第6話 異変
――異変は、本当に小さな、注意していなければ見落としてしまうような形で始まっていた。
翌朝。いつもの校舎。 朝のホームルーム前、アオイと並んで廊下を歩いていた時のことだった。
「ねえ、昨日やってたドラマ見た? マジで展開ヤバくてさ―」
「あ、うん……あ」
おしゃべりしながら歩いていたミユは、窓際の花瓶の横で不意に足を止めた。
窓枠の小さな隙間に、見たことのない一輪の花が咲いていた。 淡いピンク色の花びら。その形は綺麗なハート型を描いている。
(……これ、昨日あったっけ?)
「ん? どうしたの、ミユ?」
足を止めたミユを振り返り、アオイが不思議そうに首を傾げる。
「ねえアオイ、この花……」
「花?」
アオイは窓際を見つめたが、きょとんとした顔で首を横に振った。
「何言ってるの? 花瓶に挿してあるスイートピーのこと?」
「ううん、花瓶の横に……」
ミユの指差す先にあるのは、間違いなくあのピンク色のハート型の花だ。あの魔法世界で、雲の床のあちこちに咲いていたものと全く同じ花。
ミユが恐る恐る指先で触れると――花弁が、きらっ、と繊細な光の粒を撒き散らした。
「……っ!?」
ミユが思わず手を引いて瞬きをすると、次の瞬間、そこにあったのはごく普通の、どこにでもある雑草の小さな黄色い花だった。
「……気のせい、か」
「ミユってば、寝ぼけてるのー? 早く行かないと遅刻するよ!」
「あ、うん! 今行く!」
ミユは頭を振って、走っていくアオイの背中を追いかけた。
◇
二時間目、数学の授業中。
黒板に向かってチョークを走らせる先生の背中を見ながら、ミユは退屈しのぎに黒板の上の丸い掛け時計を見上げた。
「……え?」
ミユの動きが固まった。
長針も、短針も、秒針も。 すべての針が真上を向き、ぴったりと重なり合っていた。
【00:00】
ピタリとも動かない秒針。
昼間の十時すぎのはずなのに、時計は「魔法が解ける終わりの時刻」を指し示して停止していた。
「あ……あの、先生」
ミユは思わず手を挙げた。
「ん?どうした月城、解き方が分からないのか?」
「ううん、違くて……教室の時計、止まってませんか?」
「時計?」
先生が振り返り、黒板の上の時計を見上げた。隣の席の生徒たちも一斉に視線を向ける。
「……? 止まってないぞ。ちゃんと【10:25】を指してるが」
「え……」
ミユがもう一度見上げると、時計の針は普通に【10:25】を指し、秒針がカチカチと規則正しく動いていた。
「……すみません、見間違いでした」
「なんだ、しっかりしろよー」
クラスの中に小さな笑いが起きる。 ミユは引きつった笑顔を浮かべながら、机の下で自分の手を固く握りしめた。
(私……どうかしてるのかな)
【00:00】。
あの数字が、一瞬だけ脳裏に強く焼きついて離れなかった。
◇
夕方。放課後の校舎。 日直の仕事を終えたミユは、静まり返った北校舎の廊下を一人で歩いていた。生徒たちの部活の声も遠く、夕闇が長い影を廊下に落としている。
ふと――どこからか、音が聞こえてきた。
♪~♪♪~
(……え?)
ミユは足を止めた。耳をすませる。
それは、電子音のような、どこか切なく懐かしいオルゴールの音色だった。 聞き覚えがあった。あの魔法世界で、遠くからかすかに聞こえていたメロディ。
誰もいないはずの廊下。 なのに、音は少しずつ、少しずつ大きくなっていく。
ジャーン、ジャーン、と軽快なリズムが加わる。 それはまるで、楽し気な遊園地の音楽。メリーゴーラウンドが優雅に回転しているかのような、甘く華やかな音調。
(なんで……学校で、こんな音が……?)
背中に冷たいものが走る。 ミユは吸い寄せられるように、音が聞こえてくる廊下の角へと歩を進めた。角を曲がれば、そこに何があるのか。
そっと、角から顔を出す。
――ピタッ。
音が一瞬で途絶えた。
そこにあるのは、夕日に赤く染まった誰もいない寂しげな廊下だけだった。
◇
気味の悪さを振り払うようにして、ミユは急いで家に帰り着いた。
「ただいま……」
「おかえりー。洗面所で手洗ってきなさいね」
台所から聞こえる母親の普段通りの声に、ミユは心底安堵した。
(やっぱり疲れてるんだ。変な幻聴まで聞こえて……)
自分の部屋のドアを開ける。
「……あ」
ミユの手が、ドアノブの上で止まった。
学習机の上。ノートとペン立てのすぐ隣に、プカプカと浮かんでいるものがあった。
淡いピンク色の、丸い風船。 その紐の先には、小さな黄色い星のチャームが結びつけられている。
(これ……さっきの……ううん、魔法世界にあった風船……?)
ミユは引き寄せられるように部屋に入り、風船の紐に触れた。フワフワとした不思議な手触り。間違いなく、実在している。
「お母さん!」
ミユは廊下に向かって叫んだ。
「なにー?」
「これ……部屋に置いた? 風船!」
台所から母親がやってきて、ミユの部屋のドア越しに中を覗き込んだ。
「風船? 何言ってるの、そんなもの置くわけないでしょ。部屋に何もないじゃない」
「え……? だって、ここ……」
ミユが振り返り、机の上を指差した。
――ない。
さっきまで指先で触れていたはずの風船は、影も形も消え去っていた。
「……ミユ、最近ちゃんと寝てる? なんだかボーッとしてるわよ」
「……ううん、ごめん。なんでもない
翌朝。 朝食の匂いに包まれたリビング。
「ミユ、ご飯できたわよ。早く座りなさい」
キッチンで味噌汁を器に注いでいた母親が、ミユの方を振り返った。
「――っ!?」
ミユの息が止まった。
一瞬。本当に、コンマ数秒の出来事だった。
振り返った母親が纏っていたのは、いつものエプロン姿ではなかった。 フリルとリボンが過剰にあしらわれた、鮮やかなピンク色のドレス。髪は光を弾くように輝き、胸元にはキラキラとした宝石の装飾。顔は間違いなく母親のそれなのに、その格好は完全に「魔法世界の住人」のドレスコードだった。
「……お母さん?」
ミユが血の気を引かせて呟くと、パチンと瞬きをした瞬間、母親はごく普通のエプロン姿に戻っていた。
「なに? ボーッとしてないで、冷めないうちに食べなさい」
「……あ、うん……なんでもない……」
ミユは震える手で箸を握りしめた。
おかしい。何かが、決定的に狂い始めている。 けれど……どこかで、胸の奥が熱く疼いている自分もいた。 あのキラキラとした愛おしい魔法世界が、自分の現実に近づいてきてくれているような、恐ろしくも甘い予感。
その夜。 お風呂上がり、ミユは自分の部屋で姿見の前に立っていた。
鏡に映るのは、濡れた黒髪を拭いている、スウェット姿の自分。
「今日は疲れたね、ミユ」
ふと、背後から声がした。 振り返ると、ベッドの上にいつものシロクマさんが座っていた。白い丸い身体に、赤いマント。王冠をちょこんと頭に載せて、ニコニコとこちらを見ている。
「うん……なんか、最近変なんだよね。幻覚みたいなのが見えて……」
ミユは溜め息をつきながら、再び鏡へと目をやった。
そして――全身の血が凍りついた。
鏡の中に映っているのは、黒髪の自分一人だけだった。
自分のすぐ後ろ、ベッドの上に座っているはずのシロクマさんの姿が、鏡の中にはどこにも映っていないのだ。
「……っ」
ミユは勢いよく後ろを振り返った。 いる。そこには間違いなく、立体的なシロクマさんが存在している。
「……シロクマさん」
「なあに?」
「……鏡……」
「うん?」
シロクマさんはトコトコと歩いて姿見の前まで来ると、自分の手を出して鏡を覗き込んだ。
鏡の中には、誰もいない。ミユの足元には、何も映っていない。
「……あれ?」
シロクマさんは困ったように頭を掻き、てへっと可愛らしく首をかしげた。
「変だね」
理由の説明はなかった。 ただ、そのつぶらな瞳が、暗がりの中で爛々と輝いているように見えた。
きっと幸せになります。




