宮廷魔法使いマーリン
「王家の泉に、からくり小僧を? 冗談ではない」
宮廷発明家見習いとして城に通いはじめた、最初の日。
テオの前に立ちはだかったのは、深紅のローブをまとった、背の高い男だった。
宮廷魔法使い長、ヴィクトル。
鷲のように鋭い鼻。きっちりと撫でつけた銀髪。胸元には、宮廷魔法使いの長であることを示す、大きな金の紋章が光っている。
「陛下のお許しはいただいています。城の水回りを見てまわるようにって……」
「水回りなら、厨房でも洗濯場でも好きに見るがいい」
ヴィクトルは、テオを見下ろして鼻を鳴らした。
「だが、王家の泉は別だ。あれは、この国でもっとも古く、もっとも神聖な水源。我ら宮廷魔法使いが、代々その守りを任されてきた場所だ。井戸のからくりしか知らん村の子どもが、うろうろしてよい場所ではない」
「でも、泉の水が細くなってるって……」
テオが言いかけると、ヴィクトルの眉がぴくりと跳ね上がった。
後ろに控えていた若い魔法使いたちが、気まずそうに目をそらす。
「……水が細くなっているのは、一時のことだ。我らの呪文の力が足りぬだけのこと。いずれ、必ず戻る」
ヴィクトルは、ばさりとローブを翻した。
「どうしても泉を見たいというなら、まずは書庫の爺さんにでも、泉の歴史を教わってくるがいい。あの爺さんなら、暇を持て余しているだろうからな」
若い魔法使いたちの間から、くすくすと笑い声が漏れた。
ヴィクトルは、それきり振り返りもせずに、廊下の向こうへ去っていった。
◇
「書庫の爺さん、って誰だろう」
城の廊下をとぼとぼと歩きながら、テオはつぶやいた。
「たぶん、あの人たちに笑われてる人ね」
水筒袋の中から、ミズハが答える。その声は、少し不機嫌そうだった。
「あの赤い服の人、嫌い。あの人のまわりの子たち、みんなすごく疲れた顔してたもの」
テオも、それには気づいていた。
ヴィクトルのローブの裾のあたり、それに後ろの魔法使いたちの肩のまわりに、何体もの精霊がまとわりついていた。水の精霊、風の精霊、火の精霊。どれもぐったりと力なく、まるで鎖でつながれた犬のように、魔法使いたちの後をのろのろとついていっていた。
テオは、通りかかった侍従に書庫の場所をたずねた。
侍従は、なぜだか気の毒そうな顔をして、城の西の端にある古い塔を指さした。
◇
西の塔は、城の中でいちばん古びた建物だった。
螺旋階段を、ぐるぐると登っていく。壁の石はところどころ欠け、窓から吹き込む風がひゅうひゅうと鳴っている。
最上階に、古い木の扉があった。
扉の上の鉤に、小さな銀の風鈴がぶら下がっていた。
ちりん。
テオが扉の前に立つと、風もないのに、風鈴がひとりでに鳴った。
テオは、目を凝らした。
風鈴のまわりを、薄緑色の小さな影がくるくると飛び回っていた。羽根のような、綿毛のような、ふわふわとした体。風の精霊だった。
ヴィクトルのまわりにいた精霊たちとは、まるで様子が違った。楽しそうに風鈴を揺らし、テオの顔をのぞき込むようにして、すいっと扉の隙間に吸い込まれていく。
(……この扉の向こうの精霊たちは、元気だ)
テオは、扉をノックした。
「開いとるよ」
しわがれた声がした。
扉を押し開けると、そこは本の海だった。
床から天井まで、壁という壁を本棚が埋めつくしている。棚に入りきらない本が床に積み上げられ、机の上にも、椅子の上にも、窓辺にも、巻物や羊皮紙が山になっていた。
その本の山の真ん中で、一人の老人が、ロッキングチェアに揺られながら居眠りをしていた。
いや、居眠りをしているように見えた。
長い白い髭が、膝の上まで垂れている。灰色の、くたびれたローブ。頭には、てっぺんの折れたとんがり帽子。
老人の膝の上で、一匹の黒猫が丸くなっていた。
「……あの」
「聞こえとるよ」
老人は、目を閉じたまま答えた。
「ヴィクトルの坊やに、追い払われてきたんじゃろう。陛下が新しく任じられたという、村の発明家殿」
テオは、目をぱちくりさせた。
「どうして、それを……」
「風が教えてくれた」
老人は、ゆっくりと片目を開けた。
驚くほど澄んだ、明るい灰色の目だった。
「――というのは冗談じゃ。城の噂話は、この塔のてっぺんまでちゃんと届くでな。わしはマーリン。宮廷魔法使いの端くれで、今はこの書庫の番人をしておる」
マーリンは、ロッキングチェアをきいきいと揺らしながら、テオを上から下まで眺めた。
「それで? 泉の歴史を教わりに来たのかね」
◇
マーリンは、泉の歴史について、驚くほどよく知っていた。
王家の泉は、王都ができるよりもずっと昔からそこにあったこと。王都という町は、そもそもその泉のまわりに人が集まってできた町だったこと。何代か前の王が泉を城壁で囲い、それ以来、宮廷魔法使いが泉を守るようになったこと。
「泉の水が細くなりはじめたのは、記録によれば、およそ百年前からじゃ」
マーリンは、机の上の古い羊皮紙を指でなぞった。
「最初はほんのわずかじゃった。それが年々、少しずつ、少しずつ。ここ数年は、目に見えて減っておる」
「宮廷魔法使いの呪文でも、戻らないんですよね」
「戻らん」
マーリンは、あっさりと言った。
「戻るはずがないと、わしは思っとる」
テオは、顔を上げた。
マーリンは、机の引き出しから、一冊の古い本を取り出した。表紙は黒ずみ、端はぼろぼろに崩れかけている。
「これはな、この書庫でいちばん古い魔法の書じゃ。何百年も前のものでな、文字も古くて、今の魔法使いはほとんど誰も読めん」
マーリンは、慎重にページをめくった。
黄ばんだ紙に、見たことのない文字がびっしりと並んでいる。テオは、どきりとした。分かれ道の広間の石板に刻まれていた文字に、どこか似ていた。
「ここを見てみい。風を呼ぶ呪文じゃ」
マーリンは、ページの一行を指さした。
「今の呪文は、『風よ、我が声に従え』じゃろう。ところが、この古い書では、こう書いてある」
マーリンは、ゆっくりと読み上げた。
「『風よ、どうか、我が声を聞きたまえ』」
テオは、息をのんだ。
どうか。
お願い。
「ほかの呪文も、みんなそうじゃ。水の呪文も、火の呪文も、土の呪文も。古い呪文には、どれも『どうか』『願わくは』という言葉が入っておる。それが、いつの時代からか消えて、『従え』『命ずる』に置き換わっていった」
マーリンは、古い本をそっと閉じた。
「そして、記録をたどると――魔法の力が弱くなっていったのも、ちょうど同じころからなんじゃよ」
塔の窓から、風が吹き込んできた。
扉の上の風鈴が、ちりんと鳴った。
「わしは若いころ、それを論文にまとめて、宮廷魔法使いたちの前で発表した。『呪文を、昔の形に戻すべきではないか』とな」
マーリンは、白い髭をなでながら、からからと笑った。
「大笑いされたわい。魔法使いが、魔法の力に『どうか』などと頭を下げてどうする、とな。それ以来、わしはこの塔で本の番人じゃ」
テオは、何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなっていた。
この人は、知らないのだ。魔法の正体が、精霊だということを。精霊の姿も見えないし、声も聞こえない。
それなのに、古い本だけを手がかりに、ここまでたどり着いている。
命令ではなく、お願い。
テオが、おばあちゃんから教わったことと、同じところへ。
「……試してみたことは、あるんですか?」
テオは、おそるおそるたずねた。
「古い呪文。『どうか』のほう」
マーリンは、片方の眉を上げた。
「あるにはある。じゃが、どうにも照れくさくてのう。この年になって、風に『どうか』などと言うのは」
「僕、見てみたいです」
テオは、身を乗り出していた。
マーリンは、しばらくテオの顔をじっと見ていた。それから、ふうっと息をついて、ロッキングチェアから立ち上がった。膝の上の黒猫が、不満そうに床へ飛び降りる。
「……まあ、よかろう。笑うでないぞ」
マーリンは、窓辺に立った。
古い杖を、そっと窓の外へ向ける。
そして、ささやくような声で唱えた。
「風よ、どうか、我が声を聞きたまえ」
テオには、見えた。
扉の上の風鈴のまわりにいた薄緑色の風の精霊たちが、ぱっとこちらを振り向いたのが。
それから、うれしそうにくるくると宙を舞い、マーリンの杖の先へと集まっていったのが。
ふわり。
窓の外から、やわらかな風が吹き込んできた。
強い風ではなかった。けれど、机の上の羊皮紙の山が、一枚、二枚、ふわりと宙に舞い上がった。マーリンの白い髭が、やさしく揺れた。部屋中の本のページが、ぱらぱらとめくれていった。
まるで、塔の中が深呼吸をしたようだった。
風が、やんだ。
舞い上がった羊皮紙が、ひらひらと床に落ちてくる。
マーリンは、杖を下ろしたまま、しばらく窓の外を見つめていた。
「……ふむ」
それから、首をかしげた。
「いつもより、少しばかり風が素直じゃったような気がするのう」
テオは、口元がゆるみそうになるのを必死にこらえた。
精霊たちが、マーリンのとんがり帽子のまわりを、はしゃぐようにくるくると飛び回っていた。
「まあ、気のせいじゃろう」
マーリンはそう言いながらも、机の上の手帳に、何やらこっそりと書きつけていた。
◇
床に散らばった羊皮紙を、二人で拾い集めた。
テオが最後の一枚を拾い上げたとき、扉の上の風鈴が、またちりんと鳴った。
風の精霊が一体、テオの目の前をすいっと横切っていった。
テオは、思わずそれを目で追っていた。
窓辺へ。本棚の上へ。マーリンの帽子のてっぺんへ。
「――おぬし」
ふいに、マーリンの声がした。
テオは、はっとして振り返った。
マーリンが、明るい灰色の目で、じっとテオを見ていた。
「今、何を見ておった?」
テオの背中が、ひやりと冷えた。
「え……いえ、その、ほこりが……」
「ほこり、か」
マーリンは、テオの目線の先――自分の帽子のてっぺんを、ちらりと見上げた。
もちろん、マーリンには何も見えない。
風の精霊が、帽子の上でのんきに綿毛の体を揺らしているだけだ。
「さっきもそうじゃった。わしが呪文を唱えたとき、おぬしは窓の外ではなく、扉の上の風鈴のほうを見ておった。それから、わしの杖の先を。まるで、何かが動くのを目で追っておるように」
テオは、何も言えなかった。
マーリンは、しばらく黙ってテオを見つめていた。
それから、ふっと目元をゆるめた。
「……まあ、よい。年寄りの気のせいじゃろう」
マーリンは、ロッキングチェアにどっかりと腰を下ろした。黒猫が、待っていたとばかりに膝の上に飛び乗ってくる。
「テオと言ったな。泉を見たいんじゃろう」
「は、はい」
「明日の朝、もう一度ここへ来なさい」
テオは、目を見開いた。
「わしにも、泉には用があってな。泉の古い記録を、もう一度この目で確かめたいと思っておったところじゃ。わしの付き添いという形なら、ヴィクトルの坊やも文句は言えまい」
マーリンは、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「わしは、これでも宮廷魔法使いの最古参じゃからな。あの坊やが、まだおしめをしておったころから、この城におる」
テオは、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、マーリンさん!」
「さん、はいらんよ。マーリンでいい」
マーリンは、目を閉じた。
もう眠ってしまったのかと思ったころ、ぽつりとつぶやいた。
「――おぬしのような目をした子に会うのは、久しぶりじゃ」
◇
塔の螺旋階段を下りながら、テオは水筒袋をそっと押さえた。
「ミズハ。聞いてた?」
「聞いてたわ」
ミズハの声は、少し震えていた。
「あのおじいさん、わたしたちのことが見えないのに……昔の言葉を、ちゃんと覚えててくれた人がいたのね」
「うん」
「『どうか、我が声を聞きたまえ』……」
ミズハは、その言葉を確かめるように、小さく繰り返した。
「人間がそう言ってくれていたころのこと、わたし、覚えてる。ずっとずっと昔。みんなで、あの水の道を作っていたころ」
テオは、階段の途中で足を止めた。
塔の窓の外に、城の中庭が見えた。
その奥に、高い壁で囲まれた一角がある。たぶん、あの向こうに王家の泉があるのだ。
「明日、だね」
「ええ。明日」
ミズハは、それきり黙ってしまった。
けれど、水筒袋の中で、ちゃぷん、ちゃぷんと、落ち着かなげに水が揺れつづけていた。




