行ってらっしゃい、兄ちゃん
その日の夕飯に、アースは帰ってこなかった。
「アースったら、どこで遊んでるのかしら」
母さんが鍋をかき混ぜながら、窓の外をのぞく。日はもう、すっかり沈んでいた。
「……探してくる」
テオはランプをつかんで、家を飛び出した。
広場の井戸。畑。小川のほとり。アースの行きそうな場所を、一つずつ回っていく。どこにもいない。
(まさか)
テオの足は、自然と村の外れへ向かっていた。
雑草に埋もれた空き地。その真ん中の、古井戸。
ランプの明かりが、小さな背中を照らし出した。
アースは、古井戸の縁に腰かけていた。板はちゃんとはまったままだ。膝を抱えて、ふさがれた井戸の口をじっと見下ろしている。
「アース」
テオが声をかけると、アースはびくりともせずに答えた。
「……中には、入ってないよ」
「分かってる」
テオは、ほっと息をついた。それから、アースの隣に腰を下ろした。
ふと、足元に目をやる。
草むらの根元から、小さな焦げ茶色の影がいくつものぞいていた。土の精霊たちだ。その中に、苔の帽子をかぶった一匹がいた。アースのすぐそばで、まるで見張りでもするように、じっと座り込んでいる。
(……ついててくれたのか)
テオは、心の中でそっと礼を言った。苔の帽子の精霊は、ふいっと横を向いた。
しばらく、二人とも黙っていた。
虫の声だけが、草むらに響いている。
やがて、アースがぽつりと言った。
「兄ちゃん、ここで何か見つけたんでしょ」
テオは、答えられなかった。
「あの夜から、兄ちゃん変わったもん。時々、水筒に向かって何かしゃべってるし。夜中にこっそり出かけていくし。帰ってくると、すごく遠くを見てるみたいな顔してる」
アースは、ふさがれた井戸の口を見つめたまま続けた。
「何を見つけたのかは、聞かないよ。兄ちゃんが言わないってことは、言えないことなんでしょ」
「……ごめん」
「謝らなくていいって」
アースは、膝を抱える腕にぎゅっと力を込めた。
「でもさ、分かるんだ。兄ちゃんが見つけたものが、兄ちゃんを都に呼んでるんだって」
テオは、弟の横顔を見た。
十歳の、小さな横顔だった。けれど、ランプの明かりに照らされたその顔は、テオの知っているどのアースよりも大人びて見えた。
「伯爵様に誘われたとき、兄ちゃん、すぐに『行きたい』って顔したよ。でも、すぐに母さんと僕のこと考えて、困った顔になった」
「……見てたのか」
「見てたよ。兄ちゃん、顔に全部出るもん」
アースは、ようやくテオのほうを向いた。
「だから、僕、ここで考えてたんだ。兄ちゃんが安心して都に行けるように、僕に何ができるかって」
アースは、指を一本ずつ折りはじめた。
「まず、ポンプ。兄ちゃんが作るの、ずっと横で見てたから、仕組みは分かる。弁の革がすり減ったら、皮なめしのおじさんに頼んで取り替える。取っ手の金具が緩んだら、グスタフさんに直してもらう」
二本目の指。
「それから、母さん。薪割りも、水汲みも、畑仕事も、僕がやる。もう十歳だもん。兄ちゃんがいなくても、ちゃんとできる」
三本目の指を折ったところで、アースは古井戸の口を見下ろした。
「それから、この井戸。兄ちゃんの大事なものがここにあるなら、僕が見張っててあげる。誰も近づかないように。板が外れたら、すぐに直す」
テオは、言葉が出なかった。
喉の奥が、熱くなっていた。
「だから、兄ちゃん」
アースは、まっすぐにテオを見た。
「都に行きなよ」
虫の声が、ふっと止んだ気がした。
テオは、ゆっくりと手を伸ばして、アースの頭をくしゃくしゃとなでた。
「……生意気になったな、お前」
「兄ちゃんに似たんだよ」
アースは、くすぐったそうに首をすくめた。
テオは、なでる手を止めずに言った。
「アース。一つ、約束する」
「なに?」
「いつか、帰ってきたら――この井戸のこと、話したいことがある」
アースの目が、わずかに見開かれた。
「今は、まだ言えない。でも、いつか必ず話す。そのときは、たぶん……お前の力を貸してほしいんだ」
「僕の力?」
「ああ。お前の土魔法が、きっと必要になる」
それは、ほとんど予感のようなものだった。崩れた天井。流れ込んだ土砂。途切れた水の道。あの石の道をもう一度よみがえらせるには、土を扱える者の力がいる。
アースは、しばらくきょとんとしていた。
それから、にかっと笑った。
「約束だよ」
「ああ、約束だ」
二人は、小指をからませた。前の世界の指切りを、テオは小さいころにアースに教えていた。
足元で、苔の帽子の精霊が、ふん、と鼻を鳴らしたように見えた。
◇
翌朝、テオが話を切り出すより先に、母さんが言った。
「行ってきなさい」
テオは、朝食のパンを持ったまま固まった。
「……アースから聞いたの?」
「聞かなくたって分かるわよ。あんたの母親を何年やってると思ってるの」
母さんは、テオの皿にもう一切れパンをのせた。
「伯爵様のことも、村中の噂よ。あの変わった格好の貴族様が、テオを都に連れていくって」
「でも、母さん……」
「心配?」
母さんは、テオの向かいに腰を下ろした。
「心配に決まってるわよ。まだ十二歳だもの。都は遠いし、知り合いもいないし、貴族様のお屋敷なんて、どんなところか見当もつかない」
それから、ふっと目を細めた。
「でもね、テオ。あんたは小さいころから、ずっと遠くを見てる子だった」
テオは、どきりとした。
「何もないところをじっと見て、一人でにこにこ笑ってたりね。昔は熱でもあるのかと心配したけど……今はね、思うのよ。あんたには、きっと私たちには見えないものが見えてるんだろうって」
母さんは、テーブルの上で、テオの手をそっと包んだ。
「それが何かは知らない。知らなくてもいい。でも、見えてるものがあるなら、それを追いかけていきなさい。こんな小さな村に閉じこもってないで」
テオは、うつむいた。
パンの上に、ぽたりと一粒、しずくが落ちた。
「……ありがとう、母さん」
「ばかね。泣くことないでしょう」
そう言う母さんの声も、少しだけ震えていた。
その晩、母さんはランプの下で、遅くまで針を動かしていた。
翌朝、テオに手渡されたのは、小さな布の袋だった。藍色の布に、白い糸で波の模様が刺繍されている。ちょうど、テオの水筒がすっぽり収まる大きさだった。
「その水筒、いつも大事そうに持ってるでしょう。旅の間に傷がつかないように」
テオは、水筒を袋に入れた。
袋の中で、ちゃぷん、と水が揺れた。
いつもより少しだけ、うれしそうな音だった。
◇
三日目の朝。
村の入り口に、伯爵の黒塗りの馬車が止まっていた。
その周りに、村中の人たちが集まっていた。
「テオ坊、体に気をつけてねえ」
マルタおばあさんが、テオの手に干し果物の包みを握らせた。
「都の魔法使いどもに、なめられるんじゃないぞ」
ヨアヒム爺さんが、ぶっきらぼうに言った。
グスタフさんは何も言わずに、使い込まれた小さな金槌をテオの手に押しつけた。柄には、何十年も握られてきた手の跡が、くっきりと刻まれていた。
「グスタフさん、これ……」
「いい道具は、いい職人が使え」
それだけ言って、グスタフさんはぷいと背を向けた。
「さあ、テオ君。そろそろ出発の時間だ」
馬車の窓から、伯爵が顔を出した。今日の上着は、目の覚めるような山吹色だった。
テオは、荷物を抱えて馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
御者が手綱を振るい、馬がいななく。車輪が、ごとりと回りはじめた。
テオは、窓から身を乗り出した。
母さんが、手を振っていた。マルタおばあさんも、ヨアヒム爺さんも、村の人たちも。
アースの姿が、見えなかった。
(アース……?)
馬車が、村の入り口を抜けた。人だかりが、少しずつ小さくなっていく。
そのときだった。
「兄ちゃーーーん!」
道の脇の丘の上に、小さな人影が立っていた。
アースだった。村でいちばん高い丘のてっぺんで、両手をぶんぶんと振っている。
「ポンプは、僕に任せてーーー!」
テオは、窓から大きく手を振り返した。
「母さんのことも、井戸のことも、ちゃんとやるからーーー!」
「ああ! 頼んだぞーーー!」
「約束、忘れないでよーーー!」
「忘れるもんかーーー!」
馬車が、ゆるやかな坂を下りはじめる。丘の上のアースが、どんどん小さくなっていく。
それでも、最後の最後まで、アースの声は届いた。
「行ってらっしゃい、兄ちゃーーーん!」
丘の向こうに、小さな人影が消えた。
テオは、窓の外を見つめたまま、しばらく動けなかった。
◇
「いい弟君だね」
向かいの席で、伯爵が静かに言った。
いつもの賑やかな調子ではなかった。
「……はい」
テオは、袖で目元をぬぐった。
「自慢の弟です」
伯爵は、それ以上何も言わなかった。ただ、窓の外に目を向けて、テオが落ち着くのを待ってくれていた。
膝の上で、藍色の袋に包まれた水筒が、ちゃぷんと揺れた。
「テオ」
ミズハの小さな声が、袋の中から聞こえる。
「アースとの約束、守らないとね」
(ああ)
テオは、心の中で答えた。
(いつか、必ず。あの石の道を、もう一度よみがえらせて――アースと一緒に)
馬車は、街道をゆっくりと進んでいく。
王都までは、十日の旅。
その道の、ずっとずっと下には、誰にも知られない古い水の道が、同じ方角へ延びているはずだった。




