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異世界鉄道王物語  作者: 蒼屋 瑞希
第一部 窓辺の王女と、地下の水音
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8/11

行ってらっしゃい、兄ちゃん

 その日の夕飯に、アースは帰ってこなかった。


「アースったら、どこで遊んでるのかしら」


 母さんが鍋をかき混ぜながら、窓の外をのぞく。日はもう、すっかり沈んでいた。


「……探してくる」


 テオはランプをつかんで、家を飛び出した。


 広場の井戸。畑。小川のほとり。アースの行きそうな場所を、一つずつ回っていく。どこにもいない。


(まさか)


 テオの足は、自然と村の外れへ向かっていた。


 雑草に埋もれた空き地。その真ん中の、古井戸。


 ランプの明かりが、小さな背中を照らし出した。


 アースは、古井戸の縁に腰かけていた。板はちゃんとはまったままだ。膝を抱えて、ふさがれた井戸の口をじっと見下ろしている。


「アース」


 テオが声をかけると、アースはびくりともせずに答えた。


「……中には、入ってないよ」


「分かってる」


 テオは、ほっと息をついた。それから、アースの隣に腰を下ろした。


 ふと、足元に目をやる。


 草むらの根元から、小さな焦げ茶色の影がいくつものぞいていた。土の精霊たちだ。その中に、苔の帽子をかぶった一匹がいた。アースのすぐそばで、まるで見張りでもするように、じっと座り込んでいる。


(……ついててくれたのか)


 テオは、心の中でそっと礼を言った。苔の帽子の精霊は、ふいっと横を向いた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 虫の声だけが、草むらに響いている。


 やがて、アースがぽつりと言った。


「兄ちゃん、ここで何か見つけたんでしょ」


 テオは、答えられなかった。


「あの夜から、兄ちゃん変わったもん。時々、水筒に向かって何かしゃべってるし。夜中にこっそり出かけていくし。帰ってくると、すごく遠くを見てるみたいな顔してる」


 アースは、ふさがれた井戸の口を見つめたまま続けた。


「何を見つけたのかは、聞かないよ。兄ちゃんが言わないってことは、言えないことなんでしょ」


「……ごめん」


「謝らなくていいって」


 アースは、膝を抱える腕にぎゅっと力を込めた。


「でもさ、分かるんだ。兄ちゃんが見つけたものが、兄ちゃんを都に呼んでるんだって」


 テオは、弟の横顔を見た。


 十歳の、小さな横顔だった。けれど、ランプの明かりに照らされたその顔は、テオの知っているどのアースよりも大人びて見えた。


「伯爵様に誘われたとき、兄ちゃん、すぐに『行きたい』って顔したよ。でも、すぐに母さんと僕のこと考えて、困った顔になった」


「……見てたのか」


「見てたよ。兄ちゃん、顔に全部出るもん」


 アースは、ようやくテオのほうを向いた。


「だから、僕、ここで考えてたんだ。兄ちゃんが安心して都に行けるように、僕に何ができるかって」


 アースは、指を一本ずつ折りはじめた。


「まず、ポンプ。兄ちゃんが作るの、ずっと横で見てたから、仕組みは分かる。弁の革がすり減ったら、皮なめしのおじさんに頼んで取り替える。取っ手の金具が緩んだら、グスタフさんに直してもらう」


 二本目の指。


「それから、母さん。薪割りも、水汲みも、畑仕事も、僕がやる。もう十歳だもん。兄ちゃんがいなくても、ちゃんとできる」


 三本目の指を折ったところで、アースは古井戸の口を見下ろした。


「それから、この井戸。兄ちゃんの大事なものがここにあるなら、僕が見張っててあげる。誰も近づかないように。板が外れたら、すぐに直す」


 テオは、言葉が出なかった。


 喉の奥が、熱くなっていた。


「だから、兄ちゃん」


 アースは、まっすぐにテオを見た。


「都に行きなよ」


 虫の声が、ふっと止んだ気がした。


 テオは、ゆっくりと手を伸ばして、アースの頭をくしゃくしゃとなでた。


「……生意気になったな、お前」


「兄ちゃんに似たんだよ」


 アースは、くすぐったそうに首をすくめた。


 テオは、なでる手を止めずに言った。


「アース。一つ、約束する」


「なに?」


「いつか、帰ってきたら――この井戸のこと、話したいことがある」


 アースの目が、わずかに見開かれた。


「今は、まだ言えない。でも、いつか必ず話す。そのときは、たぶん……お前の力を貸してほしいんだ」


「僕の力?」


「ああ。お前の土魔法が、きっと必要になる」


 それは、ほとんど予感のようなものだった。崩れた天井。流れ込んだ土砂。途切れた水の道。あの石の道をもう一度よみがえらせるには、土を扱える者の力がいる。


 アースは、しばらくきょとんとしていた。


 それから、にかっと笑った。


「約束だよ」


「ああ、約束だ」


 二人は、小指をからませた。前の世界の指切りを、テオは小さいころにアースに教えていた。


 足元で、苔の帽子の精霊が、ふん、と鼻を鳴らしたように見えた。


◇


 翌朝、テオが話を切り出すより先に、母さんが言った。


「行ってきなさい」


 テオは、朝食のパンを持ったまま固まった。


「……アースから聞いたの?」


「聞かなくたって分かるわよ。あんたの母親を何年やってると思ってるの」


 母さんは、テオの皿にもう一切れパンをのせた。


「伯爵様のことも、村中の噂よ。あの変わった格好の貴族様が、テオを都に連れていくって」


「でも、母さん……」


「心配?」


 母さんは、テオの向かいに腰を下ろした。


「心配に決まってるわよ。まだ十二歳だもの。都は遠いし、知り合いもいないし、貴族様のお屋敷なんて、どんなところか見当もつかない」


 それから、ふっと目を細めた。


「でもね、テオ。あんたは小さいころから、ずっと遠くを見てる子だった」


 テオは、どきりとした。


「何もないところをじっと見て、一人でにこにこ笑ってたりね。昔は熱でもあるのかと心配したけど……今はね、思うのよ。あんたには、きっと私たちには見えないものが見えてるんだろうって」


 母さんは、テーブルの上で、テオの手をそっと包んだ。


「それが何かは知らない。知らなくてもいい。でも、見えてるものがあるなら、それを追いかけていきなさい。こんな小さな村に閉じこもってないで」


 テオは、うつむいた。


 パンの上に、ぽたりと一粒、しずくが落ちた。


「……ありがとう、母さん」


「ばかね。泣くことないでしょう」


 そう言う母さんの声も、少しだけ震えていた。


 その晩、母さんはランプの下で、遅くまで針を動かしていた。


 翌朝、テオに手渡されたのは、小さな布の袋だった。藍色の布に、白い糸で波の模様が刺繍されている。ちょうど、テオの水筒がすっぽり収まる大きさだった。


「その水筒、いつも大事そうに持ってるでしょう。旅の間に傷がつかないように」


 テオは、水筒を袋に入れた。


 袋の中で、ちゃぷん、と水が揺れた。


 いつもより少しだけ、うれしそうな音だった。


◇


 三日目の朝。


 村の入り口に、伯爵の黒塗りの馬車が止まっていた。


 その周りに、村中の人たちが集まっていた。


「テオ坊、体に気をつけてねえ」


 マルタおばあさんが、テオの手に干し果物の包みを握らせた。


「都の魔法使いどもに、なめられるんじゃないぞ」


 ヨアヒム爺さんが、ぶっきらぼうに言った。


 グスタフさんは何も言わずに、使い込まれた小さな金槌をテオの手に押しつけた。柄には、何十年も握られてきた手の跡が、くっきりと刻まれていた。


「グスタフさん、これ……」


「いい道具は、いい職人が使え」


 それだけ言って、グスタフさんはぷいと背を向けた。


「さあ、テオ君。そろそろ出発の時間だ」


 馬車の窓から、伯爵が顔を出した。今日の上着は、目の覚めるような山吹色だった。


 テオは、荷物を抱えて馬車に乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 御者が手綱を振るい、馬がいななく。車輪が、ごとりと回りはじめた。


 テオは、窓から身を乗り出した。


 母さんが、手を振っていた。マルタおばあさんも、ヨアヒム爺さんも、村の人たちも。


 アースの姿が、見えなかった。


(アース……?)


 馬車が、村の入り口を抜けた。人だかりが、少しずつ小さくなっていく。


 そのときだった。


「兄ちゃーーーん!」


 道の脇の丘の上に、小さな人影が立っていた。


 アースだった。村でいちばん高い丘のてっぺんで、両手をぶんぶんと振っている。


「ポンプは、僕に任せてーーー!」


 テオは、窓から大きく手を振り返した。


「母さんのことも、井戸のことも、ちゃんとやるからーーー!」


「ああ! 頼んだぞーーー!」


「約束、忘れないでよーーー!」


「忘れるもんかーーー!」


 馬車が、ゆるやかな坂を下りはじめる。丘の上のアースが、どんどん小さくなっていく。


 それでも、最後の最後まで、アースの声は届いた。


「行ってらっしゃい、兄ちゃーーーん!」


 丘の向こうに、小さな人影が消えた。


 テオは、窓の外を見つめたまま、しばらく動けなかった。


◇


「いい弟君だね」


 向かいの席で、伯爵が静かに言った。


 いつもの賑やかな調子ではなかった。


「……はい」


 テオは、袖で目元をぬぐった。


「自慢の弟です」


 伯爵は、それ以上何も言わなかった。ただ、窓の外に目を向けて、テオが落ち着くのを待ってくれていた。


 膝の上で、藍色の袋に包まれた水筒が、ちゃぷんと揺れた。


「テオ」


 ミズハの小さな声が、袋の中から聞こえる。


「アースとの約束、守らないとね」


(ああ)


 テオは、心の中で答えた。


(いつか、必ず。あの石の道を、もう一度よみがえらせて――アースと一緒に)


 馬車は、街道をゆっくりと進んでいく。


 王都までは、十日の旅。


 その道の、ずっとずっと下には、誰にも知られない古い水の道が、同じ方角へ延びているはずだった。


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