誰にも見えない精霊たち
翌朝、西の塔の下でテオを待っていたマーリンは、古い羊皮紙の束を抱えていた。
「よう眠れたかね」
「……あんまり」
「じゃろうな。顔に書いてある」
マーリンは、からからと笑って歩き出した。
城の中庭を抜け、薔薇の植え込みの脇を通り、奥へ奥へと進んでいく。やがて、灰色の高い壁が行く手をふさいだ。壁には、鉄の鋲を打ちつけた分厚い扉が一つだけ。その前に、槍を持った衛兵が二人立っている。
「マーリン様。本日は、どのようなご用件で」
「泉の古い記録を確かめに来た。こちらは、わしの助手じゃ」
衛兵たちは、ちらりとテオの胸の銀の徽章を見て、顔を見合わせた。けれど、宮廷魔法使いの最古参に逆らう気はないらしく、黙って扉を開けた。
ぎい、と重たい音がした。
◇
扉の向こうは、円い庭だった。
高い壁に四方を囲まれ、空だけがぽっかりと丸く切り取られている。足元には、白い石畳。その真ん中に、泉があった。
テオは、思わず足を止めた。
大きな泉だった。
円形の石の縁に囲まれた水面は、村の広場がまるごと入ってしまいそうなほど広い。縁の石は、何百年、いや何千年も水に洗われてきたように、なめらかにすり減っている。
その縁に、模様が刻まれていた。
波と雫。丸い小石。渦を巻く線。揺らめく炎。
水、土、風、火。
村の古井戸の下の、あの水路のアーチに刻まれていたのと、まったく同じ模様だった。
(やっぱり、ここも……)
テオは、縁に近づいて、水面をのぞき込んだ。
水は、ひどく少なかった。
水面は、石の縁から大人の背丈ほども下がっていた。縁の内側には、昔の水位を示す白っぽい線が何本も刻まれている。いちばん上の線は縁のすぐ下。そこから少しずつ下へ。今の水面は、いちばん下の線よりもさらに下にあった。
水はどんよりと濁って、底が見えない。
そして――。
テオは、息をのんだ。
泉の縁の石組みの隙間に、水面に、水の中に。
水の精霊たちが、びっしりと身を寄せ合っていた。
百を超えるかもしれない。けれど、そのどれもが色を失いかけ、薄く透けて、石の隙間にぐったりと張りついていた。王都の町の水場の精霊たちよりも、ずっと疲れきっていた。
「……ひどい」
テオは、つぶやいた。
腰の水筒袋が、がたがたと震えていた。
「テオ」
ミズハの声は、今にも泣き出しそうだった。
「出して。お願い、出して」
テオは、マーリンが羊皮紙を広げて泉の縁を調べているのを確かめてから、そっと水筒の栓を抜いた。
ミズハが、弾かれたように飛び出した。
そして、まっすぐに、泉の真ん中へ。
水面に飛び込み、濁った水の中へ、青い光がぐんぐん沈んでいく。
テオは、縁から身を乗り出した。
濁った水の奥で、ミズハの光が、何かの前で止まった。
それは、泉のいちばん底の、真ん中にいた。
大きな、水の精霊だった。
ミズハの何倍もある。丸く体を縮めて、まるで眠る子どものように、泉の底の石にうずくまっている。その形は、咲きかけたまま閉じてしまった、大きな水の花のようにも見えた。
けれど、その体には、色がほとんど残っていなかった。灰色に近いくすんだ色で、今にも水に溶けて消えてしまいそうだった。
ミズハが、その精霊のまわりをくるくると回った。
水の中から、ミズハの声がかすかに聞こえてくる。テオには聞き取れないほど長い、流れるような名前を、何度も、何度も呼んでいる。
大きな精霊は、動かなかった。
ミズハが、その体に寄り添う。小さな青い光が、灰色の体に、ぴったりと身を寄せる。
ほんの一瞬だけ、大きな精霊の体の奥で、かすかな光がまたたいた。
けれど、それきりだった。
◇
ミズハが水面に戻ってきたのは、ずいぶん経ってからだった。
テオは、マーリンに見えないよう、泉の縁の陰にしゃがみ込み、両手で水をすくうようにしてミズハを受け止めた。
ミズハの光は、ひどく弱っていた。
「……あの子だった」
ミズハは、テオの手のひらの中で、小さく震えていた。
「わたしの、古い友だち。ずっと会いたかった子」
「起きなかったの?」
「眠ってるの。深く、深く。わたしが何度呼んでも、聞こえてないみたいに」
ミズハは、手のひらの上でうずくまった。
「まわりの子たちが、教えてくれたの。道が途切れて、外から水が来なくなってから……あの子は、たった一人で、この泉を支えてきたんだって。百年も。自分の力を、少しずつ、少しずつ水に変えて」
テオは、泉の縁に刻まれた白い線を見た。
少しずつ下がっていく水位の線。あれは、あの子の力が削られていった跡だったのだ。
「それなのに、人間たちは毎日、あの子に命令するの。『湧け』『満ちよ』『従え』って。あの子にはもう、そんな力なんて残ってないのに」
ミズハの声が、かすれた。
「このままじゃ、あの子……」
その続きを、ミズハは言わなかった。
言わなくても、テオには分かった。
◇
「おや。からくり小僧が、なぜここにいる」
背後から、冷たい声がした。
テオが振り返ると、壁の扉から、深紅のローブの一団が入ってくるところだった。
先頭に立つのは、宮廷魔法使い長のヴィクトル。その後ろに、若い魔法使いたちが五人、六人と続いている。
「わしの助手じゃよ」
マーリンが、羊皮紙から顔も上げずに答えた。
「泉の記録を調べるのに、若い目が要ってな」
ヴィクトルは、露骨に顔をしかめた。けれど、それ以上は何も言わず、泉の縁の正面に進み出た。
「始めるぞ」
魔法使いたちが、泉を囲むようにずらりと並んだ。
一斉に杖を掲げる。
そして、声をそろえて唱えはじめた。
「水よ、我らが声に従え! 湧け! 満ちよ! この泉を満たせ!」
テオには、見えた。
泉の縁の精霊たちが、びくりと体を跳ね上げたのが。
怯えて、縮こまって、それでも逃げ場がなくて、石の隙間で震えているのが。
「従え! 満ちよ!」
声が、さらに大きくなる。
泉の底で、あの大きな精霊が――かすかに、身をよじった。
眠ったまま、苦しそうに。
その灰色の体から、ほんのわずかな光が絞り出されるように滲み、水に溶けていく。泉の水面が、指一本分ほど、ゆらりと持ち上がった。
「おお……!」
若い魔法使いたちから、声が上がった。
「水位が上がったぞ!」
「さすがはヴィクトル様だ!」
ヴィクトルは、満足そうに杖を下ろした。
「見たか。我らの呪文は、まだ泉に届いておる。もっと力を込めれば、必ず戻る。明日からは、朝と夕の二度にするぞ」
テオの手が、震えていた。
泉の底で、大きな精霊が、さっきよりもさらに薄くなっていた。
ミズハが、テオの手のひらの中で、声にならない声を上げた。
(二度? 朝と夕の、二度?)
そんなことをしたら。
「――やめてください」
気がつくと、テオは立ち上がっていた。
魔法使いたちが、一斉に振り返った。
「……今、何と言った」
ヴィクトルの目が、すうっと細くなった。
テオは、拳を握りしめた。
「そんなふうに命令したら、駄目なんです。泉が……泉が、嫌がってます。もう、力が残ってないのに、無理やり絞り出させてるだけなんです。このままじゃ――」
一瞬、庭が静まり返った。
それから、魔法使いたちの間から、どっと笑い声が起こった。
「泉が、嫌がっている?」
「からくり小僧は、泉とおしゃべりでもできるのか?」
ヴィクトルだけは、笑っていなかった。
冷たい目で、じっとテオを見下ろしていた。
「小僧。ここは、おまえの村の井戸とは違う。この国でもっとも神聖な泉だ。その守りを、何も知らぬ子どもが口出しするな」
テオは、唇を噛んだ。
言いたいことは、山ほどあった。
見えないのか。あんなに怯えている精霊たちが。泉の底で、たった一人で百年も泉を支えてきた、あの子が。
けれど、言えなかった。
見えるのは、自分だけなのだ。
この庭にいる誰にも、あの子たちは見えない。どんなに叫んでも、どんなに説明しても、誰にも届かない。
(誰にも、見えないんだ)
テオは、生まれて初めて、それを心の底から思い知った。
「――ヴィクトル」
静かな声がした。
マーリンが、羊皮紙を丸めながら、ゆっくりと立ち上がっていた。
「子どもの言うことに、そう目くじらを立てるでない。わしらの用は済んだ。邪魔をしたな」
マーリンは、テオの肩にぽんと手を置いた。
「行くぞ、テオ」
テオは、マーリンに肩を押されるようにして、扉のほうへ歩き出した。
背後で、ヴィクトルの声が響いた。
「続けるぞ。水よ、我らが声に従え!」
◇
扉の外に出たとたん、テオは壁にもたれてずるずると座り込んだ。
膝を抱えて、顔をうずめる。
マーリンは、何も言わずに、テオの隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
壁の向こうから、魔法使いたちの呪文の声が、かすかに聞こえてくる。
「……ごめんなさい。マーリンの立場、悪くしちゃいました」
「構わんよ。わしの立場など、とうの昔に悪いでな」
マーリンは、白い髭をなでた。
それから、テオのほうを見ずに、ぽつりと言った。
「泉が嫌がっておる、か」
テオは、顔を上げなかった。
「わしはな、テオ。五十年、泉の記録を読んできた。古い記録にはな、泉のことを『水の母』と書いてある。人々は泉に花を供え、水を汲むたびに頭を下げたと。まるで、泉に心があるかのように」
テオは、ゆっくりと顔を上げた。
マーリンは、壁の向こうの泉のほうを見つめていた。
「わしには、泉の気持ちなど分からん。見えも聞こえもせん。じゃが――」
明るい灰色の目が、テオのほうを向いた。
「さっきのおぬしの顔は、作りごとを言う者の顔ではなかった」
テオは、何も言えなかった。
マーリンは、それ以上何も聞かなかった。ただ、テオの肩を、皺だらけの手でもう一度ぽんと叩いた。
「さっき泉の縁を調べておって、一つ見つけたものがある」
マーリンは、羊皮紙を広げた。そこには、マーリンが泉の縁から書き写したらしい、古い文字が並んでいた。
「泉の底の、真ん中あたりに、大きな石の蓋があるのを見たかね。水が濁っておって、ほとんど見えんかったが」
テオは、首を横に振った。泉の底の、あの大きな精霊のことしか見ていなかった。
「その蓋のまわりに刻まれておった文字じゃ。ほとんど読めんが、一つだけ分かった言葉がある」
マーリンは、羊皮紙の一行を指さした。
「――『封』じゃ」
テオの背中を、ぞくりと冷たいものが走った。
腰の水筒袋の中で、ミズハが、かすかに震えた。
「……テオ」
ミズハの声は、ひどく小さかった。
「さっき、あの子のそばにいたとき……もっと下のほうから、何かを感じたの。泉の底の、さらにずっと深いところ」
テオは、水筒袋を握りしめた。
「とても大きくて、とても古くて……とても、悲しいもの」
◇
その日の夕方、テオはもう一度、泉を囲む高い壁の前に一人で立っていた。
壁に向かって、両手を合わせる。
「百年も、一人で頑張ってくれて、ありがとう。必ず、なんとかするから。もう少しだけ、待ってて」
腰の水筒袋から、ミズハがそっと顔を出した。
「……テオ。あの子を起こす方法、一つだけあるの」
テオは、振り返った。
ミズハの光は、まだ弱々しかった。けれど、その声には、芯が通っていた。
「水の道を、つなぎ直すこと」
ミズハは、壁の向こうを見つめた。
「あの子が一人で泉を支えなきゃいけなくなったのは、石の道が崩れて、国中の水がこの泉に届かなくなったから。途切れた道をつなぎ直して、もう一度、遠くから水が流れてくるようになれば……あの子は、もう一人で頑張らなくてよくなる。きっと、目を覚ます」
テオは、石板の地図を思い出していた。
国中に張り巡らされた、無数の線。そのすべてが集まる、王都の真ん中の二重の円。
ここだ。この泉こそが、あの地図の真ん中だった。
けれど。
「つなぎ直すって……どこから?」
テオの声は、かすれていた。
「村の古井戸から、ここまで、馬車で十日だよ。五百キロもある。どこで崩れてるのかも分からないのに――」
あまりにも、遠すぎる。あまりにも、大きすぎる。
十二歳の子どもと、親指ほどの精霊に、いったい何ができるというのだろう。
「テオ様」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、薔薇の植え込みの陰に、黒い服のエマが立っていた。
エマは、すっとテオに近づくと、小さく折りたたんだ紙を差し出した。
「殿下からです」
それだけ言うと、エマはまた、音もなく去っていった。
テオは、紙を開いた。
少し丸みのある、元気な文字が並んでいた。
『明日の夕方、橋の下で待ってて。抜け道の中を、案内してあげる。
――きっと、驚くわよ。
リリー』




