第11話 魔女狩り
シロクマさんが、トコトコと一歩前へ踏み出した。
「ダメだよ、ノクターン」
シロクマさんの愛くるしい声が響く。だが、その声には温かさの反面、底知れない冷徹な「固定」の意思が宿っていた。
「ミユは、ここで幸せになるんだ」
「……させないわ!」
ノクターンが叫び、黒い手袋の指を弾いた。
瞬間――カチ、と重厚な歯車の音が世界を揺らした。
時計塔の針が狂ったように逆回転を始める。【00:00】から【23:59】へ。 世界が激しく明滅し、一瞬にして遊園地のイルミネーションが吹き消され、周囲に“異物”が混ざり込んだ。
――夕暮れ時の、誰もいない学校の廊下。 ――使い古された学習机と、乱雑に置かれたミユの通学カバン。 ――「ミユ、ご飯できたわよー」という、遠い記憶の底から響く母親の温かな呼び声。
「っ……あ……!?」
ミユの胸がぐっと締め付けられる。現実世界の匂い、温度、光が、視界を強烈に侵食していく。ノクターンの力――「境界」を切り裂き、時間の針を強引に戻して「現実を取り戻す」攻撃。
だが、シロクマさんは逃げなかった。
「無駄だよ」
シロクマさんが丸いててをポンと叩くと、巨大な観覧車が重低音を立てて逆回転を始めた。
ゴオン! と暴走するメリーゴーラウンドから剥がれた木馬たちが、疾風となって現実の風景を砕き割っていく。 夜空を埋め尽くすほどの爆烈な花火が打ち上がり、幾千、幾万ものピンクの風船が空を覆い尽くして現実の光景を塗りつぶした。
遊園地そのものが意志を持った怪獣のように激動し、押し寄せる現実の破片を「幸福」の暴力で押し潰していく。
カチ、カチ、カチ――! 【23:59】と【00:00】が激しく交錯し、世界が何度も激しい暗転と明滅を繰り返す。 しかし、世界の天秤はゆっくりと、けれど確実にシロクマさんの「完璧な幸福」へと傾いていった。
ドサッ、と重い音が響いた。
幾重にも重なったお菓子の家とイルミネーションの鉄骨が崩れ落ち、その中心でノクターンが雲の床に膝をついていた。
破れた黒いドレスから、青白い肌が露わになっている。灰白色の美しい髪は乱れ、胸元のアラベスク模様の懐中時計はガラスが木端微塵に砕け散っていた。
それでも――彼女の右手は、あの真っ赤なリンゴを崩れそうな力で固く握りしめていた。
「……っ、ぁ……」
ノクターンは掠れた息を吐きながら、血の気のない顔をゆっくりと上げた。その赤紫色の瞳が、恐怖に震えるミユを捕らえる。
「……まだ……間に合う……」
「ノクターン……」
「お願い……帰って……っ」
喉を詰まらせるような、悲痛な叫び。 冷酷で不気味な「魔女」だったはずの彼女の瞳から、ボロボロと大きな涙の粒が溢れ落ち、頬を伝った。
初めて見せる、感情の崩壊。
「あなたは……まだ……っ、人間でしょう……!?」
「……っ!?」
ミユの身体が、氷付けにされたように固まった。
人間。 そう、自分は高校生の月城ミユで、家族がいて、友達がいて、普通の毎日を生きていた「人間」だ。 どうして自分は、それを忘れようとしていたのだろう。どうして、この現実を壊してまで「魔法少女」であり続けようとしていたのだろう――。
胸の奥で、カチリと何かが嵌まる音がした。
「そうだね。ミユは人間だよ」
どこまでも優しく、どこまでも穏やかな声が流れた。
シロクマさんが、ミユの前にゆっくりと歩み出る。 そして――その丸く可愛らしい真っ白な手の中に、唐突に「それ」は現れた。
キラリと冷たい光を反射する、重厚な鉄の塊。 ファンタジーの魔法世界にはあまりにも不釣り合いな、無骨で黒い――本物の拳銃。
「……え……?」
ミユは自分の目を疑った。息が止まる。
「シロクマ……さん……? それ……なに……?」
シロクマさんは振り返り、いつも通りの愛くるしい笑顔でミユに微笑みかけた。
「大丈夫だよ、ミユ」
「やめてえええええっ!!」
ボロボロのノクターンが、狂ったように叫びながら立ち上がろうとした。雲を這い、手を伸ばす。
「待って! 頼むから待って!! ミユはまだ戻れる! まだ手遅れじゃない!!」
ノクターンの絶叫を、シロクマさんは聞く耳を持たなかった。 黒い銃口が、迷いなく魔女の胸元へと向けられる。
「もう、戻らなくていいんだよ」
引き金が引かれた。
パンッ――!
乾いた爆音が、幸福の国に甲高く響き渡った。
「……あっ」
ノクターンの身体が、ピタリと揺れて止まった。
鮮血が吹き出すことはなかった。 代わりに、彼女の身体から破れた黒い紙片のような、灰のようなものがサラサラと剥がれ落ち、夜風に乗って散っていく。
彼女の着ていた外套が、長い灰白色の髪が、そして凛とした美貌が、黒い落ち葉のようにさらさらと世界に溶けて消えていく。
その崩壊の渦の中心から――ひらりと、一本の髪の毛が舞い落ちた。
灰白色ではない。光を吸い込むような、漆黒の綺麗な髪。 ミユ自身の、元の髪色。
黒髪は静かに雲の上に落ち、そして、彼女のの手からこぼれ落ちた真っ赤なリンゴが、コロコロと音を立ててミユの足元へと転がってきた。
「……あ……これ……」
ミユは引き寄せられるように屈み込み、震える手でその温かい赤い果実を拾い上げた。
果実に触れた瞬間――。
――ドクンッ!!
頭の中で、世界が弾けた。
『ミユ、卵買ってきてくれたー?』
『ミユ、次の授業ノート見せて!』
『月城さんって、本当聞き上手だよね』
『ミユ、また明日ね!』
濁流のような記憶の洪水が、ミユの脳内を駆け巡る。
朝、眩しい光の中で食べるお母さんの作った朝食。 少し裾の短い学校の制服。 ガタゴトと揺れる超満員の通学電車。 いつも隣で笑っていたアオイの顔。リコの明るい声。白石結衣の綺麗で憧れた横顔。 赤点ギリギリで落ち込んだ数学のテスト。 買い食いしたコンビニの肉まん。
あの、自販機で「幸福」を買った、静かな午前零時の夜。
何ひとつ特別じゃなかった。 誰かに強く誇れるような自分じゃなかった。 けれど――確かに自分が生きてきた、愛おしく、温かな「月城ミユ」の16年間の日々。
「……私……?」
ポロポロと、涙が溢れて止まらない。 手の中のリンゴを抱きしめ、ミユは呆然と自分の手を見つめた。自分は、月城ミユだ。ここにいるミントブルーの髪の魔法少女なんかじゃない。
そんなミユの頭を、小さな温かい手が優しく撫でた。
「ううん」
シロクマさんが、拳銃をどこかへ消し去り、いつもの愛くるしい瞳でミユを見つめていた。
「もう、そんな子はいないよ」
その言葉は、絶望的な否定だった。 ミユを現実に繋ぎ止めていた唯一の存在――「帰りたい」と願う月城ミユの境界そのものだったノクターンは、もう消えてしまったのだから。
しろくまさんは友達




