石造りの、古い道
その夜、アースが寝息を立てはじめたのを確かめてから、テオは作業台の前で水筒の栓を抜いた。
「ミズハ。ちょっと相談があるんだ」
水筒の口から、青い雫がふわりと浮かび上がる。
「アースのこと?」
「うん。明日、畦を直すのを手伝うって約束しちゃったんだけど……僕、土魔法なんて使えないし」
ミズハは、テオの肩にちょこんと乗った。ひんやりとした感触が、首筋に伝わってくる。
「昼間の土の子たち、ずいぶん機嫌が悪かったでしょう」
「怒鳴られてたからね」
「それもあるけど、それだけじゃないの」
ミズハは、窓の外の乾いた畑のほうへ体を向けた。
「土の子たちはね、喉が渇いてるの。この夏、ずっと雨が降らないから。からからに乾いた土は、いくら押し固めても、すぐにぼろぼろ崩れちゃう。土の子たちだって、どうしようもないのよ」
テオは、昼間にすくった土の手触りを思い出した。指の間からさらさらとこぼれていった、乾ききった土。
「……つまり、土を湿らせてやればいいってこと?」
「そういうこと」
「でも、水がないから困ってるんだよ。村の井戸だって、ミズハのおかげで少し増えたけど、畑に回すほどは――」
「水なら、あるわよ」
ミズハは、テオの肩の上でくるりと回った。
「言ったでしょう? 古井戸の奥には、まだたくさん水が流れてるって」
それから、少しだけ声の調子を変えた。
「テオ。今夜、あの奥を見せてあげる」
◇
二度目の古井戸は、一度目ほど怖くなかった。
縄ばしごを降りきると、ミズハが水筒から飛び出し、壁の入り口の前で青く光った。
「こっちよ」
テオはランプを掲げ、かがんで入り口をくぐった。
狭い通路だった。大人なら頭をぶつけそうな高さで、左右の壁にはやはり、ぴったりと噛み合った石が積まれている。足元はわずかに下り坂になっていて、奥へ進むほど、空気がひんやりと湿っていく。
水の音が、近づいてくる。
ちゃぷん、ではない。もっと大きな音だ。さらさらと、絶え間なく、どこまでも続いていく流れの音。
二十歩ほど進んだところで、通路が急に途切れた。
テオは、足を止めた。
ランプの明かりが、届かなかった。
目の前に、巨大な空間が広がっていた。
天井は、テオの背丈の三倍はあるだろうか。石を積んだ半円形のアーチが、奥の闇に向かってどこまでも連なっている。その真ん中を、幅の広い水の流れが走っていた。黒く澄んだ水が、ランプの光を受けてきらきらと揺れながら、闇の奥から流れてきて、また闇の奥へと流れていく。
流れの両側には、人が並んで歩けるほどの石畳の通路が、まっすぐに延びていた。
「これ……」
声が、高い天井にこだました。
「これ、なんだ……?」
「水の道よ」
ミズハが、テオの目の前に浮かんだ。その青い光が、水面に映ってゆらゆらと揺れる。
「むかしむかし、人間とわたしたちが一緒に作った道。遠くの山から、たくさんの町や村に水を運ぶための道」
テオは、ゆっくりと通路を歩きはじめた。
石畳の継ぎ目に、ランプを近づける。紙一枚差し込めないほど、ぴったりと隙間なく並んでいる。壁を手でなぞる。何百年も水に洗われてきたはずなのに、表面はなめらかで、ひび一つない。
アーチの頂上の石――要石には、何かの模様が彫り込まれていた。波のような曲線と、その上に小さな雫の形。
(ミズハの形だ)
テオは、目を凝らした。
次のアーチの要石には、丸い小石のような模様。その次には、渦を巻く線。その次には、揺らめく炎のような形。
水、土、風、火。
まるで、精霊たちの姿を描いたかのような模様が、アーチごとに順番に刻まれていた。
「本当に……一緒に作ったんだ」
テオはつぶやいた。
前の世界の記憶をたどってみる。ローマの水道橋。江戸の玉川上水。教科書で見た、昔の人たちが何年もかけて作り上げた水の道。
けれど、そのどれとも違った。ここの石組みには、無理に削ったり、力ずくで押し込んだりした跡がどこにもない。石そのものが、自分からここに収まりたがったように見える。
テオは、通路の先を見つめた。
ランプの光が届かない、どこまでも続くまっすぐな闇。その真ん中を、ゆるやかに流れていく水。両側に延びる、平らな石の道。
ふと、何かが頭の隅をよぎった。
暗い穴の奥へ、まっすぐに延びていく道。前の世界のどこかで、確かにこんな景色を見たことがある気がする――。
けれど、それが何だったのか、思い出す前に消えてしまった。
「テオ?」
「……ううん。なんでもない」
テオは首を振った。
「すごいところだね、ここ」
ミズハは、うれしそうに体を揺らした。けれど、その光はすぐに少しだけ翳った。
「昔は、もっとすごかったのよ。水は今の何倍も流れていたし、土の子も、風の子も、火の子も、みんなここにいた。人間たちも、毎日ここを歩いていた」
「今は?」
「……今は、わたしだけ」
ミズハは、それ以上何も言わなかった。
テオも、聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
かわりに、テオは水の流れの前にしゃがみ込み、両手を合わせた。
「この水、少しだけ分けてもらってもいいかな。弟の畑に」
ミズハが、ぱちぱちとまたたくように光った。
「もう。テオったら、わたしにまでお願いするの?」
「だって、ミズハたちが守ってきた水だろう?」
ミズハは、くすりと笑った。
「いいわよ。ちょうど、アースの畑の下にも、昔の細い水の道が通ってるの。そこに少しだけ流してあげる。朝には、土がしっとりしてるはずよ」
「ありがとう、ミズハ」
「どういたしまして」
ミズハはくるりと宙返りをすると、水面にするりと潜っていった。
青い光が、流れに乗って闇の奥へ遠ざかっていく。
テオはしばらく、その光を見送っていた。
それから、もう一度、果てしなく続く石の道を見上げた。
(この道は……いったい、どこまで続いてるんだろう)
◇
翌朝。
畑に着いたアースは、崩れた畦の前で首をかしげた。
「……あれ?」
しゃがみ込んで、土に手を当てる。
「湿ってる。雨、降ってないのに」
テオはあくびを噛み殺しながら、何食わぬ顔でとなりに立った。
「朝露じゃないか?」
「朝露でこんなに湿るかな……」
アースは不思議そうに土をつまんでいたが、やがて気を取り直したように両手を地面に押し当てた。
「よし。兄ちゃん、見てて」
テオの目には、もう見えていた。
畑の土の中から、焦げ茶色の小石のような精霊たちが顔を出している。昨日の不機嫌そうな顔ではない。湿った土の中で、気持ちよさそうに体を伸ばしている。
その中に、苔の帽子をかぶった一匹がいた。
テオは、アースに気づかれないように、小さく口を動かした。
(今日は、アースをよろしくね)
苔の帽子の精霊が、ちらりとテオを見た。それから、ふん、と鼻を鳴らすような仕草をした。
「土よ、我に従え! この畦を固めよ!」
アースの声が、畑に響く。
精霊たちは、相変わらずびくりと首をすくめた。命令の言葉は、やっぱり好きではないらしい。
けれど、昨日とは動きが違った。
湿った土をぎゅっと抱え込み、体ごと押しつけるようにして、畦のひび割れを一つひとつ埋めていく。苔の帽子の精霊が、仲間たちに何やら指図をしている。端から端まで、ていねいに。
やがて、精霊たちが土の中に戻っていった。
アースはおそるおそる立ち上がり、直した畦に足をのせた。
崩れなかった。
体重をかけても、跳ねてみても、畦はびくともしなかった。
「……やった」
アースの顔が、ぱっと輝いた。
「やった! 兄ちゃん、見た!? 崩れない!」
「ああ、見てたよ」
「すごい、昨日と全然違う! なんでだろう、今日は土の機嫌がいいのかな!」
アースは、昨日テオが言った言葉をそのまま口にして、それから自分でおかしくなったのか、けらけらと笑い出した。
「兄ちゃんの言ったとおりだ。土の機嫌って、本当にあるのかも」
「だろ?」
テオは笑い返した。
本当のことは、何も言えない。湿った土がどこから来たのかも、畦を固めたのが誰なのかも。
けれど、弟が笑っている。それで十分だった。
アースは勢いづいて、次の畦へと駆けていった。その背中を見送りながら、テオは腰の水筒にそっと手を当てた。
ちゃぷん、と返事がした。
「ねえ、テオ」
水筒の中から、ミズハの小さな声がする。
「昨日の水の道ね。あれ、ほんの入り口なの」
「入り口?」
「次は、もっと遠くを見せてあげる」
ミズハの声は、どこか楽しそうで――それでいて、ほんの少しだけ、寂しそうでもあった。
「あの道が、どこまで続いているのか」




