第5話 ずっと魔法少女だったらいいのに
魔法少女の力を手に入れてから最初の数日間、ミユの毎日はこれ以上ないほど充実していた。
「ミユ、おはよー!」 「おはよう、アオイ! リコ!」
朝、学校の昇降口で友達と合流し、賑やかに校舎に入る。 授業を受け、昼休みになればお弁当を突き合いながらくだらない話で笑い転げる。
そして放課後――チャイムが鳴ると同時に、ミユの本当の「特別」が始まる。
物陰で『幸福』の缶を開け、鮮やかなミントブルーの髪と可憐な衣装を身に纏う。街へ繰り出し、迷子の子供を案内し、困っているお年寄りを助け、誰かの小さな願いを叶える。
「ミユちゃん、ありがとう!」 「ミユちゃんのおかげだよ!」
夕闇の街で響く感謝の声。 夜になればシロクマさんと今日あった出来事を楽しく振り返り、午前零時を迎えて静かに元の姿へと戻る。
(学校も楽しい。友達もいる。……そして、魔法少女として誰かを助けることもできる)
ベッドに入りながら、ミユは満足感に浸っていた。 昼の「普通の自分」と、放課後の「特別な自分」。そのどちらも諦める必要はない。自分は二つの世界を器用に両立し、そのどちらからも愛されているのだと。
すべてを手にしている。そんな全能感すら抱いていた。
変化は、本当に些細なところから、静かに始まっていた。
「ねえねえミユ、今日さ! 駅前に新しくできたタピオカのお店行かない? リコも行くって!」
放課後。終礼が終わると同時に、アオイがミユの席にやってきて嬉しそうに誘ってきた。以前のミユなら、二つ返事で「行く!」と答えてカバンを担ぎ直していたはずの誘いだった。
けれど――ミユの視線は、無意識に教室の壁に掛けられた時計へと向かっていた。
(今からカフェに行ったら……二時間は潰れちゃうな。それだと、今日街をパトロールする時間が減っちゃう……)
放課後の数時間は、ミユにとって魔法少女として一番活発に動ける貴重な時間だった。夕方の街には、助けを求めている人がたくさんいるのだ。
「あ……ごめんね、アオイ。今日はちょっと……用事があって」
ミユは申し訳なさそうな顔を作って首を振った。
「えー、用事? 最近ミユ、放課後すぐ帰っちゃうよね。付き合い悪くないー?」
アオイは頬を膨らませて笑いながら冗談っぽく言った。嫌味や怒りの籠もっていない、親しい友達同士の軽口だ。
「ごめんね! また今度、絶対に一緒に行こう!」
「はーい、約束だからね!」
手を振って教室を後にするアオイとリコの背中を見送りながら、ミユはフゥと小さな息を吐いた。
誰も傷ついていない。友達関係が壊れたわけでもない。 ただ、ミユの中で天秤の傾きが、ほんの少しだけ「魔法少女」の方へと傾いただけだった。
学校を出て人気のない場所で変身したミユを待っていたのは、今日も熱烈な歓迎と救助の要請だった。
「ミユちゃん! 助けて!」 「ミユちゃん、お願いがあります!」 「こんなこと頼めるの、ミユちゃんしかいないんです!」
SNSを通じて、あるいは街で直接、ミユのもとには毎日のように悲鳴や願いが寄せられていた。
木の上の猫を助けてほしい。なくした宝物を一緒に探してほしい。病気のおばあちゃんを元気づけてほしい。
どれも切実で、そして――どれもが、ミユを指名していた。
(私じゃなきゃ……ダメなんだ)
ミユは、人々の声を聞くたびにゾクゾクするような熱い感覚を覚えていた。
第1話までのミユは、「私には何があるんだろう」と悩み続けていた。「私」という存在は替えが利くものであり、自分がいてもいなくても世界は何も変わらないと思っていたのだ。
けれど、今は違う。
「ありがとう、ミユちゃん! あなたがいてくれて本当に良かった!」
助けた少女が涙を拭いながらミユの手を握りしめる。 その温もりを感じるたび、胸の奥の空洞が甘い多幸感で完璧に埋め尽くされていく。
(私が必要とされている。私がいないと、この人たちは救われないんだ)
それは、ごく普通の女子高生生活では絶対に味わうことのできない、強烈な中毒性を持った「必要とされる喜び」だった。
翌日。学校の数学の時間、返却された小テストの答案用紙を眺めながら、ミユはぼんやりと溜め息をついた。
「月城、今回のテストは78点か。お前はいつも安定しているな。あと少し踏み込んで頑張れば、もっと上を狙えるぞ」
答案を渡し終えた担当の先生が、悪気なくポンとミユの肩を叩く。
「はは……頑張ります……」
休み時間になると、隣の席の女子生徒がミユのノートを覗き込んで言った。
「ミユって本当に普通に器用だよねー。点数も平均以上だし、提出物も遅れないし。要領がいいっていうかさ」
「そうかな……普通だよ」
笑って流しながら、ミユの心には不完全燃焼のような小さなモヤモヤが残った。
悪くはないのだ。褒められているのだし、怒られているわけでもない。 けれど、ここでの自分はどこまでも「普通に器用な女子生徒」でしかなかった。誰にとっても代替可能な、無難で、目立たない存在。
――一方で、魔法少女の自分はどうだろう。
『ミユちゃん、すごい!』 『ありがとう!』 『あなたがいてくれてよかった!』 『ミユちゃんだけが頼りなの!』
頭の中で響く無数の歓声と、学校での「普通に器用」という静かな評価。 その落差を意識すればするほど、学校にいる時間、制服を着ている時間の自分が、まるで色褪せた退屈な仮面のように思えてくるのだった。
放課後。体育館の方から、陸上部の掛け声が響いてくる。
ミユは校門に向かう途中で足を止め、グラウンドのトラックを軽やかに駆け抜けていく人影を見つめた。
白石結衣だ。
成績は学年トップクラス。陸上部のエースとして大会でも実績を残し、容姿端麗で友達も多い。先生たちからの信頼も厚く、誰からも愛されている完璧な存在。
第1話のミユなら、その輝かしい姿を遠くから見つめ、「それに比べて私なんて……」と強烈な劣等感と虚無感に苛まれていたはずだった。
けれど――今のミユの胸には、そんな焦りや嫉妬はみじんも浮かんでこなかった。
(白石さんは、すごいな……)
走る結衣の姿を眺めながら、ミユはどこか冷静に、客観的にそう思った。
(成績もよくて、部活でも期待されて……学校の中では、本当に完璧な人。……でも)
ミユはカバンの紐をギュッと握りしめた。
(私には、私だけの場所がある)
結衣が学校という世界でどれほど輝いていようと、空を飛ぶことはできない。ステッキを一振りして人の涙を笑顔に変えることも、街中の人々から神様のように崇められることもできない。
自分には、白石結衣にすら踏み込めない「特別で圧倒的な世界」があるのだ。
(結衣は学校で一番だけど……私は、世界で一番になれる)
そう思った瞬間、心の中にスッと優越感が広がった。 第1話で自分を苦しめていた劣等感から完全に解放され、自己肯定感が満たされていくのを感じた。
――けれど、ミユは気づいていなかった。
自分が手に入れたと思っていた「自己肯定感」が、現実の自分自身(月城ミユ)に向けられたものではなく、すべて「魔法少女」という非現実の仮面の上に成り立っているということに。
現実世界の土台から少しずつ足を浮かせ、魔法という甘い毒の沼へと深く沈み込み始めていることに、ミユはまだ何の疑いも抱いていなかった。
夜の公園。外灯の柔らかい光が、足元の芝生を橙色に染めていた。
「ありがとう、ミユちゃん! 風船取ってくれて本当に助かっちゃった!」
「ううん、どういたしまして! 気をつけて帰ってね!」
木の枝に引っかかった風船を取ってあげた小さな女の子が、母親と手を繋ぎながら嬉しそうに何度も手を振ってくる。ミユもステッキを手に、弾けるような笑顔で手を振り返した。
親子が街灯の闇の中に消えていくのを見送ると、ミユは静かに息を吐き、ふと手首の小さな時計に目をやった。
【23:42】
「……っ」
さっきまで満開に咲いていたミユの笑顔が、少しだけ曇った。
残り、あと十八分。
もうすぐ十二時が来てしまう。このドレスも、ミントブルーの髪も、誰かを笑顔にできるこの魔法の力も、全部奪われて「普通の自分」に戻されてしまう。
「今日もたくさん笑顔を見られたね、ミユ」
宙に浮いたシロクマさんが、丸い手をパチパチと叩きながら優しく語りかけてきた。
「……うん。楽しかった」
ミユはステッキをギュッと抱きしめ、少しだけ迷うように視線を泳がせた後、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、シロクマさん」
「なあに?」
「……ずっと魔法少女だったらいいのにね」
冗談めかした、でも本心の滲む呟き。 「そんなこと言っちゃダメだよ、学校もあるんだから」と、シロクマさんに嗜められると思っていた。
けれど、シロクマさんは否定しなかった。
小さな王冠を載せた首を少しだけ傾げ、愛くるしい瞳でミユを見つめると、柔らかく微笑んだ。
「そうだね」
「……え? そう思う?」
意外な言葉にミユが振り返ると、シロクマさんはどこまでも親しみやすく、優しい声で言葉を繋いだ。
「だって、ミユは魔法少女のとき、とっても幸せそうだもの。……幸せな時間が、ずっと続けばいいのにね」
「……っ」
その言葉は、まるで冷えた体に温かいスープが沁み込んでいくように、ミユの胸の深くにじんわりと広広がっていった。
そう、私は幸せなのだ。この場所で、この姿でいる時だけが、本当の「私」なのだ。 シロクマさんは私の味方だ。私の「幸福」を、誰よりも理解してくれている――。
こちらは、12話構成となっております。
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