第12話 しあわせ
「うっ……ぁ……っ……」
ミユの目から、溢れた涙がぽろぽろと零れ落ちる。 けれど、それは恐怖や絶望の涙ではなかった。恐ろしい魔女が消え、自分を脅かすものが何ひとつなくなったことに対する――底知れない「安心」の涙だった。
「……怖かった……っ」
「うん」
シロクマさんは丸い手をミユの背中に回し、トントンと優しく叩いた。
「でも、もう大丈夫だよ」
「……ありがとう、シロクマさん……っ」
ぎゅっ。
ミユはシロクマさんの小さな身体を、折れんばかりの力で強く抱きしめた。 ふかふかで、温かくて、自分を世界で一番愛してくれる相棒。この存在さえいれば、自分は何もいらない。普通の自分も、退屈な現実も、全部――。
ふと、ミユは視線を足元へ落とした。
そこには、ノクターンが手放した、鮮烈な赤を放つ果実――あの「リンゴ」が転がっていた。
――ぐしゃっ。
湿った鈍い音が響いた。
シロクマさんが小さな足で、迷いなくリンゴを踏み潰したのだ。
真っ赤な甘い果汁が爆ぜ、雲の床の上にべっとりと拡がっていく。現実へ戻るための唯一の境界、その最後の欠片が、無残に砕け散った。
「もう、帰らなくていいんだよ」
シロクマさんは柔らかく微笑み、ミユの涙を丸いててで優しく拭った。
遠く、幸福の国の中心にそびえる時計塔から、重厚な鐘の音が響き渡った。
ゴーン――……ゴーン――……。
ミユが時計塔を見上げる。
文字盤の針が、カタ、と音を立てた。 【23:59】から――寸分の狂いもなく【00:00】へ。
魔法少女の解ける時間。 魔法世界が終わり、冷たい現実のベッドの上で目を覚ます、暗転の刻。
ミユはそっと目を閉じた。 これまでの毎夜がそうであったように、視界が真っ黒な闇に包まれ、ミントブルーの髪が黒髪に戻り、魔法少女の衣裳がダサいパジャマへと変わっていく感覚を待った。
……けれど。
いつまで経っても、暗転は訪れなかった。
光の暖かさが、まぶたの裏を照らし続けている。 風のそよぎも、賑やかな遊園地の音楽も、何ひとつ途切れることがない。
「……あれ?」
ミユはそっと目を開けた。
自分の手を見る。 そこにあるのは、フリルのついたピンクの袖と、白い手袋。 肩にかかる髪の毛をすくってみれば、それは鮮やかで可憐なミントブルーのままだった。
「どうしたの、ミユ?」
不思議そうに首を傾げるシロクマさんに、ミユは時計塔を指差して尋ねた。
「もう……十二時だよ? 魔法が解けて、現実に戻る時間じゃないの……?」
シロクマさんはパッと顔を輝かせ、嬉しそうに笑った。
「うん。でも、もう夜じゃないからね」
「……?」
「ここが、ミユの世界だから」
その言葉と同時に――世界が、劇的な変貌を遂げ始めた。
メリーゴーラウンドの白馬についていた錆やひび割れが、光の粒子となって瞬く間に消えていく。剥げ落ちていた金色の塗料が瑞々しく蘇り、新品以上の輝きを放ち始めた。
観覧車の割れていたガラスが元通りに塞がり、焦げ付いていた何千何万もの電球が一斉に眩しい光を灯す。
お菓子屋さんのショーケースには、永遠に腐ることのない甘いケーキが溢れかえる。 空を埋め尽くす花火。七色の風船。高らかに響き渡るファンファーレ。
錆びつき、崩壊しかけていた廃墟めいた偽りの遊園地は今、何ひとつ不完全なもののない、完全無欠の「幸福の国」へと塗り替えられたのだ。
時間も、変化も、老いも、失う恐れもない。 永遠に完璧なまま固定された、ミユのためだけの世界。
「綺麗……!」
ミユはうっとりと、光に満ちあふれた世界を見渡した。 胸の奥にあった不安も、迷いも、小さなコンプレックスも、すべてが甘い光の海の中に溶けて消えていく。
「行こう、ミユ」
シロクマさんが、ちょこんと可愛らしい手を差し出した。
「うん!」
ミユはその手を取った。 ふたりで仲良く手を繋ぎ、光り輝くパレードの通りへと歩き出していく。
永遠に続く、終わらない幸福の中へ。
――その時。
『ミユ――』
遥か遠く、二度と届かないはずの境界の向こうから、かすかな声が聞こえた。
毎朝、自分を起こしてくれた声。 温かい味噌汁の匂い。 使い古した通学路。 アオイやリコの笑い声。
ミユは立ち止まり、一瞬だけ後ろを振り返った。
ほんの一瞬だけ、胸の奥がキュッと締め付けられ、大切な「何か」を思い出そうとして――。
「……誰?」
ミユは首を傾げた。 何も思い出せない。思い出す必要もない。
だって、自分は魔法少女で、こんなにも特別なのだから。
「私……すごく、幸せだよ」
ミユは心からの笑顔を浮かべ、シロクマさんの手を固く握り直した。
どこまでも明るく、眩しい光に包まれた幸福の国。 闇が訪れることは、もう二度とない。
永遠の真昼の中で、少女は幸せに微笑み続けていた。
END
ハッピーエンドを描きたかったのです。
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