第9話 魔女を信じない
――暗闇。
何も見えない。 何も聞こえない。
まるで冷たい底なしの沼に沈んでいくような、圧倒的な無の世界。
(私……どうなっちゃうの……?)
思考すらも霧の中にけていきそうになったその時――。
「……ミユ?」
闇の向こうから、聞き慣れた愛くるしい声が届いた。
ハッとして目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた鮮やかなピンク色の空と、ふかふかの雲の床。 そして何より――胸の前で丸い手を合わせ、心配そうにこちらを覗き込んでいる、白い身体に赤いマントの姿だった。
「……シロクマさん……!」
「良かった、目を覚ましたね。急に姿が消えちゃったから、心配したんだよ?」
シロクマさんがほっと胸を撫で下ろすように、短いててをパチパチと叩く。
「あ……ああ……っ」
ミユは思わず雲の上にへたり込み、シロクマさんの小さな身体を強く抱きしめた。 温かい。柔らかい。
あの不気味で冷たい魔女・ノクターンと対峙していた時の氷のような恐怖が、シロクマさんの存在感によってスーッと溶けていくようだった。
(やっぱり……シロクマさんは私の味方だ。この人がいれば、私は大丈夫なんだ――)
安堵の涙が、ミユの頬を静かに伝った。
雲のベンチに座り直し、落ち着きを取り戻したミユに、シロクマさんが首を傾げて尋ねた。
「ミユ、さっきまでどこに行っていたの? 何かあったの?」
ミユは少しだけ言葉を濁そうか迷った。けれど、一番信頼している相棒に隠し事なんてしたくない。
「……魔女に、会ったの」
「魔女?」
「うん……」
「どんな人だったの?」
シロクマさんの無邪気な問いかけに、ミユは脳裏に焼きついたあの女の姿を思い浮かべた。
月明かりを吸い込んだような、長い灰白色の髪。 破れた黒い外套と、そこに散りばめられた古金色の歯車や鎖。 そして、生気のない白磁の肌の奥で冷たく輝く、赤紫色の瞳。
「時間は、帰るためにあるのよ」と呟いた、あの冷たい声。
「真っ黒いドレスを着ていて……すごく髪が長くて、目が赤くて……『ノクターン』って名乗ってた」
「……ノクターン」
その名前がミユの口から零れ落ちた瞬間。
――ピタリ。
シロクマさんの顔から、ほんの一瞬だけ、完璧だった笑顔が消えた。 口角の上がった愛くるしい表情が、まるで時間が停止したかのように微動だにしなくなる。
だが、ミユは自分の胸の動悸を抑えるのに必死で、その一瞬の固直に気づくことはなかった。
「その人ね……変なものを私に渡そうとしたの」
「変なもの?」
「うん。真っ赤なリンゴ」
「リンゴ……」
シロクマさんはトコトコとミユの膝の上に飛び乗ると、じっとミユの顔を見つめた。
「何て言われたの、ミユ?」
「……『これを食べれば、帰れる』って。『魔法が消えて、元の世界に戻れる』って言われたの」
沈黙が落ちた。
ほんの、一秒ほどの短い沈黙。
魔法世界の賑やかなオルゴール音だけが、二人の間で虚しく鳴り響いている。
やがて、シロクマさんはふんわりと、いつも通りの優しい笑みを深めた。
「そうなんだ」
「でもね、私……食べなかったよ」
「うん」
「どうして食べたのか、分かる?」
ミユが尋ねると、シロクマさんは首をかしげた。
「どうして?」
「……だって」
ミユはシロクマさんのつぶらな瞳を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと胸を張った。
「私、シロクマさんを信じてるから」
シロクマさんは、心底嬉しそうにパッと顔を輝かせ、丸い手を叩いた。
「ありがとう、ミユ! 僕もミユを信じているよ!」
「あのね、シロクマさん」
ミユは手の中の『ケセラセラ・ポッピー』を優しく撫でながら、自分の想いを言葉に紡ぎ始めた。
「私、あの魔女の言ってること、全然納得できなかったの。だって……シロクマさんは、ずっと私に優しくしてくれたでしょう?」
「うん!」
「右も左も分からなかった私に魔法少女のことを教えてくれて、一緒に街に行って、困っている人を助ける手伝いをしてくれて……」
胸の奥から、温かい思い出が次々と溢れ出してくる。
「魔法少女になってから、みんなが私を見てくれたの。街の人たちが『ミユちゃん』って名前を呼んでくれて、心から『ありがとう』って笑ってくれて……私を、強く必要としてくれた」
ミユはそこまで言うと、少しだけ切なさの混ざった笑みを浮かべた。
「私ね……今まで、あんなふうに誰かに必要とされたことなんて、一度もなかったんだよ」
ミユは視線を少し落とし、自分の制服のスカートをつまんだ。
「現実の学校では……私、どこにでもいる『普通の女子高生』だった」
「普通?」
「うん。友達はいたよ? アオイもリコも大好きだし、学校に行くのは楽しかった。でもね……どこかでずっと思ってたの。『私じゃなくても、別に誰も困らないんじゃないか』って」
一度も口に出したことのない、ずっと胸の底に溜め込んでいたコンプレックス。
「アオイの隣に私が居なくても、リコが代わりに一緒に笑ってくれる。結衣ちゃんみたいにスポーツができるわけでもないし、特別勉強ができるわけでもない。私が明日学校を休んだって、世界は何事もなかったみたいに普通に続いていく……」
ミユは顔を上げ、眼前に広がる輝かしい魔法世界を見渡した。
「でも、魔法少女の私は違ったの!」
声に力がこもる。
「私じゃなきゃ助けられない、風船を取れない小さな女の子がいた! 私じゃなきゃ笑顔にできないおばあちゃんがいた! 私を待ってくれて、私を見てくれて、私がいることを喜んでくれる人が……ここにはたくさんいたの!」
ミユはシロクマさんの手を力強く握りしめた。
「だから……私にそんな素晴らしい居場所をくれたシロクマさんを、私は信じる。あの怖い魔女の言うことなんて、絶対聞きたくない!」
「……そう」
冷たく、澄んだ声が、静寂を破って響いた。
「っ!?」
ミユとシロクマ線が同時に振り返る。
雲の街路の端。紫色の夜闇と月光の境界線に――いつの間にか、あの女が立っていた。
破れた黒い外套を夜風に揺らし、灰白色の髪の隙間から、暗紅の瞳でこちらを見つめている。 その手には、あの鮮烈なまでに真っ赤なリンゴが握られていた。
「……また来たの!?」
ミユはシロクマさんをかばうように立ち上がり、ステッキをノクターンへ向けた。
「何度言われても同じだよ! 私は……私は絶対に帰らない!」
固い決意を込めたミユの宣言。
だが、ノクターンは怒ることも、嘲笑うこともしなかった。 ただ静かに、感情の起伏のない声で呟いた。
「……そう」
「シロクマさんはね!」
ミユは叫ぶように言葉を重ねた。目の前の魔女に、自らの選択の正しさを証明したかった。
「シロクマさんは、私を幸せにしてくれたの! 何もない私に、特別な力をくれて、誰かを笑顔にする喜びを教えてくれたの!」
敵であるならば、「そんなものは偽物の幸せだ」「お前は騙されているんだ」と罵倒してくると思っていた。
けれど、ノクターンは淡々と答えた。
「ええ」
「……え?」
予想外の肯定に、ミユの手がピクッと止まる。
「あなたは幸せだったのでしょう?」
「……う、うん。すごく、幸せだったよ……!」
「なら、そのことを否定するつもりはないわ」
ノクターンの声には、嫌みも嘘もなかった。 ミユがこの魔法世界で得た多幸感も、シロクマさんによって救われた気持ちも、すべて紛れもない事実としてそのまま受け止めている。
ミユは混乱した。
「じゃあ……じゃあ、なんで帰れって言うの!? 私が幸せなら、ここで魔法少女としてみんなを助けてちゃダメなの!?」
ノクターンは手に持った真っ赤なリンゴをじっと見つめ、静かに、けれど逃れられない重みを持って言い放った。
「幸せだったことと、帰ることは別だからよ」
「意味分かんない……!」
ミユは顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「言ってること、全然意味分かんないよ! 幸せだったら、ここにいたっていいじゃない! どうして幸せなのに、嫌な思いをしてまで帰らなきゃいけないの!?」
「分からなくてもいいわ」
ノクターンは表情ひとつ変えず、静かに言い放った。その揺るぎなさが、かえってミユの感情を逆撫でする。
「だって私は今、幸せなの! 魔法少女の私も、シロクマさんといる時間も、全部大好きなの! だったら……だったら、ずっとここにいたっていいじゃん!」
「……」
「なんで……なんであなたみたいな怖い人に、私の行き先を決められなきゃいけないの!?」
ミユの叫びが、無音の夜空に響き渡る。
ノクターンはゆっくりと目を開き、暗紅の瞳でミユを静かに見つめた。
「決めているのは、私ではないわ」
「……っ、じゃあ誰なのよ!?」
「あなた自身よ」
「私……!?」
怒りと困惑で、ミユの頭の中が真っ白になった。自分自身が選んだ? こんな気味の悪い魔女に追い立てられることを、自分が望んだとでもいうのだろうか。
「ふざけないで……っ!」
ミユは手に握ったステッキ『ケセラセラ・ポッピー』を、強く、強く握りしめた。 先端の星のチャームに、激しい感情に煽られたピンクの光が集まり、眩しく弾ける。
「あなたなんか……あなたなんか信じられない!」
ノクターンは身構えることもなく、ただ静かにステッキを向けられたまま立っていた。その視線には、攻撃に対する恐怖も警戒も欠らつしていた。
「シロクマさんは、ずっと私を助けてくれた! ダメな私を褒めてくれて、必要としてくれて……こんな私を幸せにしてくれたの!」
涙で視界が歪む。ミユはステッキを突きつけたまま、絞り出すように叫んだ。
「あなたは……あなたはただ、私からその幸せを奪おうとしてるだけじゃない!」
その言葉が届いた瞬間。
――ノクターンの表情が、ほんの少しだけ引きつった。
冷徹で感情のない仮面のような顔に、一瞬だけ浮かんだのは怒りではなかった。 それは、壊れものを目にするかのような――痛切で、深い悲しみの色だった。
静寂が舞い戻る。
ノクターンはしばらくの間、黙ってミユを見つめていた。 やがて、灰白色の髪を夜風に揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「……あなたは、まだ何も知らない」
「知りたくもない!」
ミユは言葉を遮るように言い返した。これ以上、この女の冷たい言葉で自分の気持ちを乱されたくなかった。
「……そう」
ノクターンは短く答えると、静かに目を伏せた。 そして、手にしていた真っ赤なリンゴを黒い外套の内側へと隠し、ゆっくりと背を向けた。
カツン、カツンと、冷たい靴音が夜闇に遠ざかっていく。
だが、闇の中にその姿が消え去る間際――ノクターンは振り返ることなく、掠れた声で最後に一言だけ残した。
「いつか、あなた自身が知るわ」
その言葉の意味を確かめる間もなく、女のシルエットは紫色の夜気の中に溶けるように消えていった。
ミユは追わなかった。 荒い息を吐きながらステッキを下ろし、縋るような思いで隣のシロクマさんへと視線を向けた。
「シロクマさん……」
シロクマさんは、追い払われた魔女の去り際など最初から目に入っていなかったかのように、いつも通りの無邪気な笑顔でミユを見上げていた。
怒りも、焦りも、恐怖もない。 ただ、どこまでも穏やかな愛くるしさ。
「大丈夫だよ、ミユ」
シロクマさんはトコトコと歩み寄ると、ミユの裾をちょこんと引っ張った。
「僕はどこにも行かないからね。ミユが幸せなら、それでいいんだ」
「……うん」
ミユは胸の奥の支えが戻ってきたのを感じて、小さく頷いた。 やっぱり、シロクマさんは優しい。自分を肯定し、守ってくれる味方なのだ。
シロクマさんが小さな丸い手を差し出してくる。ミユはその手を取った。柔らかくて、温かい感触。
「ねえ、ミユ」
「なに……?」
シロクマさんはパッと顔を輝かせ、楽しそうに首を傾げた。
「今日は、特別な場所に連れて行ってあげる!」
「特別な場所?」
「うん。幸福の国だよ!」
――ドンッ――!
その瞬間、遠くの夜空で弾けるような重低音が響いた。
見上げると、深い紫色の空いっぱいに、金色とピンクの光の粒で形作られた巨大なハート型の花びらの花火が、大輪の花を咲かせていた。
次々と打ち上がる色とりどりの花火が、夜闇を昼間のように明るく照らし出していく。 遠くから、楽しげなブラスバンドの行進曲と、人々の歓声が聞こえてくる。
「……遊園地……?」
ミユの顔に、ぱあっと明るい輝きが戻った。
「うん! そこに行けば、もっともっと楽しいことがいっぱいあるよ!」
「行きたい……!」
「もちろん! さあ、行こうミユ!」
シロクマさんに手を引かれ、ミユは輝く花火の下へと駆け出した。 さっきまでの恐怖も、魔女の残した不穏な言葉も、夜空に弾ける光の乱舞の中にきれいに消し飛んでいくようだった。
――だが。
遥か後方。誰もいない建物の屋根の上に、ぽつりと立つ黒い影があった。
破れた外套を風になびかせ、光り輝く「幸福の国」を冷ややかな目で見下ろすノクターン。
彼女は、走り去っていく少女の背中に向けて、誰にも届くことのない小さな呟きを漏らした。
「……行っては、駄目」
その声は、賑やかな花火の爆音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
やっぱり、魔女は悪いやつ。




