」
封筒の中身を確かめると、本当に十万円が入っている。
青年は礼を言って、屋敷を後にする。
記憶が入れ替わるなんてオカルトめいたことを言っていたが、冷静に考えればそんなことあるわけがない。あの爺さん、少しボケているのかもしれない。
ともかく、朝から楽しみにしていた割のいいバイトを無事に終えたのだ。青年は足取りも軽く、手にした十万円の使い道を考え始めた。




