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異世界鉄道王物語  作者: 蒼屋 瑞希
第一部 窓辺の王女と、地下の水音
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16/17

誰にも見えない精霊たち

 翌朝、西の塔の下でテオを待っていたマーリンは、古い羊皮紙の束を抱えていた。


「よう眠れたかね」


「……あんまり」


「じゃろうな。顔に書いてある」


 マーリンは、からからと笑って歩き出した。


 城の中庭を抜け、薔薇の植え込みの脇を通り、奥へ奥へと進んでいく。やがて、灰色の高い壁が行く手をふさいだ。壁には、鉄の鋲を打ちつけた分厚い扉が一つだけ。その前に、槍を持った衛兵が二人立っている。


「マーリン様。本日は、どのようなご用件で」


「泉の古い記録を確かめに来た。こちらは、わしの助手じゃ」


 衛兵たちは、ちらりとテオの胸の銀の徽章を見て、顔を見合わせた。けれど、宮廷魔法使いの最古参に逆らう気はないらしく、黙って扉を開けた。


 ぎい、と重たい音がした。


◇


 扉の向こうは、円い庭だった。


 高い壁に四方を囲まれ、空だけがぽっかりと丸く切り取られている。足元には、白い石畳。その真ん中に、泉があった。


 テオは、思わず足を止めた。


 大きな泉だった。


 円形の石の縁に囲まれた水面は、村の広場がまるごと入ってしまいそうなほど広い。縁の石は、何百年、いや何千年も水に洗われてきたように、なめらかにすり減っている。


 その縁に、模様が刻まれていた。


 波と雫。丸い小石。渦を巻く線。揺らめく炎。


 水、土、風、火。


 村の古井戸の下の、あの水路のアーチに刻まれていたのと、まったく同じ模様だった。


(やっぱり、ここも……)


 テオは、縁に近づいて、水面をのぞき込んだ。


 水は、ひどく少なかった。


 水面は、石の縁から大人の背丈ほども下がっていた。縁の内側には、昔の水位を示す白っぽい線が何本も刻まれている。いちばん上の線は縁のすぐ下。そこから少しずつ下へ。今の水面は、いちばん下の線よりもさらに下にあった。


 水はどんよりと濁って、底が見えない。


 そして――。


 テオは、息をのんだ。


 泉の縁の石組みの隙間に、水面に、水の中に。


 水の精霊たちが、びっしりと身を寄せ合っていた。


 百を超えるかもしれない。けれど、そのどれもが色を失いかけ、薄く透けて、石の隙間にぐったりと張りついていた。王都の町の水場の精霊たちよりも、ずっと疲れきっていた。


「……ひどい」


 テオは、つぶやいた。


 腰の水筒袋が、がたがたと震えていた。


「テオ」


 ミズハの声は、今にも泣き出しそうだった。


「出して。お願い、出して」


 テオは、マーリンが羊皮紙を広げて泉の縁を調べているのを確かめてから、そっと水筒の栓を抜いた。


 ミズハが、弾かれたように飛び出した。


 そして、まっすぐに、泉の真ん中へ。


 水面に飛び込み、濁った水の中へ、青い光がぐんぐん沈んでいく。


 テオは、縁から身を乗り出した。


 濁った水の奥で、ミズハの光が、何かの前で止まった。


 それは、泉のいちばん底の、真ん中にいた。


 大きな、水の精霊だった。


 ミズハの何倍もある。丸く体を縮めて、まるで眠る子どものように、泉の底の石にうずくまっている。その形は、咲きかけたまま閉じてしまった、大きな水の花のようにも見えた。


 けれど、その体には、色がほとんど残っていなかった。灰色に近いくすんだ色で、今にも水に溶けて消えてしまいそうだった。


 ミズハが、その精霊のまわりをくるくると回った。


 水の中から、ミズハの声がかすかに聞こえてくる。テオには聞き取れないほど長い、流れるような名前を、何度も、何度も呼んでいる。


 大きな精霊は、動かなかった。


 ミズハが、その体に寄り添う。小さな青い光が、灰色の体に、ぴったりと身を寄せる。


 ほんの一瞬だけ、大きな精霊の体の奥で、かすかな光がまたたいた。


 けれど、それきりだった。


◇


 ミズハが水面に戻ってきたのは、ずいぶん経ってからだった。


 テオは、マーリンに見えないよう、泉の縁の陰にしゃがみ込み、両手で水をすくうようにしてミズハを受け止めた。


 ミズハの光は、ひどく弱っていた。


「……あの子だった」


 ミズハは、テオの手のひらの中で、小さく震えていた。


「わたしの、古い友だち。ずっと会いたかった子」


「起きなかったの?」


「眠ってるの。深く、深く。わたしが何度呼んでも、聞こえてないみたいに」


 ミズハは、手のひらの上でうずくまった。


「まわりの子たちが、教えてくれたの。道が途切れて、外から水が来なくなってから……あの子は、たった一人で、この泉を支えてきたんだって。百年も。自分の力を、少しずつ、少しずつ水に変えて」


 テオは、泉の縁に刻まれた白い線を見た。


 少しずつ下がっていく水位の線。あれは、あの子の力が削られていった跡だったのだ。


「それなのに、人間たちは毎日、あの子に命令するの。『湧け』『満ちよ』『従え』って。あの子にはもう、そんな力なんて残ってないのに」


 ミズハの声が、かすれた。


「このままじゃ、あの子……」


 その続きを、ミズハは言わなかった。


 言わなくても、テオには分かった。


◇


「おや。からくり小僧が、なぜここにいる」


 背後から、冷たい声がした。


 テオが振り返ると、壁の扉から、深紅のローブの一団が入ってくるところだった。


 先頭に立つのは、宮廷魔法使い長のヴィクトル。その後ろに、若い魔法使いたちが五人、六人と続いている。


「わしの助手じゃよ」


 マーリンが、羊皮紙から顔も上げずに答えた。


「泉の記録を調べるのに、若い目が要ってな」


 ヴィクトルは、露骨に顔をしかめた。けれど、それ以上は何も言わず、泉の縁の正面に進み出た。


「始めるぞ」


 魔法使いたちが、泉を囲むようにずらりと並んだ。


 一斉に杖を掲げる。


 そして、声をそろえて唱えはじめた。


「水よ、我らが声に従え! 湧け! 満ちよ! この泉を満たせ!」


 テオには、見えた。


 泉の縁の精霊たちが、びくりと体を跳ね上げたのが。


 怯えて、縮こまって、それでも逃げ場がなくて、石の隙間で震えているのが。


「従え! 満ちよ!」


 声が、さらに大きくなる。


 泉の底で、あの大きな精霊が――かすかに、身をよじった。


 眠ったまま、苦しそうに。


 その灰色の体から、ほんのわずかな光が絞り出されるように滲み、水に溶けていく。泉の水面が、指一本分ほど、ゆらりと持ち上がった。


「おお……!」


 若い魔法使いたちから、声が上がった。


「水位が上がったぞ!」


「さすがはヴィクトル様だ!」


 ヴィクトルは、満足そうに杖を下ろした。


「見たか。我らの呪文は、まだ泉に届いておる。もっと力を込めれば、必ず戻る。明日からは、朝と夕の二度にするぞ」


 テオの手が、震えていた。


 泉の底で、大きな精霊が、さっきよりもさらに薄くなっていた。


 ミズハが、テオの手のひらの中で、声にならない声を上げた。


(二度? 朝と夕の、二度?)


 そんなことをしたら。


「――やめてください」


 気がつくと、テオは立ち上がっていた。


 魔法使いたちが、一斉に振り返った。


「……今、何と言った」


 ヴィクトルの目が、すうっと細くなった。


 テオは、拳を握りしめた。


「そんなふうに命令したら、駄目なんです。泉が……泉が、嫌がってます。もう、力が残ってないのに、無理やり絞り出させてるだけなんです。このままじゃ――」


 一瞬、庭が静まり返った。


 それから、魔法使いたちの間から、どっと笑い声が起こった。


「泉が、嫌がっている?」


「からくり小僧は、泉とおしゃべりでもできるのか?」


 ヴィクトルだけは、笑っていなかった。


 冷たい目で、じっとテオを見下ろしていた。


「小僧。ここは、おまえの村の井戸とは違う。この国でもっとも神聖な泉だ。その守りを、何も知らぬ子どもが口出しするな」


 テオは、唇を噛んだ。


 言いたいことは、山ほどあった。


 見えないのか。あんなに怯えている精霊たちが。泉の底で、たった一人で百年も泉を支えてきた、あの子が。


 けれど、言えなかった。


 見えるのは、自分だけなのだ。


 この庭にいる誰にも、あの子たちは見えない。どんなに叫んでも、どんなに説明しても、誰にも届かない。


(誰にも、見えないんだ)


 テオは、生まれて初めて、それを心の底から思い知った。


「――ヴィクトル」


 静かな声がした。


 マーリンが、羊皮紙を丸めながら、ゆっくりと立ち上がっていた。


「子どもの言うことに、そう目くじらを立てるでない。わしらの用は済んだ。邪魔をしたな」


 マーリンは、テオの肩にぽんと手を置いた。


「行くぞ、テオ」


 テオは、マーリンに肩を押されるようにして、扉のほうへ歩き出した。


 背後で、ヴィクトルの声が響いた。


「続けるぞ。水よ、我らが声に従え!」


◇


 扉の外に出たとたん、テオは壁にもたれてずるずると座り込んだ。


 膝を抱えて、顔をうずめる。


 マーリンは、何も言わずに、テオの隣に腰を下ろした。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 壁の向こうから、魔法使いたちの呪文の声が、かすかに聞こえてくる。


「……ごめんなさい。マーリンの立場、悪くしちゃいました」


「構わんよ。わしの立場など、とうの昔に悪いでな」


 マーリンは、白い髭をなでた。


 それから、テオのほうを見ずに、ぽつりと言った。


「泉が嫌がっておる、か」


 テオは、顔を上げなかった。


「わしはな、テオ。五十年、泉の記録を読んできた。古い記録にはな、泉のことを『水の母』と書いてある。人々は泉に花を供え、水を汲むたびに頭を下げたと。まるで、泉に心があるかのように」


 テオは、ゆっくりと顔を上げた。


 マーリンは、壁の向こうの泉のほうを見つめていた。


「わしには、泉の気持ちなど分からん。見えも聞こえもせん。じゃが――」


 明るい灰色の目が、テオのほうを向いた。


「さっきのおぬしの顔は、作りごとを言う者の顔ではなかった」


 テオは、何も言えなかった。


 マーリンは、それ以上何も聞かなかった。ただ、テオの肩を、皺だらけの手でもう一度ぽんと叩いた。


「さっき泉の縁を調べておって、一つ見つけたものがある」


 マーリンは、羊皮紙を広げた。そこには、マーリンが泉の縁から書き写したらしい、古い文字が並んでいた。


「泉の底の、真ん中あたりに、大きな石の蓋があるのを見たかね。水が濁っておって、ほとんど見えんかったが」


 テオは、首を横に振った。泉の底の、あの大きな精霊のことしか見ていなかった。


「その蓋のまわりに刻まれておった文字じゃ。ほとんど読めんが、一つだけ分かった言葉がある」


 マーリンは、羊皮紙の一行を指さした。


「――『封』じゃ」


 テオの背中を、ぞくりと冷たいものが走った。


 腰の水筒袋の中で、ミズハが、かすかに震えた。


「……テオ」


 ミズハの声は、ひどく小さかった。


「さっき、あの子のそばにいたとき……もっと下のほうから、何かを感じたの。泉の底の、さらにずっと深いところ」


 テオは、水筒袋を握りしめた。


「とても大きくて、とても古くて……とても、悲しいもの」


◇


 その日の夕方、テオはもう一度、泉を囲む高い壁の前に一人で立っていた。


 壁に向かって、両手を合わせる。


「百年も、一人で頑張ってくれて、ありがとう。必ず、なんとかするから。もう少しだけ、待ってて」


 腰の水筒袋から、ミズハがそっと顔を出した。


「……テオ。あの子を起こす方法、一つだけあるの」


 テオは、振り返った。


 ミズハの光は、まだ弱々しかった。けれど、その声には、芯が通っていた。


「水の道を、つなぎ直すこと」


 ミズハは、壁の向こうを見つめた。


「あの子が一人で泉を支えなきゃいけなくなったのは、石の道が崩れて、国中の水がこの泉に届かなくなったから。途切れた道をつなぎ直して、もう一度、遠くから水が流れてくるようになれば……あの子は、もう一人で頑張らなくてよくなる。きっと、目を覚ます」


 テオは、石板の地図を思い出していた。


 国中に張り巡らされた、無数の線。そのすべてが集まる、王都の真ん中の二重の円。


 ここだ。この泉こそが、あの地図の真ん中だった。


 けれど。


「つなぎ直すって……どこから?」


 テオの声は、かすれていた。


「村の古井戸から、ここまで、馬車で十日だよ。五百キロもある。どこで崩れてるのかも分からないのに――」


 あまりにも、遠すぎる。あまりにも、大きすぎる。


 十二歳の子どもと、親指ほどの精霊に、いったい何ができるというのだろう。


「テオ様」


 背後から、静かな声がした。


 振り返ると、薔薇の植え込みの陰に、黒い服のエマが立っていた。


 エマは、すっとテオに近づくと、小さく折りたたんだ紙を差し出した。


「殿下からです」


 それだけ言うと、エマはまた、音もなく去っていった。


 テオは、紙を開いた。


 少し丸みのある、元気な文字が並んでいた。


『明日の夕方、橋の下で待ってて。抜け道の中を、案内してあげる。

 ――きっと、驚くわよ。


 リリー』


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