第8話 魔女ノクターン
魔法の世界にも、「夜」は訪れる。
けれど、それは現実世界の静けさや闇とはまったく異なるものだった。
空は漆黒ではなく、重厚で爛々とした深い紫色。その中央には歪なほど巨大な月が居座り、手伸ばせば届きそうなほど間近に、無数の星々が異様な密度の光を放っている。
昼間なら、あんなに綺麗でファンタジックだと思えた景色。
雲のお菓子、ピンクのハート型の花びら、浮遊する色とりどりの風船。それらすべてが、深い紫の夜気の中で怪しく光を反射させ、不気味な気配を漂わせている。
誰もいない街。
遠くに見える遊園地のようなエリアだけが、ぽっかりとぼんやり明るく浮かび上がっていた。
誰も乗っていないメリーゴーラウンドが、カタカタと乾いた音を立ててひとりでに回転している。どこか遠くで、掠れたオルゴールのメロディが、切なく、どこか狂気を孕んで響き渡っていた。
ミユは一人、雲の街路を歩いていた。
あんなに憧れ、大好きだったこの世界。 なのに、今のミユの心を満たしているのは、冷たく粘り気のある恐怖だけだった。
「……帰りたい」
ぽつりと、掠れた声で呟く。
その小さな声は、紫色の夜の中に吸い込まれ、儚く消えていった。
――ピタリ。
「帰りたい」という言葉がミユの口からこぼれ落ちた、まさにその瞬間だった。
頬を撫でていた甘いお菓子の風が、ピタリと止まった。
遠くで鳴り響いていた寂しげなオルゴールの音が、ぷつりと途切れた。 回転していたメリーゴーラウンドが、摩擦音すら立てずにその場で固まる。
世界から、すべての「音」と「動」が消え去った。
あの世界が切り替わった時の暗転とは違う。 世界は暗闇に呑み込まれることもなく、紫色の夜の景色のまま、完璧な静寂の中に凍りついている。
「……え?」
ミユは息をのんで立ち止まり、恐る恐る周囲を振り返った。
誰もいない。 さっきまで自分の隣に立ち、「僕がいるから」と優しく微笑んでいたはずのシロクマさんの姿すら、どこにもなかった。
「……シロクマさん?」
声を出してみる。自分の声だけが、無音の世界に異質に響く。
「シロクマさん……どこに行ったの……?」
もう一度、周囲を見回す。返事はない。
その瞬間――。
背後から、静寂を切り裂く不穏な音が響いた。
カツン。
それは、固い靴底が雲の床を打つ、明瞭で重く、冷たい靴音だった。
「……っ!?」
ミユは跳ね起きるように振り返った。
街の通り、月明かりが一番濃く落ちる場所に――誰かが立っていた。
長くて重厚な、黒い衣。 最初はただのシルエットにしか見えなかったその影が、カツン、カツンとゆっくりした足取りでミユの方へと歩を進めてくる。
月明かりを浴びて現れたのは、一人の女性だった。
ミユの目を奪ったのは、その異様なまでに長い髪だった。 腰よりも遥か下、膝の裏に届くほど伸びた髪は、真っ白というよりも、月光の冷たさをそのまま吸い込んだかのような灰白色。 整えられている風もなく、毛先は不揃いに乱れており、細い束が顔の半分を隠すようにかかっている。一部は緩いカールを描いて、歩くたびにゆらゆらと揺れていた。
ミユは息を呑み、金縛りに遭ったように動きを止めた。
「……誰……?」
引きつった声で尋ねる。 しかし、女は答えない。ただ冷ややかな紅い瞳でミユを見つめたまま、一定の拍子で歩み寄ってくる。
近くづいてくるにつれ、その姿が鮮明にミユの視界へ刻み込まれていく。
白磁のように青白く、生気の薄い肌。 人形のように美しく整った鼻筋と、引き結ばれた薄い唇。けれどその顔立ちには、人間らしい温かみが決定的に欠落していた。目元には、長い年月を孤独に過ごしてきたかのような薄い影が落ちている。
毛先の乱れた灰白色の髪の隙間から覗くのは、赤紫――深く暗い紅色の瞳。 猫のように細められた瞳孔が、夜闇の中で怪しく輝いていた。
月光を跳ね返す灰白の髪と、底の知れない暗紅の瞳。
鮮やかなミントブルーの髪に、ピンクと白の可憐なフリルドレスを纏ったミユとは――あまりにも対照的だった。 光と影。昼と夜。
ミユが「可憐な輝き」なら、その女は「壊れた世界の影」そのものだった。
女が着ているのは、黒いロングドレスと、その上に羽織ったボロボロの外套だった。
だが、それは単なる粗末な衣服ではない。 古い童話の挿絵に出てくるような、かつては豪華で絢爛だった装束が、途方もない年月の経過によって朽ち果てたかのような……不気味で美しい退廃を纏っていた。
肩から垂れ下がる大きな黒い布。その内側は、くすんだ古びた象牙色の生地が覗いている。裾は無残に引きちぎられ、破れていた。
だが、その布地のあちこちには、細密な金色と古金の刺繍が施されていた。 星、月、複雑に噛み合う歯車、古い時計の文字盤、そして幾重にも絡み合う細い金鎖。
そして何より目を引いたのは、衣装の端々や胸元に不規則に縫い付けられた、鮮血のような赤い糸の装飾だった。 それはまるで、破れかけた世界と世界の縫い目を、力任せに繋ぎ止めている傷痕のようにも見えた。
女がミユの数歩手前で足を止める。
その首元――古びた細いチェーンの先に、一つの懐中時計が吊り下げられていた。
金属の表面は黒ずみ、すっかり光沢を失っている。 ガラスの嵌められた文字盤は、ごく普通の十二個の数字が刻まれた時計だ。
けれど――その二本の針は。 長針も短針も、真上よりほんのわずか手前で静止していた。
【11:59】
11時59分。 あと1分で十二時を迎えるという、そのギリギリの瞬間で、針は完全にフリーズしていた。動くはずの秒針すらピクリともしない。
ミユは吸い寄せられるように、その胸元の時計を見つめた。
「……時計……?」
ミユの掠れた呟きに、女は初めてその薄い唇を開いた。
「時間は、帰るためにあるのよ」
低く、どこか澄んだ、冷たい風のような声だった。
声に感情の起伏はない。怒りも、優しさすらもない。 ただ淡々と、揺るぎない事実だけを告げるようなその響きに、ミユの背筋はゾクッと冷たく震え上がった。
ノクターンはおもむろに、黒い手袋に包まれた自らの右手をミユへと差し出した。
その細い掌の上に、ぽつんと一つ載せられていたのは――真っ赤なリンゴだった。
周囲を支配する紫色の重苦しい夜闇の中で、そのリンゴの赤は異様なほど鮮烈に光を放っていた。なめらかな表面は鏡のように光沢を帯び、果皮にはできたてのような透明な水滴が幾つも浮いている。 漆黒の短い茎。そこから伸びる、深緑色の葉が一枚。
静まり返った魔法の世界で、その赤だけが命の脈動のように鮮やかに浮き立っていた。
ノクターンは、静かな声で言った。
「それを食べて」
「……っ」
ミユは思わず足を一歩後ろへ引いた。
「……何、それ」
「リンゴよ」
「それは見れば分かるよ……!」
引きつった声で返すミユに、ノクターンは一拍の間を置いて、淡々と答えた。
「……帰るためのものよ」
(帰るための……リンゴ……?)
ミユは喉を丸呑みするように唾を飲んだ。具体的な意味や理由は分からない。けれど、その果実がこの終わらない魔法世界から自分を解放する鍵なのだということだけが、本能的に理解できた。
けれど――目の前にいるのは、あまりにも人間離れした、底の知れない存在だ。
ミユは胸の前で、ステッキ『ケセラセラ・ポッピー』を固く握りしめた。先端の星の装飾から、威嚇するように淡いピンク色の魔法の光がボウッと灯る。
ノクターンは身構えることも、攻撃の素振りを見せることもなかった。ただ差し出された掌の上のリンゴを、じっとミユに見せ続けている。
「……あなた、誰なの?」
「ノクターン」
「魔女……?」
「そう呼ばれているわ」
冷たい風のような声で、短く返答する女。 ミユは震える手をステッキに添えたまま、もっとも確かめたかった問いを投げかけた。
「……シロクマさんの、敵なの……?」
その瞬間。
ノクターンの美しくも生気のない顔に、ほんのわずかな変化が走った。
「……シロクマ」
その名前を口にした瞬間、彼女の声が一段低く、冷ややかに沈み込んだ。怒鳴り散らすような怒りではない。静かに煮詰まった、底知れない感情の影。
ノクターンは赤紫の瞳でミユを射抜くように見つめた。
「あなたは、あれを信じているのね」
「……あれ……?」
ノクターンはそれ以上、答えなかった。
ステッキを握る手に力を込めながら、ミユは問いかけた。
「あなたは……私に何をさせたいの……!?」
「帰りなさい」
ノクターンの答えは一貫していた。
「……え?」
「あなたの世界へ」
「どうして……っ!? どうしてそんなこと言うの!」
「そこが、あなたのいる場所だからよ」
ミユは唇を噛み締め、可憐なミントブルーの髪とフリルドレス――自分自身の魔法少女としての姿を見下ろした。
「でも……! ここでは私、幸せなの……! みんな私を必要としてくれて、ありがとうって言ってくれて……私、ここにいる方が幸せなんだよ……!」
叫ぶようなミユの訴え。 敵だとしたら、「そんなものは偽物の幸せだ」と否定されると思っていた。
だが、ノクターンは否定しなかった。
「……そう」
短く、ただそれを受け止めるように呟いた。
「だったら、なんで否定しないの……!? 私が幸せになるのが嫌だから、邪魔しに来たんでしょ!?」
ノクターンは掌の上の赤いリンゴに視線を落とし、静かに言った。
「幸福になるなとは、言っていないわ」
「……え?」
ミユの声が詰まる。
「幸せだったのでしょう?」
「……うん」
「楽しかった?」
「……うん」
「なら、それでいいわ」
ほんの一瞬の、沈黙。 ノクターンはふっと目を伏せ、そして再びミユを見つめて言った。
「でも、帰りなさい」
責めるような響きはどこにもなかった。 ミユがこの世界で感じた喜びも、人々に必要とされた充実感も、すべて本物として認めた上で――それでもなお、ノクターンは「帰りなさい」と告げていた。
ノクターンが、静かな足取りで一歩だけミユへと近づいた。 差し出された赤いリンゴが、ミユの目と鼻の先へと持ち上げられる。
「これを食べれば、戻れるわ」
「……本当に? 本当におうちに帰れるの……?」
「ええ」
「何が……起こるの?」
「魔法が消える」
「……っ」
ミユは息を呑んだ。
「……魔法が……消える?」
「ええ。あなたが魔法少女である必要がなくなるわ。この世界との繋がりはすべて断ち切られる」
そして、ノクターンは言葉を繋いだ。
「あなたは、まだ戻れる」
「……まだ……?」
ミユはその引っかかる言い回しに、小さく眉をひそめた。
だが、ノクターンは何も答えなかった。 ただ、灰白色の髪の隙間から覗く暗紅の瞳で、ほんの少しだけ悲しそうにミユを見つめるだけだった。
「どうして……私のことを知ってるの?」
ミユの背筋を揺らしていたのは、単なる敵意への恐怖ではなかった。 目の前の魔女が、自分自身すら気づいていない「何か」をすべて見通しているかのような、圧倒的な知識の壁に対する恐怖。
「あなたを見ていたからよ」
「……いつから?」
「ずっと」
「……怖いよ」
ミユが正直な恐怖を漏らすと、ノクターンは少しだけ目を伏せた。
「そうでしょうね」
弁解も、取り繕いもしない。 自分自身が恐怖の対象であることを受け入れ、ただ静かにそこに立っている。その姿勢が、かえって彼女の存在の重みを際立たせていた。
ツヤツヤと光る、真っ赤なリンゴ。
ミユは引き寄せられるように、そっと空いた方の左手を伸ばしかけた。
――けれど。
(君は、幸せになっていいんだよ)
脳裏に、シロクマさんのあの優しく温かい声がリフレインした。
学校で「ミユって普通に器用だよね」と言われていた自分が、ここでは「ミユちゃんのおかげだよ!」「ありがとう!」と心から感謝された。 誰かに強く必要とされる快感。自分が世界の中心になれたような、あの特別な感覚。
魔法少女としての「月城ミユ」。
ミユの伸ばしかけた手が、ピタリと途中で止まった。
「……これを食べたら」
「ええ」
「全部、なくなるの……?」
「……そうね」
「魔法少女の私も……?」
「ええ」
「みんなとの……思い出も……?」
ミユの震える問いに、ノクターンは少しだけ言葉を濁した。
「あなたが帰れば……今のままではいられないわ」
ミユは手の中のリンゴを、泣きそうな目で見つめ続けた。
現実へ帰りたい。お母さんやアオイのいる場所に帰りたい。 でも――この手の中にある「特別になれた自分」を、魔法少女として得たすべての承認を、自分自身の手で壊して捨て去ってしまうことが、どうしても怖かった。
沈黙が流れる。
ノクターンはリンゴを無理やりミユの口に押し込もうとはしなかった。手を掴んで強制することもしなかった。
「決めるのは、あなたよ」
低く澄んだ声が、静寂に響く。
「私は、あなたに幸福を捨てろとは言わない。ここで得たものを否定しろとも言わないわ」
ノクターンはミユをじっと見つめた。 その赤紫の瞳には、冷酷さではなく、厳かな覚悟のような光が宿っていた。
「ただ――帰ることを、選んで」
ミユは赤いリンゴを見つめた。
ゆっくりと、もう一度手を伸ばす。 指先が、リンゴの水滴に触れそうになる。冷たい感触が伝わってくる。
けれど――。
ギュッと、手を握りしめて引いた。
「……ごめんなさい」
ノクターンの長いまつ毛が、僅かに揺れた。
「私……」
ミユは涙をポロポロと溢ぼしながら、必死に首を横に振った。
「私……まだ、帰りたくない……っ!」
帰りたかった。でも、すべてを捨てて「何もなかった自分」に戻る覚悟が、今のミユにはまだ持てなかったのだ。
ノクターンは何も言わなかった。 ただ、リンゴを握りしめる彼女の黒い手袋の指先が、ほんの少しだけ、悔しそうに震えていた。
「……そう」
ノクターンは静かにリンゴを下げ、体の脇へと引き取った。
「なら、次はもう少し早く来るわ」
「……え?」
ミユが顔を上げると、ノクターンはすでに背を向けていた。 黒い外套と、長い灰白色の髪が、風もない夜気の中で静かに揺れる。
「次に会うときは――あなた自身が選べるように」
カツン、と靴音がひとつ鳴り響き――。
――暗転。
世界のすべてが、真っ暗な闇の中に溶けて消えた。
悪い魔女はやっつけよう!




