変わり者の伯爵
翌朝、村の井戸の前は、ちょっとした騒ぎになっていた。
「おお……おおお……!」
ポンプの取っ手に、一人の男がしがみついていた。
年のころは四十過ぎだろうか。ひょろりと背が高く、目の覚めるような孔雀色の上着を着ている。胸元には、色とりどりの羽根飾り。くるんと巻いた口ひげ。片目には、金縁の小さな眼鏡をはめていた。
どう見ても、この村にいるはずのない人種だった。
ぎい、こん。
男が取っ手を押し下げると、ポンプの口から水がじゃばっとあふれ出した。
「出た! 出たぞ! 見たまえ、本当に縄も桶もなしで水が出る!」
男は子どものように目を輝かせ、もう一度取っ手を押し下げた。また水があふれる。もう一度。もう一度。
「伯爵様、お召し物が……!」
後ろに控えていた従者らしき若者が、悲鳴のような声を上げた。
見れば、男の孔雀色の上着の裾は、跳ねた水でびしょびしょになっていた。
「構わん構わん! 上着など乾けば済む! それより、この仕組みだ!」
井戸を遠巻きに囲んだ村人たちは、ぽかんと口を開けていた。
テオも、その中の一人だった。
(……伯爵様?)
昨夜、村の入り口に止まったあの立派な馬車。扉に描かれていた貴族の紋章。
あの馬車の主が、この人なのか。
「ねえ、兄ちゃん」
隣で、アースがテオの袖を引っ張った。
「あの人、兄ちゃんのポンプで遊んでる」
「……遊んでるな」
男は、ついにポンプの胴体に頬を押しつけ、耳を澄ませはじめた。
「なるほど、なるほど……内部で何かが上下しているな。この音……弁か? 弁で水の逆流を防いでいるのか?」
テオは、思わず一歩前に出ていた。
「そ、そうです。革の弁が、二つついてます」
男が、ぱっと顔を上げた。
金縁の眼鏡の奥で、灰色の瞳がきらりと光る。
「君か」
「え?」
「君が、これを作ったのだね? 宿場町の商人が言っていた。『村の発明家』は、十二、三の少年だと」
男は、びしょ濡れの上着のまま、大股でテオの前まで歩いてきた。
それから――深々と、頭を下げた。
村人たちが、ざわっとどよめいた。
貴族が、村の子どもに頭を下げている。
「はじめまして、村の発明家殿。私はフィッツジェラルド。王都に屋敷を構える、しがない伯爵だ」
「は、はくしゃく……さま……」
「堅苦しいのはよしてくれたまえ。宮廷では皆、私のことを『変わり者の伯爵』と呼ぶ。そちらのほうがよほど気楽でいい」
フィッツジェラルド伯爵は、顔を上げて、にっと笑った。
◇
伯爵は、年に一度、国中を旅してまわっているのだという。
「珍しい道具、面白い仕掛け、見たこともない発明。そういうものを探して歩くのが、私の何よりの楽しみでね」
テオの工房の小さな椅子に、伯爵は窮屈そうに長い脚を折りたたんで座っていた。従者の若者は、戸口で居心地悪そうに立っている。
「今年は南の街道を下ってきたのだが、宿場町で妙な噂を耳にしてね。山あいの村に、桶も縄も使わずに井戸から水を汲む『からくり』があると。それで、予定を変えてこちらへ回ってきたというわけだ」
「わざわざ……ですか?」
「わざわざ、だとも!」
伯爵は身を乗り出した。
「さあ、教えてくれたまえ。あのポンプは、どういう仕組みで水を汲み上げている?」
テオは、少しためらってから、ポンプの図を描いた板切れを取り出した。
アースに説明したときと同じように、ピストンのこと、弁のこと、空気が水面を押す力のことを話していく。
伯爵は、一言も口を挟まなかった。
ただ、テオの指先が図の上を動くたびに、眼鏡の奥の瞳を細くしたり、大きく見開いたりしている。時折、懐から取り出した手帳に、猛烈な勢いで何かを書きつけていた。
「――それで、空気の押す力で吸い上げられるのは、だいたい十メートルくらいまでなんです。だから、もっと深い井戸だと、このやり方じゃ届かなくて」
テオが話し終えると、伯爵は、ぱたんと手帳を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「君は、目に見えない空気が、水面を押していると言ったね」
「は、はい」
「それを、誰に教わった?」
テオの心臓が、どきりと跳ねた。
前の世界の、学校の理科の授業で――とは、もちろん言えない。
「……いろいろ、試してるうちに、そうなんじゃないかって」
苦しい言い訳だった。
けれど、伯爵はそれ以上追及しなかった。ただ、面白そうに口ひげをひねっただけだった。
「なるほど。試しているうちに、か」
伯爵は、工房の中を見回した。
壁にかけられた手作りの道具。棚に並んだ、作りかけの仕掛け。滑車付きの縄ばしご。木を削って作った、小さな歯車の数々。
「もう一つ聞いてもいいかね」
「はい」
「今朝、私がポンプで遊んでいる間に――君は、井戸に向かって小さく頭を下げていたね」
テオは、凍りついた。
見られていた。
人だかりの後ろで、誰にも気づかれないように、ほんの小さく手を合わせただけだったのに。
「あ、あれは……その、おまじないで……」
「笑いはしないよ」
伯爵の声は、穏やかだった。
「私の知っている腕のいい職人たちは、皆そうだった。鍛冶屋は炉に、大工は木に、時計職人は歯車に、黙って礼を言う。道具や材料に礼を言える職人は、例外なくいい仕事をする」
伯爵は、テオの目をまっすぐに見た。
「君も、そういう職人なのだろう」
テオは、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、じわりと温かくなった。
腰の水筒の中で、ミズハがちゃぷんと小さく跳ねた。
◇
「テオ君」
伯爵は、居住まいを正した。
「王都で、君の発明を見せてみないか」
工房の中が、しんと静まり返った。
戸口で、従者の若者が「また始まった」というような顔で天井を仰いだ。
「私の屋敷には、工房がある。王都中から集めた道具と材料が、それこそ山のように眠っている。鉄も、銅も、硝子も、この村では手に入らないものばかりだ。腕のいい職人たちも大勢いる」
伯爵は、テオの描いたポンプの図を手に取った。
「君の頭の中には、まだまだこういうものが詰まっているはずだ。それを、この小さな工房に閉じ込めておくのは――あまりにも、もったいない」
「で、でも……僕、ただの村の子どもで……」
「発明に、身分も年も関係ないさ」
伯爵は、ひらひらと手を振った。
「もちろん、無理強いはしない。家族もいるだろう。よく考えて、話し合って、それから決めたまえ」
伯爵は立ち上がり、窮屈そうに戸口をくぐった。
それから、振り返って言った。
「私は三日後に、この村を発つ。王都までは、馬車で十日の旅だ。もし君が来る気になったら――馬車の席は、一つ空けておくよ」
◇
伯爵の馬車が宿へ戻っていったあとも、テオはしばらく工房の椅子から動けなかった。
アースが、戸口から顔をのぞかせた。
「兄ちゃん……王都、行くの?」
「……わからない」
正直な答えだった。
行きたい気持ちは、ある。あの石板の地図で見た、すべての水の道が集まる大きな丸。ミズハの古い友だちが住んでいたという、都のいちばん大きな泉。
けれど、母さんがいる。アースがいる。マルタおばあさんも、ヨアヒム爺さんも、グスタフさんもいる。
それに、ポンプはまだ一台しかない。改良したいところも山ほどある。
アースは、しばらく黙ってテオを見ていた。
それから、何も言わずに戸口から消えた。
一人になった工房で、テオは水筒の栓を抜いた。
ミズハが、ふわりと浮かび上がる。
その青い光は、どことなく得意げに揺れていた。
「ほらね」
「……何が」
「言ったでしょう? 『いつか』って、案外すぐに来るものだって」
テオは、ぐうの音も出なかった。
ミズハは、くるりとテオの周りを一周して、それから少しだけ真面目な声で言った。
「テオ。わたしは、テオが決めたほうについていくわ。村に残っても、都に行っても」
「ミズハ……」
「でも、一つだけ」
ミズハは、テオの目の前でぴたりと止まった。
「あの地図の、真ん中の大きな丸。テオ、あそこに行ってみたいって言ったわよね」
テオは、ゆっくりとうなずいた。
窓の外では、日が傾きはじめていた。
伯爵が村を発つまで、あと三日。




