城を抜け出した少女
それから二日間、テオは工房にこもりきりだった。
伯爵に頼まれたのは、屋敷の厨房の水汲みを楽にするポンプだった。村で作ったものと仕組みは同じだが、王都の工房には鉄も銅もある。胴体を銅の筒にし、弁を真鍮の金具で留めると、村のポンプよりずっと軽く、ずっと長持ちするものができあがった。
厨房の料理人たちは大喜びし、伯爵は例によって手帳に猛烈な勢いで何かを書きつけた。
けれど、そのあいだもずっと、テオの頭の片隅には、あの北の塔があった。
塔の下から城の外へ延びる、細い古い道。
水がほとんど流れていない、人の足音が残る道。
(あの道は、どこに出るんだろう)
もしかしたら、王家の泉の近くを通っているかもしれない。もしかしたら、村から続くあの古い水路と、どこかでつながっているかもしれない。
三日目の夕方、ポンプの仕上げを終えたテオは、工房の片付けもそこそこに屋敷を出た。
◇
「こっち。もう少し左」
水筒袋の中から、ミズハが道案内をする。
テオは、王都の北のはずれを歩いていた。城の北側をぐるりと回り込み、さらにその先へ。立派な屋敷は少なくなり、古い倉庫や、使われていない粉ひき小屋が並ぶ、さびれた一角に出る。
その先を、細い川が流れていた。
川には、苔むした古い石橋が架かっていた。人通りはない。橋のたもとには雑草が生い茂り、壊れた荷車が一台、打ち捨てられている。
「あの橋の下よ」
テオは、雑草をかき分けて川べりへ降りた。
石橋の下は、薄暗かった。ひんやりとした空気。水の匂い。
橋の根元の石壁に、半円形の小さなアーチが口を開けていた。大人なら四つん這いにならないと通れないほどの大きさだ。その口は、錆びた鉄格子でふさがれている。
「古い排水口……かな」
テオは、鉄格子に顔を近づけた。
格子の奥は、真っ暗だった。けれど、かすかに風が吹き出してくる。ずっと奥まで、どこかへ通じている風だ。
足元を見る。
アーチの手前の泥に、小さな足跡がいくつも残っていた。
子どもくらいの大きさの、靴の跡。
それも、新しい。
(本当に、誰かがここを通ってるんだ)
テオは、鉄格子をつかんでみた。
がたん。
格子が、あっけなく動いた。錆びついているように見えて、実は留め金が外されている。ちょっと持ち上げれば、子ども一人がくぐれるくらいの隙間が開くようになっていた。
「テオ」
ミズハが、急に声をひそめた。
「誰か来る。奥から」
テオは、息を止めた。
耳を澄ます。
かすかに、聞こえた。
ぺた、ぺた、ぺた。
暗いアーチの奥から、足音が近づいてくる。軽い足音だった。それに混じって、衣ずれの音と――小さな、楽しげな鼻歌。
(まずい)
テオは、慌てて辺りを見回した。隠れる場所がない。橋の下は狭く、川と石壁に挟まれている。
ぺた、ぺた。
足音が、すぐそこまで来ていた。
がたん、と鉄格子が持ち上がった。
そして、暗いアーチの中から、茶色い外套のフードをかぶった頭が、にゅっと出てきた。
その頭が、四つん這いのまま顔を上げる。
目の前に、テオがいた。
二人は、まったく同じ姿勢で固まった。
テオは、鉄格子の前で中腰のまま。相手は、アーチから上半身だけ出した四つん這いのまま。
川のせせらぎだけが、橋の下に響いていた。
フードの奥から、大きな瞳がのぞいていた。
春の空のような、澄んだ青い瞳だった。
その瞳が、みるみる大きく見開かれていく。
「――っ!」
相手は、ものすごい勢いでアーチの中へ引っ込もうとした。
ごん。
鉄格子に、思いきり頭をぶつけた。
「いったぁ……!」
「だ、大丈夫!?」
テオが思わず手を伸ばすと、相手は頭を押さえたまま、アーチの中から這い出してきた。立ち上がった拍子に、フードがはらりと外れる。
淡い金色の長い髪が、夕暮れの光にこぼれた。
テオは、息をのんだ。
知っている。
この髪を、知っている。
塔のいちばん上の窓辺で、風になびいていた髪だ。
「あ……」
相手は、頭を押さえたまま、テオの顔をまじまじと見つめた。それから、ぱちぱちとまばたきをした。
「あなた」
青い瞳が、驚きから、ゆっくりと別のものに変わっていく。
「この前、堀の外で手を振ってた子!」
「え……見えてたの!?」
「見えてたわよ。塔の上からだって、ちゃんと見えるもの。わたし、目はいいのよ」
少女は胸を張りかけて、はっと我に返ったように、自分が出てきたアーチを振り返った。それから、テオを振り返った。もう一度、アーチを。もう一度、テオを。
その顔から、すうっと血の気が引いていった。
「……見たわね」
「え?」
「わたしがここから出てくるところ、見たわね」
少女は、ずいっとテオに詰め寄ってきた。思っていたよりずっと背が高い。テオより、頭半分くらい。
「お願い。誰にも言わないで」
さっきまでの勢いはどこへやら、少女の声は必死だった。
「この道のことが知られたら、きっと塞がれちゃう。そうしたら、わたし、もう二度と外に出られなくなる。だから、お願い。誰にも――」
「言わないよ」
テオは、すぐに答えた。
少女が、きょとんとした。
「……え?」
「言わない。誰にも」
テオは、少しだけ笑ってみせた。
「僕も、人に言えない秘密くらい、持ってるから」
少女は、しばらく黙ってテオを見つめていた。疑うような、確かめるような目で。
それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……変な人ね」
「よく言われる」
少女は、くすっと笑った。
塔の窓辺で手を振ったときと、同じ笑い方だった。
◇
「わたしは、リリー」
少女は、外套の泥を払いながら名乗った。それ以上のことは、何も言わなかった。
「僕は、テオ。南の山のほうの村から、四日前に王都に来たんだ」
「四日前? じゃあ、王都はまだ全然知らないの?」
「まあね。市場の串焼き屋くらいしか」
リリーは、なぜだか目を輝かせた。
「それでも、わたしよりはずっと詳しいわ」
「え?」
「わたし、町をちゃんと歩いたこと、ほとんどないの。この道を見つけてから、何度か抜け出してはみたんだけど……いつもこの橋のまわりをちょっと歩いて、すぐ戻ってきちゃうの。一人で遠くまで行くのは、ちょっと怖くて」
リリーは、それから少しだけもじもじして、テオの顔をのぞき込んだ。
「ねえ、テオ。お願いがあるの」
「お願い?」
「町を、案内して」
テオは、目をぱちくりさせた。
「僕が? 四日前に来たばっかりなのに?」
「四日も先輩じゃない」
リリーは真顔だった。
テオは、思わず吹き出しそうになった。
それから、目の前の少女をあらためて見た。
粗末な茶色の外套。けれど、その裾からのぞいている靴は、つやつやに磨かれた上等な革靴だった。泥を払う指先は白く、爪は桜貝のように整えられている。話し方にも、どこか品がある。
(お城に住んでるんだから……貴族のお嬢様、かな)
城には、王様の家族だけでなく、たくさんの貴族や侍女たちも暮らしていると、伯爵から聞いていた。きっと、そのうちのどこかの家の娘なのだろう。窮屈な暮らしが嫌で、こっそり抜け出してきたのだ。
「……ミズハ、どう思う?」
テオは、腰の水筒袋に向かって小声でたずねた。
水筒袋の中から、くすくすと笑う声がした。
「いいんじゃない? あの子、悪い子じゃなさそうよ。それに、テオ、ちょっとうれしそうな顔してる」
「し、してないよ」
「してる」
「――誰と話してるの?」
テオは、跳び上がりそうになった。
振り返ると、リリーが首をかしげて、テオの腰のあたりをじっと見ていた。
「今、誰かと話してたでしょう?」
「え、いや、その……ひ、独り言!」
「独り言で『してないよ』って言い返すの?」
「……言い返すこともある」
リリーは、じとっとテオを見た。
テオは、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
けれど、リリーはそれ以上追及しなかった。ただ、面白いものを見つけたような顔で、小さく笑っただけだった。
「やっぱり、変な人」
◇
「じゃあ、行こうか」
テオは、橋の下から川べりの坂を上ろうとして――ふと、足を止めた。
振り返る。
石壁の、半円形のアーチ。その奥の暗がりに、ほのかな青い光が一つだけ、ぽつんと灯っていた。
水の精霊だった。王都のほかの精霊たちと同じように、小さく身を縮めている。けれど、逃げずにじっと、こちらを見ていた。
この道に、ずっと住んでいる子なのかもしれない。リリーが通るたびに、きっと見守っていたのだろう。
テオは、アーチに向かって、小さく頭を下げた。
(この子を、通してくれてありがとう)
暗がりの中で、青い光がふるりと揺れた。
「……今、何にお辞儀したの?」
リリーが、坂の途中で振り返っていた。
テオは、少し迷ってから答えた。
「道に」
「道?」
「通らせてもらった、お礼」
リリーは、ぽかんと口を開けた。
「道にお礼を言う人なんて、初めて見た」
「変かな」
「変よ」
リリーは、きっぱりと言った。
それから、坂を駆け下りてきた。テオの隣に並んで、アーチのほうへ向き直る。
そして――ぺこりと、頭を下げた。
テオは、目を丸くした。
「いつも、通らせてくれてありがとう」
リリーは、顔を上げて、少しだけ照れくさそうに笑った。
「わたし、何回もここを通ってたのに、一度もお礼を言ったことなかったわ」
アーチの暗がりで、青い光が――ほんの少しだけ、明るくなった。
テオには、それが見えた。
リリーには、見えていない。
けれど、リリーはまるで何かを感じ取ったように、もう一度アーチのほうをじっと見つめて、それから満足そうにうなずいた。
「さあ、行きましょう、テオ」
リリーが、テオの手をつかんだ。
「日が沈んで、夕食の鐘が鳴る前に戻らないと、エマに叱られちゃうの。だから、急いで!」
「エマって――うわっ」
答えを聞く前に、テオは引っ張られていた。
雑草の坂を駆け上がり、さびれた路地を抜けて、夕暮れの王都の町なかへ。
フードを深くかぶり直したリリーの横顔は、塔の窓辺で見たときよりも、ずっとずっと楽しそうだった。




