「この道は、都まで続いている」
三日後の夜。
テオは、古代の水路の石畳を歩いていた。
右手にランプ、背中には水と干し肉を詰めた袋。腰の水筒からは、ミズハが顔だけ出して道案内をしている。
「まだ先?」
「もう少し」
「さっきも『もう少し』って言ってたよね」
「精霊の『もう少し』は、人間の『もう少し』より長いの」
ミズハはしれっと言った。テオは苦笑して、足を進める。
古井戸の底から入って、もう一時間は歩いているだろうか。どこまで行っても、景色はほとんど変わらなかった。左手には黒く澄んだ水の流れ。頭上には、半円のアーチがどこまでも連なっている。
ただ、ところどころで、道は傷ついていた。
天井の石が崩れ落ち、通路の半分を塞いでいる場所。壁から土砂が流れ込み、水の流れをせき止めかけている場所。そのたびにテオは瓦礫を乗り越え、ミズハは水面を伝ってその先へ回り込んだ。
「ここ、昔は崩れてなかったの?」
「ええ。土の子たちが、毎日見回ってたもの」
ミズハは、崩れた天井を見上げた。
「ひびが入れば、すぐに埋めてくれた。水があふれそうになれば、風の子が教えてくれた。暗いところには、火の子が明かりを灯してくれた。人間たちも一緒に、石を運んだり、壁を磨いたりしていたわ」
「みんな、いなくなっちゃったの?」
「いなくなったんじゃないの。どこかには、いるはず」
ミズハの光が、少しだけ揺れた。
「でも、道がこんなふうに途切れてしまったから、もう会いに行けないの。水の流れは、わたしたちの通り道でもあるのよ。流れが細くなって、途切れて……遠くの子たちとは、もうずっと話をしていない」
テオは、瓦礫の山を見つめた。
ただ石が崩れているだけではなかった。これは、精霊たちを隔てる壁でもあるのだ。
◇
やがて、前方の闇の中に、ぼんやりと何かが見えてきた。
道が、広がっていた。
テオはランプを高く掲げ、息をのんだ。
円い広間だった。
天井は、それまでのアーチよりもさらに高い。丸い天井の真ん中から、まるで木の根のように、いくつもの水の道が四方八方へ分かれていく。テオが歩いてきた道もその一本で、ほかにも、右へ、左へ、奥へ――数えてみると、八本もの道がこの広間に集まっていた。
「ここは……」
「分かれ道の広間。昔は、たくさんの人間がここで行き先を選んでいたの」
ミズハが水筒から飛び出し、広間の奥の壁のほうへふわりと飛んでいった。
「テオ。これを見て」
テオは、ミズハの光を追いかけた。
奥の壁は、ほかの壁と違っていた。
一枚の巨大な石板だった。テオが両腕を広げても、端から端まで届かない。その表面いっぱいに、細い線が彫り込まれていた。
線は、くねくねと曲がりながら、石板の上を縦横に走っていた。ところどころで線が交わり、そこには小さな丸い印が刻まれている。いくつもの線が、石板のあちこちで枝分かれし、つながり合い、まるで蜘蛛の巣か、木の葉の葉脈のように広がっていた。
「地図……?」
テオは、ランプを石板に近づけた。
丸い印の横には、見たことのない文字が添えられている。読めない。けれど、線の形には見覚えがあった。
石板の左下、山並みの絵の手前に、小さな丸い印。そこから線が一本延びて、この広間らしき大きな丸につながっている。
「これ、もしかして……僕たちの村?」
「そう。村の古井戸は、この小さな丸」
ミズハは、石板の上をすうっと滑るように飛んだ。
「この線が、水の道。丸い印は、町や村。昔はね、この線の全部に水が流れていたのよ。国中の町や村に、この道を通って水が届いていたの」
テオは、石板全体を見渡した。
線は、石板の隅々にまで延びていた。山の向こうへ。川の向こうへ。森の奥へ。ひとつの村から次の村へ、町から町へ。この広間は、そのたくさんの線のうちの、ほんの一つの結び目にすぎなかった。
国中に。
この石の道が、国中に張り巡らされている。
「……すごい」
テオの声は、かすれていた。
前の世界でも、こんなものは見たことがない。何百年も前の人々が、精霊と力を合わせて、国中の地下に水の道を通したのだ。そして今、それを知っている人間は、誰一人いない。
ミズハは、石板の中央へと飛んでいった。
そこには、ひときわ大きな丸が刻まれていた。
ほかの丸の何倍もある、二重の円。その周りを囲むように、いくつもの線が集まっている。四方八方から延びてきた水の道が、すべてそこへ流れ込み、そしてまたそこから四方八方へと分かれていく。
まるで、国中の道の心臓のようだった。
「テオ。ここがどこだか、分かる?」
テオは、二重の円の上に刻まれた模様に目を凝らした。
塔のような形。それを囲む、城壁のような線。その真ん中に、王冠を思わせる小さな印。
「……都だ」
王都。
この国の王様が住む、お城のある大きな都。テオは一度も行ったことがない。村から馬車で十日もかかる、遠い遠い場所だ。
ミズハが、その二重の円の真ん中に、そっと体を寄せた。
「わたしたちの村の古井戸から延びるこの道はね」
ミズハは、石板の線をなぞるように、ゆっくりと飛んでいく。村の小さな丸から、分かれ道の広間へ。広間から、いくつもの丸を経て――中央の、二重の円へ。
「ずっと、ずっと延びていって」
青い光が、王冠の印の上で止まった。
「――この道は、都まで続いているの」
広間に、水の音だけが響いていた。
テオは、何も言えずに石板を見上げていた。
ランプの明かりが届かない闇の向こうに、この道は続いている。崩れて、途切れて、誰にも知られないまま、それでも都まで。
「ねえ、ミズハ」
テオは、ゆっくりと口を開いた。
「都にも、精霊はいるの?」
「いるはずよ。昔は、都の水の道にもたくさんの子たちがいた。わたしの……」
ミズハは、そこで言葉を切った。
少しの沈黙のあと、小さな声で続ける。
「わたしの、古い友だちもいたの。都のいちばん大きな泉に住んでいた子。いつも、都の噂話を水に乗せて届けてくれた」
「今は?」
「わからない。道が途切れてから、もう何百年も話していないもの」
ミズハは、二重の円を見つめていた。
その光が、ほんの少しだけ、ぼやけて見えた。
テオは、石板に手を伸ばした。
指先で、村の小さな丸に触れる。そこから、線をたどっていく。分かれ道の広間。いくつもの町。いくつもの村。そして――都。
「……いつか、行ってみたいな」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「この道の先に。都に」
ミズハが、くるりとテオを振り返った。
「テオが?」
「うん。ミズハの友だちが、まだいるかどうか、確かめに」
テオは、照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「それに、見てみたいんだ。この道が、本当に都までつながってるのか。どんな人たちが、どんなふうに暮らしてるのか」
ミズハは、しばらく黙ってテオを見つめていた。
それから、ふわりとテオの肩に戻ってきた。
ひんやりとした感触が、首筋に触れる。
「……ふふ。テオって、本当に変な人間ね」
「よく言われる」
「村から都までは、馬車で十日もかかるのよ。テオみたいな子どもが、一人で行けるところじゃないわ」
「分かってるよ」
テオは、石板を見上げたまま答えた。
分かっている。自分はただの村の子どもだ。発明が少し得意なだけで、お金もないし、都に知り合いもいない。馬車に乗る理由もない。
けれど。
「いつか、だよ。いつか」
ミズハは、それ以上何も言わなかった。
ただ、テオの肩の上で、小さく、うれしそうに体を揺らした。
◇
帰り道、テオは何度も後ろを振り返った。
分かれ道の広間は、すぐに闇の中に溶けて見えなくなった。それでも、まぶたの裏には、あの石板の模様が焼きついていた。
国中に張り巡らされた線。
それぞれの線を流れていた水。
そして、すべての線が集まる、都という名の大きな丸。
古井戸の縄ばしごを登りきると、空はもう白みはじめていた。
テオは、井戸の縁に腰かけて、東の空を見上げた。
あの空の下、ずっとずっと遠くに、都がある。
(いつか――)
そのとき、腰の水筒の中で、ミズハがぽつりとつぶやいた。
「ねえ、テオ。『いつか』って、案外すぐに来るものよ」
「え?」
「精霊の勘」
ミズハは、それきり水筒の中で黙ってしまった。
テオは首をかしげながら、朝焼けに染まる村への道を歩きはじめた。
それが、半月もしないうちに本当になるとは、このときのテオはまだ知らなかった。




