村の発明家
「よいしょ……っと」
村の井戸の前で、マルタおばあさんが桶の縄を引いていた。
腰の曲がった小さな体で、縄を一手ずつたぐり寄せる。井戸の水位はミズハのおかげで少し戻ったけれど、それでも水面ははるか下だ。重たい桶が上がってくるまでに、おばあさんは何度も手を止めて息を整えなければならなかった。
その後ろには、桶を抱えた村人たちが長い列を作っている。
「マルタばあちゃん、代わろうか」
テオが声をかけると、おばあさんはしわだらけの顔で笑った。
「ありがとねえ、テオ坊。でも、毎日のことだからね。自分でやらないと」
そう言って、おばあさんはまた縄を引きはじめた。
テオは、列の後ろに並びながら、その背中をじっと見ていた。
(毎日、これをやってるんだよな)
日照りが始まってから、村の井戸には朝から晩まで列ができている。深い井戸から桶で水を汲み上げるのは、大人の男でも骨が折れる仕事だ。年寄りや子どもには、なおさらつらい。
ぎい、こん。ぎい、こん。
ふいに、耳の奥であの音がよみがえった。
おばあちゃんの家の、裏庭の井戸。鉄の取っ手を押し下げるたびに、口から水がじゃばじゃばとあふれ出してくる。前の世界の幼い自分でも、両手でぶら下がるようにすれば水を汲むことができた。
(手押しポンプ……あれがあれば)
テオは、列を抜けて駆け出した。
◇
その日から、テオの工房には明かりが絶えなくなった。
「兄ちゃん、これ何?」
アースが、作業台の上に転がった丸太をのぞき込む。テオが三日がかりで中をくりぬいた、太い木の筒だった。
「ポンプの胴体。この中で、ピストンっていう栓を上げ下げするんだ」
「ぴすとん?」
「ええと……」
テオは、木炭で板切れに図を描いてみせた。
「井戸の中に、長い管を下ろすだろ。で、この筒の中の栓を引き上げると、管の中の空気が薄くなる。そうすると、外から押される力で、井戸の水が管の中を上がってくるんだ」
「外から押される力?」
「空気が、水面を上から押してるんだよ。目には見えないけど」
アースは、図とテオの顔を交互に見て、眉間にしわを寄せた。
「……兄ちゃん、それ、魔法?」
「魔法じゃないよ。誰にでもできる、ただの仕組み」
テオは笑って、図の続きを描いた。
筒の底と栓には、それぞれ革でできた小さな弁をつける。水が上には通るけれど、下には戻らないようにする弁だ。これがないと、汲み上げた水がまた井戸に落ちてしまう。
ただし、この仕組みには限りがある。
(空気の押す力で水を吸い上げられるのは、せいぜい十メートルまで。実際には、七、八メートルが限度だ)
テオは、村の井戸の深さを思い出した。ミズハのおかげで水位が戻った今なら、水面までは六メートルほど。ぎりぎりだが、届く。
古井戸のように十五メートルもあったら、このやり方では無理だった。
「よし。あとは、弁の革と、取っ手の金具だな」
◇
革は、村の皮なめし職人のおじさんが、余り物を分けてくれた。
金具は、鍛冶屋のグスタフさんに頼みに行った。
「なんだあ、この妙ちきりんな形は」
グスタフさんは、テオの描いた図を太い指でつまみ上げ、片目をすがめた。
「テコの取っ手です。ここを押し下げると、こっちの棒が持ち上がって……」
「ふん。まあ、作れねえこたあねえが」
グスタフさんはぶつぶつ言いながらも、炉に火を入れてくれた。
ごう、と炉の炎が燃え上がる。
その炎の中に、テオは見た。
赤い、小さな影たち。揺らめく炎のような体をした、火の精霊だった。ふいごの風に煽られるたびに、炉の中で跳ねまわっている。
グスタフさんが、真っ赤に焼けた鉄を金床にのせ、槌を振り下ろした。
かん、かん、かん。
火花が散るたびに、炉の中の火の精霊たちが楽しそうに体を揺らす。グスタフさんは呪文など一つも唱えない。ただ黙々と、鉄を叩いている。
(ここの火の子たちは、機嫌がいいんだな)
それが、なんだかうれしかった。
テオは、グスタフさんが背を向けた隙に、炉に向かってそっと頭を下げた。
(いい金具を、ありがとう)
炉の中で、ぽん、と火の粉が一つ弾けた。
◇
ポンプが完成したのは、それから四日後のことだった。
村の井戸の前に、ちょっとした人だかりができていた。井戸の口に据えつけられた奇妙な木の筒を、村人たちが遠巻きに眺めている。
「テオのやつ、今度は何を作ったんだ?」
「井戸に、あんな丸太を突っ込んで……」
人だかりの真ん中で、ヨアヒム爺さんが腕を組んでいた。
「ふん。からくりで水が湧くなら、魔法使いはいらんわい」
「水が湧くんじゃないですよ、爺さん。汲み上げるだけです」
テオは、ポンプの横に立って深呼吸をした。
隣ではアースが、水の入った小さな桶を抱えている。
「兄ちゃん、これ、本当に入れるの? せっかくの水なのに」
「ああ。最初だけな」
テオは桶を受け取ると、ポンプのてっぺんから、筒の中へ水を注ぎ込んだ。
村人たちがざわつく。
「おいおい、水を汲むのに、水を入れてどうするんだ」
テオは、思わず笑ってしまった。
前の世界の自分も、まったく同じことを言ったのだ。
――おばあちゃん、なんで水を入れるの? 水を汲むんでしょ?
――これはね、呼び水っていうんだよ。
おばあちゃんは、ひしゃくで筒に水を注ぎながら、そう教えてくれた。
――ポンプはね、最初にこっちから少しお水を差し上げないと、動いてくれないの。先にこっちから差し出すとね、向こうからたくさん返ってくるんだよ。
――お水も、人も、おんなじだよ。
「これは、呼び水っていうんです」
テオは、村人たちに向かって言った。
「最初に、こっちから少しだけ水をあげるんです。そうすると、ポンプの中の隙間がふさがって、ちゃんと水を吸い上げられるようになる」
腰の水筒の中で、ミズハがくすりと笑った気がした。
テオは、取っ手を握った。
ぎい。
押し下げる。
こん。
持ち上げる。
ぎい、こん。ぎい、こん。
三回、四回。手応えが、だんだん重くなっていく。管の中を、水が上がってきている。
五回目。
ごぼっ、と筒の奥で音がした。
そして――。
じゃばっ!
ポンプの口から、澄んだ水が勢いよくあふれ出した。
一瞬、井戸の前が静まり返った。
それから、歓声が爆発した。
「出た!」
「水が出たぞ!」
「縄も桶もなしでか!?」
テオは、取っ手を動かし続けた。ぎい、こん。ぎい、こん。そのたびに、水がじゃばじゃばと流れ出し、乾いた地面に染み込んでいく。
アースが、目をまん丸にしてポンプにしがみついた。
「兄ちゃん、僕にもやらせて!」
「いいぞ。ゆっくりな」
アースが取っ手にぶら下がるようにして押し下げると、また水があふれ出した。十歳の子どもの力で、楽々と。
「すごい……軽い! 兄ちゃん、これ軽いよ!」
人だかりの中から、マルタおばあさんがよろよろと前に出てきた。
テオは、取っ手をおばあさんに譲った。
「どうぞ、ばあちゃん」
おばあさんは、おそるおそる取っ手に手をかけた。細い腕で、そっと押し下げる。
ぎい、こん。
じゃばっ。
水が、おばあさんの桶にまっすぐ流れ込んだ。
マルタおばあさんは、しばらく何も言わずに、桶にたまっていく水を見つめていた。
それから、テオのほうを向いて、しわだらけの顔をくしゃくしゃにした。
「テオ坊……ありがとうねえ」
テオは、鼻の奥がつんとするのを感じた。
おばあさんの笑った顔が、前の世界のおばあちゃんに、少しだけ似て見えた。
「ふん」
人だかりの後ろで、ヨアヒム爺さんが鼻を鳴らした。
けれど、その口元はゆるんでいた。
「わしの呪文より、よっぽど役に立つわい」
村人たちが、どっと笑った。
◇
ポンプの噂は、あっという間に広まった。
その日の夕方には、隣村から見物人がやって来た。翌日には、もう少し遠くの村からも。三日目には、街道沿いの宿場町の商人までが、わざわざ見に来るほどだった。
「村の発明家、テオ」
いつの間にか、そんな呼び名までついていた。
その夜、テオは工房で、ポンプの改良案を板切れに描いていた。弁の革がすり減りにくくなる工夫。取っ手をもっと軽くするための、テコの長さ。
水筒から出てきたミズハが、テオの肩の上で板切れをのぞき込む。
「ねえ、テオ。昼間の『呼び水』の話」
「うん?」
「あれ、すてきな言葉ね。先にこっちから差し出すと、向こうからたくさん返ってくる」
ミズハは、小さく体を揺らした。
「テオが、わたしにしてくれたことと同じ」
テオは、手を止めた。
「……おばあちゃんの受け売りだよ」
「そのおばあちゃんも、すてきな人ね」
テオは照れくさくなって、板切れに目を戻した。
そのときだった。
窓の外から、聞き慣れない音が近づいてきた。
がらがらがら、という車輪の音。それも、村の荷車とは比べものにならないほど重たく、大きな音だ。馬のいななき。御者のかけ声。
テオは、窓から身を乗り出した。
月明かりの下、村の入り口に、一台の馬車が止まっていた。
見たこともないほど立派な馬車だった。黒塗りの車体に、金色の飾り。屋根の上には、山のような荷物が積み上げられている。
そして、その扉には、見たことのない紋章が描かれていた。
貴族の紋章だった。




