王女様だったなんて
三日後の夕方。
テオは、石橋の下で待っていた。
川のせせらぎ。風に揺れる雑草。橋の上を、ときどきカラスが横切っていく。
鉄格子の向こうの暗がりは、しんと静まり返っていた。
ぺたぺたという足音も、楽しげな鼻歌も、聞こえてこない。
テオは、何度も鉄格子の奥をのぞき込んだ。そのたびに、アーチの奥の小さな青い光――抜け道に住む水の精霊が、困ったように揺れるだけだった。
日が傾いていく。
川面が、橙色から紫色へと変わっていく。
ごーん。
王城のほうから、夕食の鐘が鳴った。
テオは、鉄格子の前にしゃがみ込んだまま、その音を聞いていた。
リリーは、来なかった。
◇
「テオ。あの子に聞いてみたわ」
帰り道、水筒袋の中から、ミズハが小さな声で言った。
「抜け道の子。あの子、人間の言葉はほとんど話せないけど、わたしとなら少しは話ができるの」
テオは、足を止めた。
「それで? リリーは?」
「……三日前の夜、あの子が戻ったあと、高い部屋で、黒い服の人にすごく叱られてたって」
テオの胸が、ずきりと痛んだ。
「それからずっと、あの子は一度も抜け道に来てないって」
(夕食の鐘に、間に合わなかったんだ)
あの日、二人は城壁の上で長く話しすぎた。鐘が鳴ってから走り出しても、間に合うはずがなかったのだ。泥だらけの外套で、息を切らして戻ったリリーを、誰かが見つけてしまったのだろう。
黒い服の人。
塔の窓辺で、リリーを部屋の奥へ引き戻した、あの腕の持ち主。
(エマって、たぶんあの人だ)
「僕のせいだ」
テオは、うつむいた。
「僕が、もっと早く帰ろうって言っていれば……」
「テオ」
ミズハが、水筒袋の口からそっと顔を出した。
「あの子、叱られてたけど、泣いてはいなかったって」
「え?」
「ずっと、窓の外を見てたって。にこにこしながら」
テオは、北の塔を振り返った。
夕闇の中、いちばん上の窓に、小さな明かりがともっていた。
◇
翌朝。
テオが朝食のパンをかじっていると、食堂の扉がばあんと開いた。
「テオ君! 今日は王城へ行くぞ!」
伯爵だった。今日の上着は、いつにも増してまぶしい金色だった。胸元には、勲章のようなものまでじゃらじゃらとぶら下げている。
テオは、パンを喉に詰まらせかけた。
「お、王城……ですか!?」
「そうとも! 先日、陛下に君の話をしたら、たいそう興味を持たれてね。ぜひ一度、その手押しポンプとやらを見てみたいと仰せだ」
伯爵は、テオの肩をばしばしと叩いた。
「厨房のポンプの小さな模型を作ってあっただろう。あれを持っていく。さあ、着替えたまえ。セバスティアンが、君の服を用意してくれている」
テオは、何がなんだか分からないまま、セバスティアンに引きずられるようにして着替えさせられた。
白いシャツに、紺色の上着。生まれて初めて着る、ぱりっとした服だった。
鏡の前で、セバスティアンがテオの襟元を整えながら言った。
「陛下は、気さくなお方です。ですが、作法だけはお気をつけください。お声がかかるまでは、顔を上げてはなりません」
「は、はい……」
「それから、王妃殿下と王女殿下もご同席なさるかもしれません」
テオの手が、一瞬止まった。
王女殿下。
(王女様……か)
なぜだか、北の塔の窓辺の人影が頭をよぎった。けれど、すぐに首を振った。
あの塔には、たくさんの貴族や侍女が暮らしているはずだ。リリーはそのうちの誰かの家の子で――。
「テオ様? いかがなさいました?」
「い、いえ。なんでもないです」
◇
王城の中は、伯爵の屋敷よりも、さらに何倍も大きかった。
白い大理石の廊下が、どこまでも続いている。天井には、色鮮やかな絵。壁には、歴代の王様の肖像画。すれ違う貴族や侍女たちが、伯爵のまぶしい金色の上着を見て、ひそひそとささやき合っている。
「おや、変わり者の伯爵殿だ」
「今度は何を持ち込むおつもりかしら」
伯爵は、まったく気にしていない様子で、鼻歌まじりに廊下を進んでいく。
テオは、ポンプの模型を両腕に抱えて、その後ろを必死についていった。
腰の水筒袋の中で、ミズハがじっと黙り込んでいた。
「……ミズハ?」
「静かに、テオ。この城の下……」
ミズハの声は、かすかに震えていた。
「ずっと、ずっと下のほうに……何か、とても古いものがある気がするの。でも、分厚い何かに遮られて、よく分からない」
テオは、足元の大理石を見下ろした。
この下のどこかに、王家の泉がある。
◇
謁見の間は、天井の高い、細長い広間だった。
左右に、ずらりと貴族たちが並んでいる。その奥、数段高くなったところに、玉座があった。
テオは、伯爵に言われたとおり、広間の真ん中でひざまずいて、顔を伏せた。
心臓が、口から飛び出しそうだった。
「面を上げよ」
低く、よく通る声がした。
テオは、おそるおそる顔を上げた。
玉座に、一人の男性が座っていた。
四十代半ばくらいだろうか。がっしりとした体つきに、短く整えた金茶色の髭。威厳のある顔立ちだったが、その目元は、どこか人懐っこく笑っていた。
この国の王様――アルバート国王陛下だった。
その隣の、少し低い椅子には、穏やかな微笑みを浮かべた女性が座っていた。淡い金色の髪を、きれいに結い上げている。王妃殿下だ。
「そなたが、フィッツジェラルドの申していた村の発明家か」
「は、はい! テオと申します!」
声が裏返った。
貴族たちの列から、くすくすと笑い声が漏れる。
けれど、国王は気を悪くした様子もなく、むしろ面白そうに身を乗り出した。
「よい、よい。かしこまらずともよい。それで、桶も縄も使わずに井戸の水を汲む仕掛けというのは、それか?」
「は、はい。こちらは、小さく作った模型ですが……」
伯爵の従者のハンスが、水を張った大きな桶を運んできた。テオは、ポンプの模型の管を、桶の中に差し入れた。
震える手で、呼び水を注ぐ。
取っ手を握る。
ぎい、こん。ぎい、こん。
三回目で、模型の口から、水がじゃばっとあふれ出した。
謁見の間が、どよめいた。
「おお……!」
国王が、玉座から腰を浮かせた。
「まことに、桶も縄もなしで水が出るのか!」
「は、はい。中に革の弁があって、空気の押す力で――」
テオが説明しかけた、そのときだった。
広間の奥の扉が、静かに開いた。
「リリー王女殿下、ご入来」
侍従の声が、高らかに響いた。
テオは、何気なく扉のほうへ目を向けた。
そして――凍りついた。
扉から入ってきたのは、一人の少女だった。
空色の、すその長いドレス。結い上げた淡い金色の髪に、小さな銀のティアラ。背筋をまっすぐに伸ばし、しずしずと広間を進んでくる。
その後ろには、黒い服を着た若い侍女が一人、影のように付き従っていた。
少女は、玉座の隣まで進むと、国王と王妃にうやうやしく一礼した。
「遅くなりまして、申し訳ございません、お父様、お母様」
「よいよい、リリー。ちょうど面白いところだ。見てみなさい、この村の発明家殿の――」
国王の言葉に、少女が、こちらを振り返った。
春の空のような、澄んだ青い瞳。
目が、合った。
その瞳が、まん丸に見開かれた。
テオの手から、ポンプの取っ手がすっぽ抜けた。
ばしゃん!
勢いよく跳ね上がった取っ手が、桶の水を盛大に跳ね上げた。水しぶきが、隣に立っていた伯爵の金色の上着に、頭から降りかかった。
「ぶわっ!?」
広間が、静まり返った。
それから、どっと笑い声が起こった。貴族たちが、口元を押さえて肩を震わせている。国王は玉座の肘掛けを叩いて大笑いし、王妃も扇で口元を隠していた。
びしょ濡れの伯爵だけが、なぜだかうれしそうだった。
「いやはや、これはまた、なかなかの水量ですな!」
けれど、テオの耳には、何も入ってこなかった。
(王女……殿下……?)
リリー。
串焼きを立ったまま頬張って、たれを顔中に広げていた、あのリリーが。
城壁の上で、「あの壁の向こうを、もっと遠くまで見てみたい」と言った、あのリリーが。
この国の、王女様。
(王女様だったなんて……!)
テオは、ひざまずいたまま、だらだらと冷や汗を流していた。
玉座の隣で、リリーもまた、完璧な微笑みを顔に貼りつけたまま、固まっていた。ただ、ドレスの裾を握る指先だけが、白くなるほど力んでいた。
「リリー。そなたは、どう思う? この発明を」
国王が、笑いをこらえながらたずねた。
リリーは、ゆっくりと息を吸った。
そして、テオに向かって、優雅に微笑んだ。
「とても、素晴らしい発明ですわ」
それから、ほんの少しだけ、言葉に力を込めた。
「――はじめまして、テオ様」
テオは、喉をごくりと鳴らした。
「は……はじめまして、王女殿下」
二人の視線が、一瞬だけ交わった。
リリーの青い瞳の奥で、何かがいたずらっぽくきらりと光った。
テオは、慌てて目を伏せた。
◇
謁見は、それからしばらく続いた。
国王は、ポンプの仕組みについて熱心にたずね、テオはしどろもどろになりながらも、どうにか答えた。リリーのほうは、一度も見られなかった。見たら、きっと顔に全部出てしまう。アースにも、そう言われたのだ。
やがて、国王が満足そうにうなずいた。
「テオと申したな。実に面白い。そなたとは、また改めて話がしたい。近いうちに、もう一度城へ来てもらおう」
「は、はい! ありがとうございます!」
謁見の間を出たとたん、テオは膝から力が抜けそうになった。
隣で、びしょ濡れの伯爵が、上機嫌で上着の裾を絞っている。
「上出来だよ、テオ君! 陛下は、たいそうお気に召したご様子だ!」
「で、でも、伯爵様の上着が……」
「上着など乾けば済む! それより、陛下の『また改めて』は、本気の『また改めて』だ。これは忙しくなるぞ!」
伯爵は、はっはっはと笑いながら、廊下を大股で歩いていく。
テオは、その後ろをふらふらとついていった。
頭の中は、まだ真っ白だった。
そのときだった。
「――少々、よろしいでしょうか」
背後から、静かな声がした。
テオは、振り返った。
廊下の柱の陰に、黒い服を着た若い女性が立っていた。
謁見の間で、リリーの後ろに影のように付き従っていた侍女だった。きりっとした切れ長の目に、きっちりとまとめた黒髪。年は、二十歳前後だろうか。
その目が、まっすぐにテオを射抜いていた。
伯爵は、もう廊下の角を曲がって見えなくなっていた。
侍女は、音もなくテオに近づいてきた。そして、テオにだけ聞こえる声で、ささやいた。
「王女殿下付きの侍女、エマと申します」
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「七日前の昼過ぎ、北の塔の下の堀の外で――殿下に手を振っていらしたのは、あなた様ですね?」
テオの背中を、冷たい汗がつうっと流れ落ちた。




