第7話 帰りたい
空はどこまでも甘いピンクと紫色が混ざり合い、夜空には金色の星たちが小さなランタンのように浮かんでいる。
雲の絨毯を踏みしめながら、ミユはどこか浮き立つような足取りで歩いていた。周囲には、キャンディで出来た家々や、風に揺れるピンクのハート型の花々、ふわふわと浮かぶ色とりどりの風船。
いつも魔法少女に変身したあとで目にする、大好きな魔法の世界。
「ミユ、今日はどこに行こうか?」
お隣をトコトコと歩くシロクマさんが、首を少し傾げて尋ねてきた。白い丸い身体に赤いマント、ちょこんと載った王冠。いつもの可愛らしくて優しい姿。
「……遊園地!」
ミユは少しだけ迷った末に、パッと顔を輝かせて答えた。
「いいね、遊園地にしよう! ミユの好きな乗りものがたくさんあるよ!」
二人で顔を見合わせて笑い合う。
夕方の通学路から直接この世界に引きずり込まれた時のあの不気味な感覚は、目の前に広がる輝かしい景色の前で、少しずつ薄れていっていた。
(……まあ、いっか。どうせ十二時になれば、いつものように普通に戻るんだし)
ミユは自分にそう言い聞かせ、シロクマさんの小さな手を取って走り出した。
遊園地は、夢のような場所に満ちていた。
誰も乗っていない、けれど光を放ちながら軽快なオルゴール音を鳴らすメリーゴーラウンド。空高く跳びあがる大きな観覧車。宙に浮く巨大な綿菓子や、かじっても減らないチョコレートのベンチ。
ミユはステッキを振って星の光を散らし、シロクマさんと一緒にアトラクションを遊び尽くした。
「ふふっ、すごい楽しかった!」
観覧車から降り、雲のベンチに腰掛けたミユは、少し息を切らしながら頬を緩めた。胸の中はどこまでも楽しくて、満たされていた。
ふと、手首の小さな時計に目をやる。
【23:40】
「あれ……?」
ミユは首をかしげ、隣で綿菓子をかじっているシロクマさんを見つめた。
「ねえ、シロクマさん。今、何時?」
「23時40分だよ」
「……そっか」
ミユは胸を撫で下ろした。 そうか、まだ23時40分か。楽しい時間に夢中になりすぎて、時が経つのをすっかり忘れていた。
普通なら、あと二十分で魔法が解けて、いつもの自分の部屋へと戻る時間だ。
いつもの、変わらない日常へのカウントダウン。
「じゃあ、もうすぐ戻れるね」
ミユが何気なくそう言った時だった。
「……」
シロクマさんが、ほんの一瞬だけ手を止め、動きを硬直させた。
ほんのわずかな間。
「……そうだね」
シロクマさんはすぐにいつもの愛くるしい笑顔を浮かべ、そう答えた。
その一瞬の間と、どこか引っかかるような声のトーンに、ミユの胸の奥で小さな違和感が芽生えた。
カチ、カチ、カチ――。
世界のどこからか、秒針を刻む静かな音が聞こえてくるようだった。
ミユは雲のベンチに座ったまま、手首の時計の文字盤をじっと見つめていた。
【23:59】
あと、一分。
ミユはゴクリと唾を呑み込んだ。
五十九秒。五十八秒。五十七秒……。
手の中のステッキをギュッと握りしめる。心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていく。
――そして。
【00:00】
長針と短針が、真上でぴったりと重なり合った。
ミユは静かに目を閉じた。 いつものように、世界が暗転し、一瞬の浮遊感とともに自分の部屋のベッドの上へと戻る瞬間を待つ。
……。
……。
十秒が過ぎた。
三十秒が過ぎた。
何の音も、何の光の変化も起きない。 頬を撫でるのは、あの甘いお菓子の匂いが混ざった、ひんやりとした夜風のまま。
「……あれ?」
ミユは戸惑いながらゆっくりと目を開けた。
目の前には、相変わらずピンク色と紫色のファンタジックな夜空。輝く遊園地のイルミネーション。白く柔らかい雲の床。
何も変わっていない。
慌てて自分の時計を見つめる。
【00:00】
針は重なったまま。秒針はピタリと固まり、一微動だにしていない。
「シロクマさん……?」
「うん?」
「……戻らないよ?」
ミユの声が、かすかに震えていた。 隣に座るシロクマさんを見る。シロクマさんは、いつものように穏やかにニコニコと笑っていた。
「そうだね」
いつもの、優しい一言。 けれど、
その「そうだね」という言葉が、ミユの背筋をぞっとするような冷たさで撫で上げていった。
「どうして……?」
ミユは身を乗り出し、シロクマさんの顔を覗き込んだ。
「どうして戻らないの? 十二時になったら魔法が解けて、元の世界に戻るんじゃないの……!?」
シロクマさんは首を少しだけ斜めに傾げた。王冠が小さく揺れる。 そのつぶらな瞳には、微かな悪意すら宿っていない。どこまでも純粋で、無垢で、それゆえに不気味な瞳。
「戻る必要があるの?」
「……え?」
「ここにいるほうが楽しいよ、ミユ」
シロクマさんはトコトコと立ち上がり、ミユの膝の上にポンと丸い手を置いた。
「ミユはここが好きでしょう? 魔法少女の自分が好きでしょう?」
「……す、好きだけど……」
「じゃあ、いいじゃない。ずっとここにいればいいんだよ」
「……っ!」
ミユは言葉を詰まらせた。
ずっとここにいればいい。 さっき自分自身が「ずっと魔法少女だったらいいのに」と望んだ言葉が、そのまま歪んだ形で突き返されているようだった。
シロクマさんの声はどこまでも優しく、ミユを傷つけまいとする慈愛に満ちている。だからこそ、その言葉の異常さが、ミユの胸に重く突き刺さった。
「で、でも……!」
ミユは焦りで喉を乾かせながら、必死に言葉を探した。
「明日……学校があるよ。私、学校に行かなきゃ……!」
「学校?」
シロクマさんは不思議そうに呟いた。まるで「学校」という単語を初めて耳にしたかのように。
「うん、学校。私、高校生だから。明日も授業があって、朝起きて……」
「行かなくてもいいよ」
シロクマさんはあっさりと、なんの迷いもなく言い切った。
「……え?」
「だって、学校より楽しいものがいっぱいここにあるからね。勉強もしなくていいし、嫌な思いもしなくていい。ミユはここで、魔法少女としてずっとみんなを幸せにしていればいいんだよ」
胸の奥が、冷たくざわついた。 ミユは後ずさりするように雲のベンチから立ち上がった。
「でも……友達もいるよ! アオイやリコが、私のこと待ってるし……!」
「友達もいるよ」
シロクマさんはニコリと笑い、広大な魔法世界を小さな両手で指し示した。
「魔法世界にも、たくさんいるよ。ミユを大好きでいてくれる人たちが、助けてほしい人たちが、こんなにたくさんいるじゃないか」
「……っ」
会話が噛み合わない。
ミユは悟った。 シロクマさんにとって、「現実世界」と「魔法世界」の区別なんて、最初から存在していなかったのだ。 彼にとって重要なのは「ミユが幸せかどうか」だけであり、ミユが幸せを感じるなら、現実世界なんて切り捨ててしまえばいいと本気で思っているのだ。
「……ちがう」
ミユは首を横に振った。
脳裏に、一気に溢れ出してきたものがあった。
朝、眩しい光の中で響く目覚まし時計の音。 階下から聞こえるお母さんの「早く起きなさい!」という小言。 食卓に置かれた、温かい味噌汁とトーストの匂い。
学校の靴箱。重い木製のドア。 アオイとリコの、くだらないTV番組の話や新作スイーツの噂話。 数学のテストで「78点」を取った時の、先生の苦笑い。
放課後、グラウンドを走る白石結衣の凛とした姿。 帰り道のコンビニで買う100円のジュース。 自分の部屋。学習机の傷。固いベッド。スマホに届く他愛のないメッセージ。
ミユが「何もない」「退屈だ」「普通のまま終わるのが怖い」と諦め、捨てたがっていた、あの泥臭く無難な日常。
それらが今、怒涛の勢いで胸の中に溢れ返り、ミユの心を激しく揺さぶっていた。
(私……あの日常が、嫌いだったんじゃない……)
ハッとした。
何もない「普通」だった。 誰の特別なヒロインでもなかった。 でも――そこには確かに、自分(月城ミユ)が生きている実感があった。
お母さんが作ってくれたご飯を食べ、友達と笑い、悩み、傷つき、少しずつ歩いていた現実の時間が、そこにはあったのだ。
この甘くて完璧で、何でも叶うお菓子の世界には――本当の自分(月城ミユ)の居場所なんて、どこにもない。
「……私……」
ミユは震える声で、絞り出すように呟いた。
「私……帰りたい……」
生まれて初めて、自分の内側から湧き上がってきた切実な願い。
だが、その声に応えるように風が吹き抜けた瞬間――遠くの闇の中から、カチリ、と静かな足音が聞こえ始めていた。
思わず、自分の右頬をぎゅっと強くつまんでいた。
「あ……痛……っ」
じんわりとした鈍い痛みが皮膚から脳へ伝わっていく。 夢なら覚めるはずだ。幻覚なら、痛覚とともに霧散するはずだった。
ミユはもう一度、今度は手加減をせずに思い切り頬をつねった。
「痛っ……」
やっぱり、痛い。現実と同じ感覚がそこにはあった。
恐る恐る、自分の両手を見る。 指先にはフリルがあしらわれた白い手袋。袖口から伸びる可憐なドレスの腕。視界の隅には、腰まで届く鮮やかなミントブルーの髪が揺れている。 手には、いつも人助けに使っている魔法のステッキ『ケセラセラ・ポッピー』が握りしめられていた。
変身している。自分は今、完璧な「魔法少女」の姿をしているのだ。
「これ……夢じゃないの……?」
かすれた声で呟くと、シロクマさんは丸い手を胸の前で合わせ、優しくうなずいた。
「夢じゃないよ、ミユ」
「じゃあ……っ」
ミユは慌てて周囲を見回した。
誰もいない。 雲の絨毯、キャンディの家々、空に浮かぶ金色に輝く星、ゆっくりと回る巨大な観覧車。 どこからともなく聴こえてくる、楽しげな子供たちの笑い声と、オルゴールの遊園地の音楽。 けれど、街のどこを見渡しても、ミユとシロクマさん以外の「人間」の姿はどこにもなかった。
「……本当に、私……ここにいるの?」
「うん、いるよ。ミユの大好きな魔法世界にね」
「私……」
喉がカラカラに乾いていた。心臓の動悸が耳の奥で激しく打っている。
「私……帰れる……?」
その問いかけに、シロクマさんの動きがぴたりと止まった。
「……」
ほんの二秒か、三秒か。 これまでどんな質問にも食い気味に即答してきたシロクマさんが、ほんのわずかだけ沈黙した。
そして――何事もなかったかのように、ふわっといつもの愛くるしい笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ」
「……何が?」
ミユは後ずさりしながら、問い詰めるように声のトーンを上げた。
「何が『大丈夫』なの……!? 私、元の世界に戻りたいの! 家に戻って、お母さんのご飯を食べて、朝になったら学校に行って……!」
シロクマさんは怒る風でもなく、ただトコトコと愛らしい足取りでミユへと近づいてきた。
見上げるような丸い瞳。赤い蝶ネクタイ。小さな王冠。 いつもミユを勇気づけ、肯定し、優しく寄り添ってくれた相棒の顔。
「大丈夫だよ」
シロクマさんはミユの足元まで来ると、小さな両手を広げ、心からの愛おしさを込めてそう言った。
「僕がいるから」
その言葉に、嘘や偽りは何一つ混ざっていなかった。 シロクマさんは本気で言っているのだ。自分さえ隣にいれば、ミユがどこに居ようと、何を手放そうと、ミユは絶対に幸せでいられるのだと――本気で信じ込んでいる。
純粋で、絶対的な優しさ。 だからこそ、その言葉はどんなナイフよりも鋭く、ミユの背筋を凍りつかせた。
「……でも」
ミユの口から出た小さな拒絶の言葉に、シロクマさんの足がピタッと止まった。
「私……帰りたい」
出会ってから今日まで、シロクマさんの言うことに一度だって逆らったことはなかった。 「君は幸せになっていいんだよ」という彼の言葉を全身で受け止め、信じ切っていたからだ。
けれど、ミユは初めて、はっきりと拒絶した。
「……っ」
一瞬の静寂。
シロクマさんの顔から、表情がすっと抜け落ちた。 口角は上がったままだ。可愛らしい笑みを形作ったままだ。 だが――そのつぶらな黒い瞳から、光が完全に消えていた。まるでガラス玉のように冷たく、何一つ映し出さない目。
「……帰りたい?」
声のトーンはいつもと変わらない。甘く、優しく、可愛らしい声。 ミユは生唾を飲み込みながら、意を決して力強く頷いた。
「うん」
「……どうして?」
首を少しだけ傾げるシロクマさん。 そこには激怒も、裏切られたというショックすらなかった。
ただ純粋に――なぜ目の前の少女が、こんなにも完璧な幸福を捨てて不完全な場所へ戻りたがるのかが、本気で「分からない」というような、無垢で底知れない疑問だけが存在していた。
「お母さんに会いたい」
ミユはポロポロと溢れそうになる涙を必死で堪えながら、自分の想いを言葉に変換していった。
「友達にも会いたい。アオイや、リコや……白石さんにも。みんなと一緒に笑いたい」
「……」
「学校にも行きたい。授業を受けて、テストで落ち込んで、放課後にくだらない話をして……普通の生活に戻りたいの」
シロクマさんは黙ってミユの言葉を聞いていた。
そして、どこか悲しそうに、けれど理解できない子供を諭すように静かに口を開いた。
「でも、ミユは幸せだったでしょう?」
「……うん」
「みんながミユを好きだった」
「……うん」
「みんながミユを必要としてくれた」
「……うん」
「魔法も使えて、誰もがミユに『ありがとう』って感謝してくれた」
「……うん」
「だったら――」
シロクマさんは、ふんわりと優しく微笑んだ。
「どうして帰るの?」
「……っ」
ミユは絶句した。
言葉が詰まる。喉の奥が固まって、何も言い返せない。
シロクマさんの言う通りだった。 自分を承認してくれない、誰も特別扱いしてくれないあの退屈な現実よりも、魔法少女として愛される今の方が、間違いなく「幸せ」だったはずなのだ。
何一つ間違っていない。論理的にも完璧だった。 なのに――どうして自分は、こんなにも涙が出そうなほど、あの退屈な現実に帰りたいと思っているのだろう。
(私……すごく幸せだった)
胸の中で、激しい葛藤が渦巻いていた。
魔法少女になってからの毎日は、夢みたいに輝いていた。 誰かに必要とされ、「ミユちゃん」と名前を呼ばれ、感謝される快感。 自分には何もないというコンプレックスから解放され、世界で一番特別なヒロインになれた喜び。 それに嘘なんて一つもなかった。あの多幸感は、間違いなく本物だった。
幸福だった。最高の毎日だった。
――それなのに。 ――それなのに、帰りたい。
こんなにも幸せなのに、あの何でもない、特別なことなんて何一つ起きない、泥臭くて不完全な「現実」へと帰りたくてたまらない。
「幸せであること」と「帰りたいこと」が、ミユの心の中で激しく衝突していた。
魔法の世界は、甘くて、優しくて、完璧すぎた。 けれど、ここにある「幸福」には、ミユ自身が傷つき、悩んで勝ち取ったものは何一つない。シロクマさんが与えてくれた、箱庭の幸福でしかなかったのだ。
たとえ退屈でも、たとえ落ち込むことがあっても、自分が生き、積み重ねてきたあの現実の場所にしか――「月城ミユ」という人間の本当の居場所はないのだと、彼女の魂が叫んでいた。
「……」
黙り込んでしまったミユを見つめながら、シロクマさんはゆっくりと眉尻を下げた。
それは、怒りでも冷徹さでもなく――ただただ「困惑」した表情だった。
泣きじゃくる幼子を前にして、「どうしてこの子は泣いているんだろう? こんなに楽しいおもちゃがあるのに」と、根本的な理由を理解できずに途方に暮れている子供のような、幼く不気味な困惑。
シロクマさんは、小さくうつむいた。
「……そっか」
ポツリと漏らした声。 そして、すぐにパッと顔を上げた。
そこにあったのは、やはりいつもの、完璧で愛くるしい笑顔だった。
「でも、大丈夫だよ」
「……」
「怖くないよ、ミユ」
「……シロクマさん……」
「僕がいるから」
さっきと同じ台詞。 まったく同じ、柔らかく包み込むような声音。
だが、冒頭でミユを安心させていたその言葉は、今や逃げることの許されない「永久の肯定」という名の檻となって、ミユの全身に重く重くのしかかっていた。
シロクマさんは、ミユを解放するつもりなど毛頭ないのだ。 ミユが何を思い、何を望もうと、自分と一緒にこの場所で「幸せ」でいさせ続けることこそが、彼の唯一の存在理由なのだから。
……
ミユは、息をのんだ。
そして――。
タッ。
ほんの一歩。 ミユは引きつった足で、シロクマさんから後ろへと距離を取った。
出会ってから初めて、自分から彼を遠ざけるための一歩。
シロクマさんは、追いかけてこなかった。 ただ、雲の床の上にちょこんと立ったまま、ミユを見つめている。
ミユはシロクマさんから目を逸らし、意を決して振り返った。
遠く、お菓子のような街並みと輝く遊園地のイルミネーションの切れ目に、それを見つけた。
魔法世界の中にポッカリと開いた、異質な空間。 輝く星も、ピンクの雲もない。光をすべて吸い込むような、ただ暗く、どこまでも続いている一本の「漆黒の道」。
あの異変の時に聞いた、オルゴールの音でも、笑い声でもない。 遠くから、かすかに車が走る音や、風が街を吹き抜ける無骨な音が聞こえてくるような気がした。
「……帰らなきゃ」
ミユはぎゅっと『ケセラセラ・ポッピー』を抱きしめ、小さく、けれど固い決意を込めて呟いた。
背後で、シロクマさんはずっと笑っていた。
愛らしく上がった口角。 だが、そのつぶらな瞳だけが――光を失った漆黒の奥底で、暗闇へと踏み出そうとするミユの背中を、じっと見つめ続けていた。
とてもhappyな物語




