窓辺の王女
「今日は一日、町を見てきたまえ」
翌朝、朝食の席で伯爵はそう言った。
「工房はいつでも使える。だが、王都の空気を知らない発明家に、王都の人々の役に立つものは作れんよ。まずは歩いて、見て、聞いてくることだ」
伯爵はそう言って、テオに小さな革袋を手渡した。中で、銀貨がちゃりんと鳴った。
「昼飯代だ。屋台の串焼きは、東の市場の角の店がいちばんうまい」
「あ、ありがとうございます」
テオは、革袋を両手で握りしめた。
ちょうどいい、と思った。
今日、どうしても探したいものがあったから。
◇
王都の朝は、村の朝とは比べものにならないほど騒がしかった。
石畳の大通りを、荷馬車や辻馬車がひっきりなしに行き交う。両側に並ぶ店からは、パンの焼ける匂いや、なめし革の匂い、香辛料の匂いが流れてくる。呼び込みの声。値切る声。子どもたちの笑い声。
テオは、人の波に押し流されそうになりながら歩いた。
腰の水筒袋から、ミズハがささやく。
「テオ、右。あの路地の奥」
言われたほうに目をやると、路地の突き当たりに小さな井戸があった。石組みの隙間に、青い光が二つ、三つ。テオと目が合いそうになると、さっと奥へ隠れてしまう。
「……昨日の夜と同じだね」
「ええ。どの子も、すっかり人間を怖がってる」
テオは、井戸の前でそっと足を止めた。誰も見ていないのを確かめて、小さく手を合わせる。
(驚かせてごめん。何もしないよ)
石組みの奥で、青い光がおずおずと揺れた。
テオは、また歩き出した。
広場の噴水。大通りの水飲み場。川べりの洗い場。王都には、村とは比べものにならないほどたくさんの水場があった。そのどこにも水の精霊たちがいて、どこでも同じように、身を縮めて隠れていた。
そして、どこにも――ミズハの友だちの気配はなかった。
◇
昼過ぎ。
テオは、伯爵に教わった東の市場の角で、串焼きをかじっていた。
確かに、うまかった。甘辛いたれが染みた肉が、口の中でほろりとほどける。
「坊主、いい食いっぷりだねえ」
屋台のおかみさんが、からからと笑った。恰幅のいい、声の大きなおかみさんだった。
「見ない顔だね。どっから来たんだい」
「南の、山のほうの村です。昨日、王都に着いたばっかりで」
「へえ、そりゃ遠くから。で、王都見物かい?」
テオは、串を持ったまま少し迷ってから、たずねてみた。
「あの……この王都で、いちばん大きな泉って、どこにありますか?」
「いちばん大きな泉?」
おかみさんは、首をかしげた。
「大きな噴水なら、中央広場のが一番だけどねえ。泉ってなると……」
「そりゃあ、『王家の泉』だろう」
隣で串を焼いていた、白髪まじりの親父さんが口を挟んだ。
「王家の泉?」
「お城の中にある泉さ。王都でいちばん古くて、いちばん大きな泉だよ」
親父さんは、炭火をうちわであおぎながら続けた。
「ひいばあさんの話じゃ、大昔はあそこから都中に水が湧いてたんだとさ。王都の井戸も噴水も、もとをたどれば全部あの泉につながってたって。それで、何代か前の王様が城壁で囲って、王家のもんにしちまった」
テオの手が、串を持ったまま止まった。
腰の水筒袋が、ちゃぷん、と大きく揺れた。
「今は、誰も入れないんですか?」
「入れるわけないだろう。お城の奥の奥だ。俺たちみたいなのは、一生拝むこともないさ」
親父さんは笑って、それから少しだけ声を落とした。
「まあ、近ごろじゃその泉も、ずいぶん水が細くなったって噂だがな。お城の魔法使い様たちが毎日呪文を唱えても、さっぱりだってよ」
テオは、親父さんに礼を言って、屋台を離れた。
人ごみを抜け、通りの隅の、誰もいない壁際に身を寄せる。
「ミズハ」
水筒袋の口から、青い光がそっと顔を出した。
その光は、震えていた。
「……そう。そうだったのね」
ミズハの声は、かすれていた。
「あの子が住んでいた泉は、都のいちばん真ん中にあった。都中の水の道が、あそこに集まっていたの。石板の地図の、二重の円のちょうど真ん中」
「それが、今はお城の中……」
「人間に囲われて、毎日命令されて……水も、細くなって」
ミズハは、それきり黙ってしまった。
テオは、通りの向こうを見上げた。
家々の屋根の向こうに、白い王城がそびえていた。
◇
気がつくと、テオの足は城へ向かっていた。
町の中央の丘を登っていくと、やがて道の先に、城を囲む深い堀が見えてきた。堀の向こうには、灰色の石を積み上げた城壁。その上に、白い塔がいくつも空に向かって伸びている。
正門の前には、槍を持った衛兵が二人、仁王立ちしていた。
テオが堀の手前で城壁を見上げていると、衛兵の一人がじろりとこちらをにらんだ。
「おい、小僧。用もないのにうろうろするな」
「す、すみません」
テオは慌てて頭を下げ、堀に沿って城の裏手のほうへ歩き出した。
城壁は、どこまでも続いていた。高く、分厚く、隙間一つない。この向こうのどこかに、王家の泉がある。ミズハの友だちが住んでいた泉が。
(どうやったら、入れるんだろう)
村の子どもが、王様のお城に。そんな方法、あるはずがない。
テオは、ため息をついて顔を上げた。
そのときだった。
城の北の端に、ひときわ高い塔がそびえていた。
昨日の夜、窓に明かりがともっていた塔だ。
その、いちばん上の窓が、開いていた。
窓辺に、少女がいた。
テオと同じくらいの年ごろだろうか。陽の光に透ける、淡い金色の長い髪。窓枠に頬杖をついて、じっと町を見下ろしている。
遠くて、顔はよく見えない。
けれど、その横顔は、どこか退屈そうに見えた。
それでいて、その目はまっすぐに、町のほうへ向けられていた。赤茶色の屋根の連なりを。市場の人ごみを。城壁の向こうへ延びていく、石畳の大通りを。
まるで、そこへ行きたくてたまらないとでもいうように。
テオは、その場に立ち尽くしていた。
なぜだか、目が離せなかった。
ふと、少女が頬杖をといた。
窓から、少しだけ身を乗り出す。風が、金色の髪をふわりとなびかせた。
そして、その顔が――ゆっくりと、こちらを向いた。
目が合った。
いや、そんなはずはない。塔のてっぺんから、堀の外に立つ子ども一人の顔なんて見えるわけがない。
けれど、少女は確かに、テオのほうを見ていた。
少し首をかしげて。それから、ほんの小さく、片手をひらひらと振った。
テオは、心臓が跳ね上がるのを感じた。
自分に? 本当に?
おそるおそる、テオも手を上げた。ぎこちなく、ひらひらと振り返す。
少女が、くすっと笑ったように見えた。
次の瞬間、少女の後ろから、誰かの腕がにゅっと伸びてきた。少女の肩をつかんで、ぐいっと窓の奥へ引き戻す。黒っぽい服を着た、若い女の人の腕だった。
窓が、ぱたんと閉まった。
テオは、手を上げたまま、ぽかんと塔を見上げていた。
「……テオ」
水筒袋の中から、ミズハの声がした。さっきまでの震えた声ではなかった。どこか、面白がっているような声だった。
「手、下ろしたら?」
テオは、慌てて手を下ろした。顔が熱い。
「い、今の子、誰だろう」
「さあ。お城の塔のてっぺんにいるんだもの、ただの女の子じゃないでしょうね」
ミズハは、少しだけ間をおいて言った。
「あの子、ずっと外を見ていたわね」
「……うん」
「まるで、籠の中の小鳥みたい」
テオは、閉ざされた窓を見上げた。
白い塔の、いちばん上の窓。分厚い城壁と、深い堀に囲まれた場所。
あの子は、あそこから町を見下ろしていた。行きたくてたまらないような目で。
(あの子も、あの壁の向こうに行きたいんだろうか)
それは、なぜだか他人事とは思えなかった。
◇
夕暮れの道を、テオは屋敷へ向かって歩いていた。
頭の中では、二つのことがぐるぐると回っていた。
城の奥の、王家の泉。ミズハの友だちが住んでいたはずの場所。
そして、塔の窓辺の少女。
「ねえ、テオ」
ミズハが、水筒袋から顔を出した。
「さっき、お城のまわりを歩いていたとき、一つだけ気になったことがあるの」
「気になったこと?」
「城の北の、あの高い塔の下。堀の水の、ずっと下のほうから……細い水の道が一本、城の外へ延びてたの」
テオは、足を止めた。
「水の道? 古い水路?」
「たぶん。すごく細くて、すごく古い道。でも、ほかの水の道とは何かが違ったの。水の流れが、ほとんどなくて……まるで、水を通すためじゃなくて、何か別のことに使われてるみたいな」
ミズハは、首をかしげるように光を揺らした。
「誰かが、ときどきあそこを通ってる気がする。人間の、足音みたいなものが残ってたの」
テオは、振り返った。
夕焼けに染まる王城。その北の端にそびえる、高い塔。
窓辺の少女が、いた塔だった。




