リリーの抜け道
翌日の夕方。
テオが石橋の下に着くと、鉄格子の向こうから、ぱっと明かりが灯った。
「遅いわよ、テオ」
小さなランプを掲げたリリーが、アーチの中から顔を出していた。茶色い外套のフードの下で、青い瞳がきらきら光っている。
「まだ約束の時間前だよ」
「わたしは、もっと前から待ってたの」
リリーは、なぜか得意げに胸を張った。
テオは、鉄格子をくぐりながら、エマとの約束を思い出していた。
「リリー。今日は、夕食の鐘の半刻前には戻ろう」
「えっ、半刻も前に?」
「この前みたいに、ぎりぎりで走るのは嫌だろ」
リリーは、少しだけ唇をとがらせた。それから、ふっと表情をやわらげた。
「……そうね。またエマに叱られたら、今度こそ鉄格子に錠前をつけられちゃうかもしれないもの」
テオは、思わず咳き込みそうになった。
◇
アーチの奥は、思っていたより広かった。
最初の数歩こそ四つん這いだったが、すぐに天井が高くなり、腰をかがめれば歩けるほどの通路になった。左右の壁は、ぴったりと噛み合った石で組まれている。足元は乾いていて、ゆるやかな上り坂が、城のほうへまっすぐ延びていた。
テオは、壁の石にそっと手を触れた。
紙一枚差し込めないほどの、隙間のない石組み。
村の古井戸の下で見たのと、まったく同じだった。
「すごいでしょう、この道」
先を歩くリリーが、振り返って言った。
「九つのときに見つけたの。北の塔のいちばん下の物置にね、使われてない古い井戸があって。その中に、石の階段がついてたのよ。降りてみたら、この道につながってたの」
「九つ……一人で?」
「もちろん。最初は、すっごく怖かったわ」
リリーは、くすくすと笑った。
「でも、どうしても確かめたかったの。この道が、どこにつながってるのか」
腰の水筒袋の中から、ミズハが小さな声でささやいた。
「テオ。この道、水の道じゃないわ」
(えっ?)
「水の道の、番をする人たちが通るための道。昔はね、こういう細い道が、大きな水の道のそばにいくつもあったの。人間たちが、ここを通って見回りをしてたのよ」
(だから、水がほとんど流れてないのか)
テオは、壁のところどころに、小さなくぼみがあることに気づいた。ランプを置くための棚のようだった。何百年も前、ここを歩いた人たちが、明かりを灯していた場所なのだ。
◇
しばらく歩くと、リリーが立ち止まった。
「ここよ。見せたかったのは」
通路の右側の壁に、小さな入り口が開いていた。リリーは、ランプを掲げて先に入っていく。
テオも、その後に続いた。
そこは、丸い小部屋だった。
大人が五、六人も入ればいっぱいになるくらいの広さ。天井は低く、ドーム型に丸くなっている。
そして、その壁という壁に――。
テオは、息をのんだ。
一面に、絵が彫られていた。
石の壁を、ぐるりと一周する浮き彫りだった。たくさんの人間たちが描かれている。石を運ぶ人。土を掘る人。壁を積む人。
そして、その人間たちのまわりに、小さな何かが描かれていた。
雫の形をしたもの。丸い小石のようなもの。渦を巻く綿毛のようなもの。揺らめく炎のようなもの。
それが、人間たちと一緒に働いていた。
雫の形をしたものたちが、水の流れを導いている。小石のようなものたちが、積んだ石の隙間を埋めている。綿毛のようなものたちが、穴の奥へ風を送っている。炎のようなものたちが、暗い場所に明かりを灯している。
「おとぎ話みたいでしょう?」
リリーが、ランプを壁に近づけた。
「小さな妖精たちと、人間が、一緒に何かを作ってるの。わたし、初めて見つけたとき、すごくわくわくしたわ。この絵の続きが知りたくて、何回もここに来たの」
テオは、答えられなかった。
壁の絵を、ゆっくりと目でたどっていく。
浮き彫りの中で、一人の人間が、雫の形のものに向かって、両手を合わせて頭を下げていた。
その隣では、別の人間が、小石のようなものに、何かを手渡していた。花のように見えた。
おとぎ話なんかじゃない。
テオには、分かった。
この雫は、ミズハたちだ。この小石は、アースの畑で働いていた土の精霊たちだ。この綿毛は、マーリンの風鈴のまわりで遊んでいた風の精霊たちだ。この炎は、グスタフさんの炉で跳ねていた火の精霊たちだ。
昔、本当にあったことなのだ。
人間と精霊が、お願いと感謝で結ばれて、一緒にあの水の道を作った日々が。
腰の水筒袋が、かすかに震えていた。
「……わたしたちよ」
ミズハの声は、涙ぐんでいるように聞こえた。
「これ、わたしたち。みんなで、あの道を作っていたころの……」
テオは、浮き彫りの一番奥に目を向けた。
部屋のいちばん正面の壁。そこには、ひときわ大きな姿が彫られていた。
雫の形をした、大きな大きな何か。
まわりの小さな雫たちの、何十倍もある。その大きな雫を中心に、四方八方へ、水の流れが線になって広がっていた。その線の先々に、小さな家や町が描かれている。
あの石板の地図と、同じだった。
そして、大きな雫の前には、たくさんの人間たちがひざまずき、頭を下げていた。
(これは……)
テオの胸が、どくんと鳴った。
泉の底で眠っていた、あの大きな精霊だろうか。それとも――ミズハが泉の底のさらに奥に感じたという、とても大きくて、とても古いものだろうか。
「――テオ?」
リリーの声に、テオははっと我に返った。
リリーが、ランプを持ったまま、じっとテオの顔をのぞき込んでいた。
「どうしたの? そんな顔して」
「え……」
テオは、自分の頬が濡れていることに、初めて気づいた。
慌てて、袖でごしごしとこする。
「な、なんでもない。ほこりが、目に……」
「ほこり」
リリーは、じとっとテオを見た。
それから、壁の絵に目を戻した。浮き彫りの中で、人間が雫に向かって頭を下げている、その場面を。
「……ねえ、テオ。あなた、この絵の意味が分かるの?」
テオは、言葉に詰まった。
リリーは、しばらく黙ってテオの横顔を見つめていた。何かを聞きたそうに、唇がかすかに動いた。
けれど、結局、リリーは何も聞かなかった。
かわりに、ふっと微笑んだ。
「わたしね、この絵の中で、ここがいちばん好きなの」
リリーは、人間が雫に向かって頭を下げている場面を、指先でそっとなぞった。
「この人、すごく大事そうに頭を下げてるでしょう。橋の下で、テオが道にお礼を言ってたとき、この絵を思い出したの」
テオは、リリーを見た。
ランプの明かりに照らされた横顔は、とても穏やかだった。
「だから、どうしてもテオに見せたかったのよ」
◇
小部屋を出て、通路をさらに少し進んだところで、リリーはまた立ち止まった。
道が、二つに分かれていた。
右の道は、これまでと同じゆるやかな上り坂で、城のほうへ続いている。
左の道は、急な下り坂だった。ランプの明かりが届かない闇の奥へ、ぐんぐんと下っていく。
その闇の奥から、冷たい風が吹き上がってきた。
そして、音が聞こえた。
さらさらと、絶え間なく、どこまでも続いていく、たっぷりとした水の音。
テオは、その音を知っていた。
村の古井戸の、ずっと下で聞いた音だった。
「こっちの道はね」
リリーが、左の闇をランプで照らしながら言った。
「ずっと下に続いてて、水の音がするの。一度だけ、途中まで降りてみたんだけど……真っ暗で、どこまで続いてるか分からなくて。怖くなって、引き返しちゃった」
リリーは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「九つのときから、ずっと気になってたの。この奥に、何があるのか」
腰の水筒袋の中で、ミズハが、ちゃぷんと大きく跳ねた。
「テオ……この音……」
(ああ。分かってる)
テオは、闇の奥を見つめた。
ごーん。
遠く、頭の上のほうから、かすかに鐘の音が響いた。夕食の鐘の、一つ前の鐘。鳴ってから半刻で、夕食の鐘になる。
「あっ、もうこんな時間!」
リリーが、慌てて右の道を振り返った。
「戻らなきゃ。約束だものね、半刻前って」
それから、名残惜しそうに、もう一度だけ左の闇を見た。
そして、テオのほうを向いた。
「ねえ、テオ。次は、あの奥に一緒に行ってくれる?」
青い瞳が、ランプの明かりの中で、まっすぐにテオを見つめていた。
「一人じゃ怖いけど、テオと一緒なら、行ける気がするの」
テオは、闇の奥の水音に耳を澄ませた。
それから、うなずいた。
「うん。一緒に行こう」




