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異世界鉄道王物語  作者: 蒼屋 瑞希
第一部 窓辺の王女と、地下の水音
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3/16

命令しない兄ちゃん

「便所、長すぎない?」


 明け方の草むらで、アースは腕を組んでいた。十歳の弟のくせに、こういうときの顔は母さんにそっくりだ。


 テオは泥だらけの膝を払いながら、必死に頭を回した。


(精霊が見えるなんて言えない。言ったら、母さんみたいに心配させるだけだ)


「……古井戸の底に、まだ水が残ってないか調べてたんだ」


「夜中に?」


「昼間だと、ヨアヒム爺さんに怒られるだろ。『近づくな』って札があるんだから」


「ふうん」


 アースは、板の外れた古井戸をのぞき込んだ。真っ暗な穴の底は、もちろん何も見えない。


「で、あったの? 水」


「……少しだけな」


 嘘ではなかった。


 腰の水筒の中で、ミズハがちゃぷんと小さく跳ねる。テオは慌てて水筒を手で押さえた。


 アースは、じっとテオを見ていた。何か言いたそうに口を開きかけて、結局、ぷいと顔をそむけた。


「……まあ、いいけど。母さんが起きる前に戻らないと、二人とも怒られるよ」


「ああ。悪かったな」


 二人で板をはめ直し、縄ばしごを回収して、こっそり家に戻る。


 帰り道、アースがぽつりとつぶやいた。


「兄ちゃんってさ、昔から時々、何もないところをじっと見てるよね」


 テオの足が、一瞬止まりかけた。


「……そうか?」


「そうだよ。かまどの前とか、小川とか」


「考え事してるだけだって」


「ふうん」


 アースはそれ以上何も聞かなかった。


 けれど、その「ふうん」が、テオにはやけに重たく聞こえた。


◇


 その日の朝、村は小さな騒ぎになっていた。


「おい、見ろよ! 井戸の水が増えてる!」


 広場の井戸のまわりに、村人たちが集まっている。のぞき込むと、確かに水面が昨日より手のひら一つ分ほど高くなっていた。


「ヨアヒム爺さんの呪文が、遅れて効いたんじゃないか?」


「さすがだなあ!」


 人だかりの真ん中で、ヨアヒム爺さんが首をひねっていた。


「わしの呪文が……遅れて? そんなことは今まで一度も……」


 テオは、人だかりの後ろからそっと井戸を見た。


 石組みの隙間から、昨日の青い影たちが顔をのぞかせていた。一つ、二つ、三つ。昨日のように縮こまってはいない。こわごわと、けれど興味深そうに、こちらを見ている。


(夜のうちに、ミズハが話をしてくれたんだな)


 古井戸から戻ったあと、ミズハは「ちょっと行ってくる」と言って水筒から飛び出し、村の井戸へ潜っていったのだ。何を話したのかは知らない。けれど、影たちの様子を見れば、悪い話ではなかったらしい。


 人だかりがばらけたあと、テオは井戸の前に一人で立った。


 誰も見ていないのを確かめて、小さく手を合わせる。


「水、分けてくれてありがとう」


 石組みの影たちが、びくっと跳ねた。


 それから、そろそろと隙間から出てきて、テオのほうをじっと見上げた。昨日のミズハと同じ目だった。信じられないものを見る目。


 その中の一つが、ほんの少しだけ、ぺこりとお辞儀を返したように見えた。


 テオは思わず笑ってしまった。


「――兄ちゃん、何に頭下げてんの?」


 振り返ると、桶を抱えたアースが立っていた。


「お、おまじないだよ。水をくれてありがとう、って」


「井戸に?」


「井戸に」


 アースは、ぷっと吹き出した。


「変なの」


「いいだろ、別に」


 テオはそっぽを向いた。腰の水筒の中で、ミズハがくすくす笑っている気配がした。


◇


 昼過ぎ、アースは村長に呼ばれた。


 日照りで地面がひび割れ、畑の畦があちこちで崩れかけているのだという。それを土魔法で直してほしい、という頼みだった。


 アースは、村の子どもの中でいちばん土魔法が得意だった。砂で小さな城を作ったり、ぬかるみを固めて道にしたり。村の大人たちも、ちょっとした土仕事はアースに頼むようになっている。


 テオは、アースのあとについて畑へ向かった。


「見ててよ、兄ちゃん」


 アースは崩れかけた畦の前にしゃがみ込み、両手を地面に押し当てた。


 深く息を吸って、声を張り上げる。


「土よ、我に従え! この畦を固めよ!」


 その瞬間、テオの目には見えた。


 畑の土の中から、もぞもぞと這い出してくる小さな影たち。焦げ茶色の、丸い小石のような体。頭に苔の帽子をのせたもの、ひびの入った背中を丸めたもの。


 ミズハや井戸の影たちとは違う、土の精霊たちだった。


 彼らは、アースの声にびくりと首をすくめた。それから、いかにも面倒くさそうに、のろのろと畦の上に集まっていく。


 一匹が、隣の一匹に何か言った。


 声は聞こえない。けれど、その顔は明らかに「またか」と言っていた。


 土の精霊たちは、崩れた畦の上でぎゅっと体を押しつけ合った。土が盛り上がり、ひび割れが埋まっていく。


「……よしっ!」


 アースが額の汗をぬぐって、顔を上げた。


 畦は、元どおりの形になっていた。


 けれど――。


 テオは見ていた。精霊たちが、仕事を終えるや否や、さっさと土の中に引っ込んでいくのを。押し固めたというより、ただ形を整えて置いていっただけ。そんな雑な仕事だった。


 アースが立ち上がり、直したばかりの畦に足をのせる。


 ぼろり。


 畦の端が、あっけなく崩れた。


「あっ……」


 アースは慌ててしゃがみ込み、もう一度手を押し当てた。


「土よ、従え! 固まれ!」


 精霊たちが、さっきよりもっと嫌そうな顔で這い出してくる。


(ああ、怒鳴られて嫌がってる)


 二度目の畦は、一度目よりもさらに早く崩れた。


 三度目。四度目。


 アースの声が、だんだん大きくなっていく。精霊たちの顔が、だんだん不機嫌になっていく。


 やがて、アースはぺたんと地面に座り込んだ。


「……なんでだよ」


 その声は、少し震えていた。


「なんで僕の魔法、すぐ崩れるんだろう。ちゃんと力を込めてるのに。ヨアヒム爺さんにも、『もっと強く命じろ』って言われてるのに」


 テオは、何も言えなかった。


 言いたいことはあった。


 命じちゃ駄目なんだ。怒鳴られて、嫌がってるんだ。お願いして、お礼を言えば、きっと――。


 けれど、それを言えば、なぜ分かるのかを話さなければならない。精霊が見えることを。この世界の誰にも見えないものが、自分にだけ見えていることを。


(まだ、言えない)


 テオは黙って、アースの隣にしゃがみ込んだ。


 崩れた土を、両手ですくう。乾ききって、ぼろぼろとこぼれていく土だった。


「この日照りじゃ、土だって疲れてるんだよ」


 テオは、すくった土をそっと畦の上に戻した。


「お前の魔法が悪いんじゃない。今日はちょっと、土の機嫌が悪いだけだ」


「土の機嫌って……」


 アースは呆れたように兄を見た。


「兄ちゃんって、変なこと言うよね。井戸にお礼言ったり、土の機嫌とか」


「そうか?」


「そうだよ」


 アースは、膝を抱えて畦を見つめた。


 それから、ぽつりと言った。


「兄ちゃんってさ、命令しないよね」


「え?」


「工房の道具にも『ありがとな』とか言ってるし。僕に何か頼むときも、『やれ』じゃなくて『手伝ってくれるか?』って言うし。母さんにも、村の大人にも、誰にも命令してるとこ見たことない」


 テオは、少し驚いて弟の顔を見た。


 自分では、気にしたこともなかった。たぶん、前の世界のおばあちゃんの口ぐせが、そのまま染みついているだけだ。


「……変か?」


「変だよ」


 アースはそう言って、それから少しだけ笑った。


「でも、兄ちゃんに頼まれると、なんか手伝いたくなるんだよね。不思議だけど」


 テオは、返す言葉が見つからなかった。


 そのとき、腰の水筒がちゃぷんと揺れた。


 畦の上に目をやると、土の中から、さっきの精霊が一匹だけ顔を出していた。苔の帽子をのせた、小さな焦げ茶色の精霊。


 それは、じっとアースを見ていた。


 怒鳴られていたときの不機嫌な顔ではなかった。膝を抱えてうつむく男の子を、どこか気づかわしげに見つめている。


 それから、ちらりとテオのほうを見て――ふいっと、土の中に潜っていった。


(……あいつら、アースのことが嫌いなわけじゃないんだな)


 テオは、乾いた畑の向こうに広がる空を見上げた。


 雲は、一つもなかった。


「アース。明日、もう一回やってみよう」


「……うん」


「今度は、僕も手伝うから」


「兄ちゃん、土魔法使えないじゃん」


「使えなくても、手伝えることはあるさ」


 アースは怪訝そうな顔をしたが、それでも小さくうなずいた。


 水筒の中で、ミズハがささやいた。


「テオ。あの子、いい子ね」


 テオは、弟に聞こえないように、小さく「ああ」と答えた。


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