二人だけの町歩き
夕暮れの王都は、昼間とはまた違う顔をしていた。
通りの軒先に、ひとつ、またひとつとランプが灯っていく。店じまいを始めた八百屋の隣で、夜の屋台が湯気を上げはじめる。仕事帰りの職人たちが、肩を組んで酒場へ吸い込まれていく。
その真ん中で、リリーは立ち止まってばかりいた。
「テオ、見て! あの魚、口が大きい!」
「それはただの鱈だよ」
「テオ、あれは何? 黄色い粉が山みたいに積んであるの」
「たぶん、香辛料じゃないかな……」
「テオ! あの人、帽子に鳥がとまってる!」
「……あれは僕もよく分からない」
リリーは、何もかもに目を輝かせていた。魚屋の桶をのぞき込み、香辛料の匂いに思いきりくしゃみをし、帽子に鳥をのせた男の後ろをついていこうとして、テオに袖を引っ張られた。
テオは、そんなリリーの横顔を見ながら、なんだか不思議な気持ちになっていた。
四日前の自分も、きっとこんな顔をしていたのだ。丘の上から初めて王都を見下ろしたとき。伯爵の工房の扉を開けたとき。
けれど、リリーは違う。
リリーは、この王都で生まれ育ったはずだ。毎日、あの塔の窓から、この町を見下ろしてきたはずだ。
それなのに、まるで初めて見る景色のように、何もかもに驚いている。
(本当に、一度も歩いたことがなかったんだな)
腰の水筒袋の中で、ミズハがちゃぷんと揺れた。
◇
「坊主、また来たね!」
東の市場の角の串焼き屋で、恰幅のいいおかみさんが手を振った。
「おや、今日はかわいいお連れさんまで。どこのお嬢さんだい?」
「え、ええと……友だちです」
「ふうん?」
おかみさんは、にやにやしながら串を二本、炭火の上でひっくり返した。
リリーは、フードを深くかぶったまま、炭火の上で脂を落とす肉を、穴が開くほど見つめていた。
「いいにおい……」
「はいよ、二本ね。熱いから気をつけな」
テオは、伯爵にもらった革袋から銅貨を出して、串を受け取った。一本をリリーに渡す。
リリーは、串を両手で持ったまま、きょろきょろと辺りを見回した。
「……テオ。どこに座るの?」
「座らないよ。歩きながら食べるか、ここで立ったまま食べるんだ」
リリーは、目をまん丸にした。
「立ったまま?」
「うん」
「お皿も、ナイフも、なしで?」
「串だからね」
リリーは、手の中の串をしげしげと眺めた。それから、まわりで同じように串をかじっている職人たちを見た。もう一度、串を見た。
そして、意を決したように、思いきりかぶりついた。
「――っ!」
「あ、熱いって言ったのに」
リリーは、はふはふと口を動かしながら、目に涙を浮かべていた。けれど、ようやく飲み込んだあと、その顔はぱあっと輝いた。
「おいしい……!」
「だろ?」
「すごくおいしい! わたし、立ったまま何かを食べるの、生まれて初めて!」
おかみさんが、げらげらと笑った。
「なんだい、お嬢さん。よっぽどお上品なお屋敷の子なんだねえ」
リリーは、はっとしたようにフードを引っ張った。
テオは、慌てて話をそらした。
「リリー、ほっぺた。たれがついてる」
「えっ、どこ?」
「右。いや、そっちは左……」
リリーは手の甲でごしごしと頬をこすり、たれを顔中に広げた。
テオは、こらえきれずに吹き出した。
リリーは、むっとした顔でテオをにらみ――それから、自分でもおかしくなったのか、一緒になって笑い出した。
◇
二人は、串をかじりながら通りを歩いた。
広場では、大道芸人が人だかりを集めていた。
派手な衣装の男が、手のひらを上に向けて呪文を唱える。
「炎よ、我が手に宿れ!」
ぼっ、と手のひらの上に小さな火が灯った。見物人たちから、拍手と歓声が上がる。
「すごい……! テオ、見た? 手の上に火が!」
リリーは、身を乗り出して拍手をしていた。
テオも拍手をした。けれど、テオの目には、別のものも見えていた。
男の手のひらの上で、赤い小さな火の精霊が、いかにも不機嫌そうに体を揺らしているのが。呪文で呼びつけられ、人前で見世物にされて、むすっと頬をふくらませているのが。
(ごめんな。お疲れさま)
テオが心の中でそう言うと、火の精霊はちらりとこちらを見て、ぷいと顔をそむけた。
それでも、ほんの少しだけ、炎が大きく揺れた。
「わあ……今、火が大きくなった!」
リリーが、また歓声を上げた。
◇
「ねえ、テオ。あなたは、どこに住んでるの?」
広場を抜けたところで、リリーがたずねた。
「伯爵様のお屋敷。フィッツジェラルド伯爵っていう人が、村から連れてきてくれたんだ」
リリーが、ぴたりと足を止めた。
「フィッツジェラルド伯爵? あの、変わり者の?」
「知ってるの?」
「知ってるも何も……」
リリーは何か言いかけて、慌てて口をつぐんだ。それから、ごまかすように咳払いをした。
「……有名な人だもの。孔雀みたいな上着を着て、いつも変なからくりを持ち歩いてるって」
「ああ、うん。そのとおりの人」
テオが答えると、リリーは何かを思い出したように、くすくすと笑い出した。
「そう。あの人のお屋敷に……ふふっ。じゃあ、テオは毎日、からくりの鳥に起こされてるの?」
「よく知ってるね。本当に、からくりの鳥が窓をつついて起こしにくるんだ」
リリーは、お腹を抱えて笑った。
テオは首をかしげた。城に住んでいる貴族の娘なら、伯爵のことを知っていてもおかしくはない。けれど、リリーの笑い方は、遠くから噂を聞いているというより、もっと近くで、何度も伯爵の奇行を目にしてきた人の笑い方に見えた。
(伯爵様の、知り合いの家の子なのかな)
◇
「テオ、あそこに登れる?」
リリーが指さしたのは、王都を囲む城壁だった。
城壁の内側には、ところどころ石の階段があり、見張りの通路へ上がれるようになっている。夕暮れどきには、町の人々が涼みがてら登って、外の景色を眺めるのだと、伯爵から聞いたことがあった。
二人は、長い石段を登った。
てっぺんに着いた瞬間、強い風が吹きつけた。
リリーのフードが、ばさりと外れる。淡い金色の髪が、夕陽の中に舞い上がった。
けれど、リリーは髪を押さえもしなかった。
城壁の向こうを、ただじっと見つめていた。
そこには、どこまでも続く世界が広がっていた。
夕陽に染まった麦畑。その間を縫うように延びる、何本もの街道。遠くに点々と見える、小さな村の屋根。その向こうに、青くかすむ森。さらにその向こうに、薄紫色の山並み。
街道の一本を、荷馬車が一台、ゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。
「……あの道の向こうには、何があるの?」
リリーが、ぽつりとつぶやいた。
テオは、リリーの視線の先を追った。南へ延びる、いちばん大きな街道。
自分が、十日かけて通ってきた道だった。
「あの道をずっと行くと、宿場町がいくつもあって、大きな川を渡って、それから山が見えてくる。その山のふもとに、僕の村があるんだ。馬車で十日」
「十日……」
「何にもない村だよ。畑と、小川と、井戸と。でも、夏の夜は星がすごくきれいで、朝は霧が出て、山が真っ白に見える」
リリーは、黙ってテオの話を聞いていた。
その横顔は、塔の窓辺で見たときと同じだった。退屈そうで、それでいて、行きたくてたまらないような目。
けれど、今はもっと近くて、もっと切なそうに見えた。
「わたしね」
リリーが、ゆっくりと口を開いた。
「生まれてから一度も、王都の外に出たことがないの」
テオは、リリーの横顔を見た。
「毎日、窓から町を見てたわ。あの屋根の下で、どんな人が暮らしてるんだろうって。あの道の先には、どんな町があるんだろうって。でも、どんなに見ても、窓からじゃ何も分からないの」
風が、リリーの髪をなびかせる。
「だから、あの抜け道を見つけたときは、本当にうれしかった。でも、今日、テオと歩いて分かったわ。わたし、王都の中ですら、ほとんど何も知らなかったんだって」
リリーは、城壁の縁に手をついて、遠くの山並みを見つめた。
「あの壁の向こうを、もっと遠くまで見てみたい」
その声は、小さかった。
けれど、テオの胸の奥に、深く深く染み込んでいった。
「テオの村も。その先の山も。海も。この国の、端から端まで、全部」
それから、リリーはふっと笑った。少しだけ、寂しそうに。
「……なんて。無理なのは、分かってるんだけどね」
テオは、何も言えなかった。
言えることが、何もなかった。
ただ、頭の奥に、あの石板の地図が浮かんでいた。
国中に張り巡らされた、無数の線。村から村へ、町から町へ。山の向こうへ、川の向こうへ、森の奥へ。そのすべてが、この王都の真ん中へ集まり、そしてまた、国の端から端まで延びていく。
(あの道を、この子が歩けたら)
そんな考えが、ふと浮かんで――テオは、自分で自分に驚いた。
何を考えているんだろう。あれは崩れて、途切れて、水の流れる真っ暗な地下の道だ。お嬢様が歩けるような場所じゃない。
けれど、その考えは、なかなか頭から離れなかった。
◇
ごーん。
遠く、王城のほうから、鐘の音が響いた。
リリーが、びくっと跳び上がった。
「夕食の鐘!」
「えっ、もう!?」
「まずいわ、テオ! 走って!」
二人は、城壁の石段を駆け下りた。
夕闇の路地を抜け、さびれた倉庫街を駆け抜け、雑草の坂を転がるように下りて、石橋の下へ。
リリーは、息を切らしながら鉄格子を持ち上げた。四つん這いになってアーチに潜り込みかけ――それから、くるりと振り返った。
「テオ」
「うん?」
「今日は、ありがとう。すっごく、すっごく楽しかった」
夕闇の中で、青い瞳がきらきらと光っていた。
「ねえ、また来てもいい?」
テオは、うなずいた。
「三日後。同じ時間に、ここで待ってる」
リリーの顔が、ぱあっと輝いた。
「約束よ!」
それだけ言うと、リリーはアーチの中へするりと消えていった。ぺたぺたという足音が、暗がりの奥へ遠ざかっていく。
テオは、鉄格子をそっと元に戻した。
それから、アーチの奥に灯る小さな青い光に、いつものように頭を下げた。
(あの子を、ちゃんと送り届けてあげてね)
青い光が、ふるりと揺れて、足音を追うように奥へ消えていった。
帰り道、腰の水筒袋の中から、ミズハがくすくすと笑う声がした。
「テオ。三日後が、待ち遠しいって顔してる」
「……してないって」
「してる」
テオは何も言い返せず、夜空を見上げた。
一番星が、王城の北の塔の真上で光っていた。




