宮廷発明家見習い
「こちらへ」
エマと名乗った侍女は、それだけ言うと、すたすたと廊下を歩きはじめた。
テオは、逆らえなかった。
大理石の廊下を曲がり、細い通路を抜け、小さな扉をくぐる。その先は、城の中庭に面した、人気のない回廊だった。柱の間から、手入れの行き届いた薔薇の植え込みが見える。
エマは、回廊の真ん中で足を止め、くるりと振り返った。
「単刀直入にお聞きします」
切れ長の目が、まっすぐにテオを射抜いた。
「四日前の夕方、殿下を城壁の上までお連れしたのも、あなた様ですね」
テオは、息をのんだ。
(全部、知ってる)
ごまかすことは、できそうになかった。この人の目は、嘘を見抜く目だ。
テオは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
「殿下は、夕食の鐘が鳴ってからおよそ半刻後に、泥だらけの外套でお戻りになりました。息を切らして、髪には枯れ草をつけて」
エマの声は、静かだった。静かすぎて、かえって怖かった。
「あの日、わたくしは城中を探し回りました。北の橋の下にも行きました。日が沈んだあとの倉庫街が、どれほど物騒な場所か、ご存じですか」
テオは、うつむいた。
知らなかった。王都に来て、まだ数日だった。夕暮れの町が楽しくて、リリーが楽しそうで、それだけで頭がいっぱいだった。
「殿下に万一のことがあれば、わたくしは一生、自分を許せなかったでしょう」
エマは、一歩、テオに近づいた。
「ですから、お聞きします」
その声が、わずかに低くなった。
「あなた様は、殿下を危険な目に遭わせる方ですか。もしそうなら――ここで、終わりにしていただきます。今後一切、殿下に近づかないと、この場でお約束ください」
回廊に、風が吹き抜けた。
薔薇の葉が、さわさわと揺れる。
テオは、顔を上げた。
腰の水筒袋の中で、ミズハが息をひそめている気配がした。
「……遅くなったのは、僕のせいです」
テオは、エマの目をまっすぐに見返した。
「城壁の上で、話しすぎました。鐘が鳴るまで、時間のことをすっかり忘れてた。王都の夜のことも、何も知らなかった。本当に、ごめんなさい」
テオは、深く頭を下げた。
それから、顔を上げた。
「でも、一つだけ言わせてください」
エマの眉が、かすかに動いた。
「僕、あの子が王女様だなんて知らなかったんです。お城に住んでる、どこかのお嬢様だと思ってた。でも、もし最初から知ってたとしても……たぶん、同じことをしたと思います」
「……なぜです」
「あの子、すごく楽しそうだったから」
テオは、城壁の上のリリーを思い出していた。
夕陽の中で、髪を押さえもせずに、遠くの山並みを見つめていた横顔を。
「串焼きを立ったまま食べて、たれを顔中につけて笑ってました。大道芸人の火に、子どもみたいに拍手してました。それから、城壁の上で、『あの壁の向こうを、もっと遠くまで見てみたい』って」
エマの目が、ほんのわずかに見開かれた。
「生まれてから一度も、王都の外に出たことがないって言ってました。窓から見てるだけじゃ、何も分からないって」
テオは、ぎゅっと拳を握った。
「だから、もしまたあの子が町を歩きたいって言ったら、僕は一緒に行きたいです。でも、今度は絶対に、鐘が鳴る前に送り届けます。危ない場所には行きません。あの子を、危ない目には遭わせません」
それから、少しだけ声を落とした。
「……それでも駄目だって言われたら、もう近づきません。あの子が叱られるのは、嫌だから」
回廊が、しんと静まり返った。
エマは、何も言わなかった。
ただ、じっとテオを見つめていた。値踏みするように。何かを確かめるように。
長い、長い沈黙だった。
やがて、エマは小さく息をついた。
「……殿下も、同じことをおっしゃいました」
「え?」
「あの夜、わたくしがお叱りしたとき。殿下は一度も言い訳をなさらず、ただ『遅くなったのはわたしのせい。あの子は悪くないの』と。それから、窓の外を見て、とても楽しそうに笑っておいででした」
エマは、ふっと視線を中庭の薔薇へ向けた。
「わたくしは、殿下がお小さいころからお仕えしております。殿下が毎日、あの塔の窓から町を見ていらっしゃるのも、ずっとおそばで見てまいりました」
その横顔が、ほんの少しだけ、やわらいだ。
「殿下が外へ出たいと願うお気持ちは――わたくしが、誰よりも存じております」
テオは、はっとした。
「じゃあ、エマさんは……リリーが抜け出してること、前から……」
「北の橋の下の鉄格子」
エマは、中庭を見つめたまま言った。
「錆びついていたはずの留め金が、なぜ外れていたとお思いですか」
テオは、口をぽかんと開けた。
「ま、まさか……」
エマは答えなかった。
ただ、テオのほうへ向き直ったその顔は、さっきまでの冷たい表情とは、どこか違って見えた。
「殿下は、ご自分であの道を見つけたと思っておいでです。どうか、そのままにしておいてください」
「……はい」
「それから」
エマは、指を一本立てた。
「一つ。夕食の鐘の、半刻前には必ず橋の下へお戻りください」
二本目の指。
「二つ。人の多い場所では、決して殿下のフードを外させないこと」
三本目の指。
「三つ。わたくしがこのことを存じていることは、殿下には内緒にしてください。殿下は、ご自分の力で外へ出ているのだと思っておいでのほうが、きっとお幸せですから」
テオは、目をぱちくりさせた。
「それって……」
「黙認いたします」
エマは、きっぱりと言った。
「この三つをお守りいただける限りは。一つでも破られたら、そのときは鉄格子に新しい錠前をつけます。わたくしの手で」
テオは、思わず笑ってしまいそうになった。それから、慌てて背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「約束します。必ず、守ります」
「よろしい」
エマは、すっと身を引いた。
それから、去り際に、ほんの小さな声で付け加えた。
「――殿下を笑わせてくださって、ありがとうございました」
テオが顔を上げたときには、黒い服の背中は、もう回廊の角の向こうに消えていた。
腰の水筒袋の中で、ミズハが、ふうっと長い息をついた。
「……こわかったぁ」
「僕もだよ」
テオは、へなへなと回廊の柱にもたれかかった。
それから、なんだかおかしくなって、一人で小さく笑った。
◇
それから五日後。
テオは、再び王城の謁見の間に立っていた。
今度は、伯爵の付き添いではなかった。国王からの、正式な呼び出しだった。
「テオ。前へ」
アルバート国王の声に、テオは緊張で手足を同時に出しそうになりながら、玉座の前へ進み出た。ひざまずき、顔を伏せる。
左右の貴族たちの列は、前回よりも人数が多かった。ひそひそとささやき合う声が聞こえる。
「あの村の子どもか」
「変わり者の伯爵の、拾い物だそうだ」
「たかが井戸のからくりで、陛下のお呼び出しとは」
玉座の隣には、王妃と、そしてリリーが座っていた。今日のリリーは、淡い若草色のドレスを着ていた。完璧な王女の微笑みを浮かべて、背筋をまっすぐに伸ばしている。
けれど、テオがちらりと目を上げたとき、その青い瞳が、ほんの一瞬だけ、いたずらっぽく細められた気がした。
リリーの後ろには、いつものようにエマが影のように控えていた。こちらは、表情一つ動かさなかった。
「面を上げよ」
テオは、顔を上げた。
国王は、玉座の上で身を乗り出していた。
「テオ。そなたのポンプについて、あれから城の者たちにも調べさせた。仕組みは単純だが、実に理にかなっている。魔法を使わず、誰にでも扱える。それが何よりよい」
国王は、少しだけ声の調子を落とした。
「実はな。今、この城には、水の悩みがあるのだ」
テオの心臓が、どくんと鳴った。
「城の奥に、『王家の泉』と呼ばれる古い泉がある。この王都でいちばん古い泉だ。その泉の水が、ここ数年、年々細くなっておる。宮廷魔法使いたちが毎日呪文を唱えておるが、一向に戻らん」
国王は、玉座の肘掛けを指でとん、と叩いた。
「魔法で戻らぬものを、からくりでどうにかできるとは思っておらん。だが、そなたのような者の目で見れば、魔法使いたちには見えぬものが見えるかもしれん」
テオは、ごくりと喉を鳴らした。
腰の水筒袋の中で、ミズハが、ぴたりと動きを止めたのが分かった。
「そこでだ」
国王は、立ち上がった。
貴族たちのささやき声が、ぴたりと止んだ。
「テオ。そなたを、宮廷発明家見習いに任ずる」
謁見の間が、どよめいた。
「後見人は、フィッツジェラルド伯爵とする。住まいはこれまでどおり伯爵の屋敷でよい。城への出入りを許す。城の水回りをはじめ、そなたの知恵が役に立ちそうなものがあれば、何でも見てまわるがよい」
貴族たちの列の後ろのほうで、伯爵が、ぱちぱちと一人で盛大に拍手をしていた。周りの貴族たちが、迷惑そうに眉をひそめている。
テオは、しばらく何が起きたのか分からなかった。
宮廷発明家見習い。
城への、出入り。
王家の泉を、見てまわる。
「……テオ? 返事は?」
国王が、面白そうに首をかしげた。
テオは、はっと我に返った。それから、額が床につきそうなほど、深く深く頭を下げた。
「つ、謹んでお受けいたします!」
また、声が裏返った。
国王が、楽しそうに笑った。
◇
謁見のあと、テオは侍従に案内されて、城の廊下を歩いていた。宮廷発明家見習いの証だという、銀の小さな徽章を胸につけて。
「テオ様」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、若草色のドレスのリリーが、エマを従えて立っていた。
侍従が、慌てて脇へ退いて頭を下げる。
リリーは、王女らしくしずしずとテオの前まで歩いてきた。
それから、侍従に背を向けた角度で――テオにだけ見えるように、にっと笑った。
「おめでとうございます、テオ様。宮廷発明家見習いですって」
「……その『様』、やめてもらえませんか、王女殿下」
テオが小声で言うと、リリーは扇で口元を隠して、くすくすと笑った。
「あら。そちらこそ、『王女殿下』なんて呼ばないでくださる?」
それから、もっと小さな声で、ささやいた。
「これで、お城の中でも会えるわね。テオ」
テオは、顔が熱くなるのを感じた。
リリーの後ろで、エマが、こほんと小さく咳払いをした。
リリーはぱっと王女の顔に戻り、「では、ごきげんよう」と優雅に一礼して、廊下の向こうへ歩いていった。
エマは、その後ろに続きながら、すれ違いざまに一度だけテオを見た。
その目は、相変わらず切れ長で、冷たそうだった。
けれど、口元が、ほんのわずかに――笑っているように見えた。
◇
その夜、伯爵の屋敷の三階の部屋で、テオは銀の徽章を手のひらにのせて、じっと眺めていた。
窓の外には、夜の王城がそびえている。
北の塔のてっぺんの窓に、小さな明かりがともっていた。
「ねえ、テオ」
水筒から出てきたミズハが、テオの手のひらの徽章の隣に、ちょこんと降りた。
「王家の泉。見てまわっていいって、王様が言ったわね」
「うん」
「あの子の泉よ」
ミズハの声は、静かだった。
けれど、その青い光は、テオが今まで見たこともないほど、強く、まっすぐに輝いていた。
「やっと……会いに行けるかもしれない」
テオは、徽章をぎゅっと握りしめた。
「行こう、ミズハ。一緒に」




