王都の地下にも、水音が
王都までの十日間は、あっという間に過ぎた。
伯爵は、とにかくよくしゃべる人だった。
朝は、昨日泊まった宿の水車の仕組みについて。昼は、すれ違った荷馬車の車輪の軸受けについて。夜は、若いころに南の港町で見たという、潮の満ち引きで動く大時計について。テオが何か一つ答えるたびに、伯爵は手帳を取り出して猛烈な勢いで書きつけ、また次の質問を投げてきた。
従者の若者――ハンスという名前だった――は、三日目あたりから馬車の隅で寝たふりをするようになった。
「いつものことです」
宿の厩で二人きりになったとき、ハンスはため息まじりにそう教えてくれた。
「伯爵様は、面白いものを見つけると、もう止まらないんですよ。テオさんも、覚悟しておいたほうがいいです」
テオは、苦笑するしかなかった。
けれど、伯爵の質問攻めは、少しも嫌ではなかった。むしろ、楽しかった。前の世界の知識を、こんなふうに誰かと夢中で話し合えたのは、生まれて初めてだったから。
旅の途中、ミズハは時々、水筒袋の中から小さな声でささやいた。
「テオ。今、ちょうど真下を通ってる」
街道沿いの何もない野原で。小さな宿場町の石畳の上で。川を渡る橋の手前で。
そのたびにテオは、窓の外の地面を見つめた。
この足の下に、あの石の道がある。崩れて、途切れて、それでも同じ方角へ延びている。
そう思うと、十日の旅も、ちっとも長くは感じなかった。
◇
十日目の昼過ぎ。
馬車が、ゆるやかな丘を登りきった。
「テオ君。ほら、見たまえ」
伯爵が、窓の外を指さした。
テオは、窓から身を乗り出した。
そして、息をのんだ。
丘の下に、王都が広がっていた。
どこまでも続く赤茶色の屋根。その間を縫うように走る、無数の石畳の道。町をぐるりと囲む、灰色の高い城壁。いくつもの尖塔が空に向かって伸び、鐘楼の鐘が、遠くかすかに鳴り響いている。
そして、町の中央の小高い丘の上に、城がそびえていた。
白い石で築かれた、大きな城だった。いくつもの塔が寄り集まり、そのてっぺんで、青地に金の紋章を描いた旗がはためいている。
「あれが、王城だ。国王陛下と、王家の方々がお住まいになっている」
テオは、言葉もなく城を見つめた。
村の何百倍、いや何千倍の人が、あそこで暮らしているのだろう。
(あの地図の、真ん中の大きな丸)
塔のような形。それを囲む、城壁のような線。その真ん中に、王冠を思わせる小さな印。
石板に刻まれていた模様が、目の前の景色とぴたりと重なった。
膝の上で、水筒袋がちゃぷんと揺れた。
「……着いたのね」
ミズハの声は、かすかに震えていた。
◇
フィッツジェラルド伯爵の屋敷は、王都の東の、貴族の屋敷が立ち並ぶ一角にあった。
ほかの屋敷が白い壁に整った庭を構えているなかで、伯爵の屋敷だけは、ひと目で分かった。
屋根の上で、巨大な風見鶏がからからと回っていた。ただの風見鶏ではない。風を受けると、羽根の下から小さな歯車がのぞき、鶏の首がこくこくと上下に動いている。門の脇には、からくり仕掛けの郵便受け。庭の噴水では、石像の魚が順番に口を開けて水を吐き出していた。
「……変わった、お屋敷ですね」
「だろう?」
伯爵は、心底うれしそうに胸を張った。
玄関をくぐると、さらにすごかった。
廊下の壁という壁に、奇妙な道具が飾られていた。何本もの針がばらばらの速さで回る時計。ひとりでにページをめくる書見台。ゼンマイ仕掛けで首をかしげる、真鍮の小鳥。
使用人たちは、その間を慣れた様子で行き来している。
「お帰りなさいませ、伯爵様」
出迎えた白髪の執事が、テオをちらりと見た。
「……また、何か拾ってこられましたね」
「拾ってきたとは失敬な。スカウトだよ、スカウト。こちらは村の発明家、テオ君だ。今日からこの屋敷で暮らしてもらう」
執事は、テオを上から下まで眺めた。
それから、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「左様でございますか。テオ様、ようこそおいでくださいました。執事のセバスティアンと申します。伯爵様のお相手は大変かと存じますが、何かございましたら、遠慮なくお申しつけください」
「は、はい。よろしくお願いします」
テオがぺこりと頭を下げると、セバスティアンは、もう一度だけ口元をゆるめた。
◇
工房は、屋敷の裏手にあった。
扉を開けた瞬間、テオは立ち尽くした。
広い。村の工房が、まるごと十個は入りそうだった。
高い天井から、滑車や鎖がいくつもぶら下がっている。壁際の棚には、鉄の棒、銅の板、真鍮の歯車、硝子の管、革の束が、種類ごとにぎっしりと並べられていた。大きな炉が二つ。旋盤。万力。見たこともない形の工具が、壁一面にかけられている。
奥では、数人の職人たちが黙々と作業をしていた。槌の音。やすりの音。炉のふいごが、ごう、と鳴る。
「どうだね」
伯爵が、テオの顔をのぞき込んだ。
「ここにあるものは、すべて自由に使ってくれたまえ。足りないものがあれば、言ってくれればいくらでも取り寄せよう」
テオは、ゆっくりと工房の中を歩いた。
棚の鉄の棒に、そっと触れる。ひんやりと冷たい、まっすぐな鉄。村では、鍛冶屋のグスタフさんに頼んでも、こんなに長くてまっすぐな鉄は手に入らなかった。
硝子の管を、光にかざす。村では、硝子なんて見たこともなかった。
(これだけあれば……)
頭の中に、いくつもの図面が浮かんでは消えていく。
炉の中で、火の精霊たちがぱちぱちと跳ねていた。グスタフさんの炉の子たちほどではないが、機嫌は悪くなさそうだった。
テオは、腰に下げたグスタフさんの金槌に手を当てた。
「伯爵様」
「うん?」
「ありがとうございます。僕……ここで、たくさん作りたいです」
伯爵は、口ひげをひねって、満足そうに笑った。
「そうこなくては」
◇
その夜。
テオにあてがわれたのは、屋敷の三階の、小さな部屋だった。小さいといっても、村の家の居間より広い。ふかふかの寝台。磨き上げられた机。窓からは、王都の町並みが一望できた。
テオは、窓辺の椅子に座って、夜の王都を眺めていた。
無数の窓に、明かりがともっている。遠くの通りから、酔っぱらいの歌声が聞こえてくる。どこかで犬が吠え、どこかで馬車の車輪が石畳を鳴らしている。
村の夜とは、まるで違った。
テオは、水筒袋から水筒を取り出して、栓を抜いた。
「ミズハ。出てきていいよ」
青い雫が、ふわりと浮かび上がった。
けれど、ミズハはいつものようにくるくると飛び回らなかった。窓辺にじっと浮かんだまま、夜の町を見下ろしている。
「……ミズハ?」
「静かにして、テオ」
ミズハの声は、張りつめていた。
「耳を、澄ませて」
テオは、言われたとおりに耳を澄ませた。
酔っぱらいの歌声。犬の遠吠え。馬車の車輪の音。
その一つひとつが、少しずつ遠ざかっていく。
そして、その奥から――。
ちゃぷん。
テオは、息を止めた。
ちゃぷん、ちゃぷん。
聞こえる。
町の喧騒の、ずっと下。石畳の、さらにその下。足の下の、深い深いところから。
あの夜、村で聞いたのと同じ音だった。たっぷりとした、どこまでも続いていく水の音。
「王都の地下にも……」
「ええ」
ミズハが、小さくうなずいた。
「水の道が、通ってる。それに……」
青い光が、かすかにまたたいた。
「気配がするの。都の子たちの気配が。たくさん、たくさん」
テオは、窓の外に目を凝らした。
見えた。
町のあちこちの、井戸や噴水や水路のそばに、ほのかな青い光がぽつぽつと灯っている。村の井戸の影たちと同じ、水の精霊たちだ。
けれど、その光はどれも弱々しかった。石の隙間に身を寄せ合い、小さく縮こまっている。
「……みんな、怯えてる」
「都には、魔法使いがたくさんいるもの」
ミズハの声が、沈んだ。
「毎日毎日、たくさんの人間に命令されているのよ。『湧け』『流れろ』『従え』って。村の子たちより、ずっと疲れてる」
テオは、窓枠を握りしめた。
それから、おそるおそるたずねた。
「ミズハの、古い友だちは? 都のいちばん大きな泉に住んでたっていう……」
ミズハは、しばらく答えなかった。
青い光を細くして、町の隅々まで探るように、ゆっくりと体を巡らせている。北の水路。南の噴水。東の井戸。西の川べり。
やがて、ミズハは小さく首を振った。
「……わからない」
「わからない?」
「気配が、しないの。あの子の気配だけ、どこにもない」
ミズハの光が、かすかに翳った。
「いなくなっちゃったのか、それとも、どこか深いところで眠っているのか……ここからじゃ、わからない」
テオは、何と言えばいいのか分からなかった。
ミズハは、何百年もその友だちに会っていないのだ。やっとここまで来たのに。
テオは、窓辺に浮かぶ小さな光に、そっと手を差し出した。
ミズハが、その手のひらに静かに降りてくる。ひんやりとした、小さな重み。
「探そう」
テオは言った。
「僕も手伝うよ。王都のいちばん大きな泉がどこにあるのか、明日から調べてみる。きっと、何か手がかりがあるはずだ」
ミズハは、手のひらの上で、しばらくじっとしていた。
それから、小さく、ちゃぷんと揺れた。
「……ありがとう、テオ」
「呼び水だよ」
「え?」
「ミズハが先に、たくさんくれたから。今度は僕の番」
ミズハは、くすりと笑った。
その光が、ほんの少しだけ明るさを取り戻した。
テオは、もう一度窓の外を見た。
夜の王都。弱々しく灯る、青い光たち。そして、町の中央の丘にそびえる、白い王城。
城の窓は、ほとんどが暗かった。
けれど、いちばん高い塔の、いちばん上の窓にだけ、小さな明かりがともっていた。
テオは、目を凝らした。
窓辺に、誰かが立っている。
遠すぎて、顔は見えない。ただ、小さな人影が、じっと窓辺にたたずんで――テオと同じように、夜の王都を見下ろしていた。




