命令しない兄ちゃん
「便所、長すぎない?」
明け方の草むらで、アースは腕を組んでいた。十歳の弟のくせに、こういうときの顔は母さんにそっくりだ。
テオは泥だらけの膝を払いながら、必死に頭を回した。
(精霊が見えるなんて言えない。言ったら、母さんみたいに心配させるだけだ)
「……古井戸の底に、まだ水が残ってないか調べてたんだ」
「夜中に?」
「昼間だと、ヨアヒム爺さんに怒られるだろ。『近づくな』って札があるんだから」
「ふうん」
アースは、板の外れた古井戸をのぞき込んだ。真っ暗な穴の底は、もちろん何も見えない。
「で、あったの? 水」
「……少しだけな」
嘘ではなかった。
腰の水筒の中で、ミズハがちゃぷんと小さく跳ねる。テオは慌てて水筒を手で押さえた。
アースは、じっとテオを見ていた。何か言いたそうに口を開きかけて、結局、ぷいと顔をそむけた。
「……まあ、いいけど。母さんが起きる前に戻らないと、二人とも怒られるよ」
「ああ。悪かったな」
二人で板をはめ直し、縄ばしごを回収して、こっそり家に戻る。
帰り道、アースがぽつりとつぶやいた。
「兄ちゃんってさ、昔から時々、何もないところをじっと見てるよね」
テオの足が、一瞬止まりかけた。
「……そうか?」
「そうだよ。かまどの前とか、小川とか」
「考え事してるだけだって」
「ふうん」
アースはそれ以上何も聞かなかった。
けれど、その「ふうん」が、テオにはやけに重たく聞こえた。
◇
その日の朝、村は小さな騒ぎになっていた。
「おい、見ろよ! 井戸の水が増えてる!」
広場の井戸のまわりに、村人たちが集まっている。のぞき込むと、確かに水面が昨日より手のひら一つ分ほど高くなっていた。
「ヨアヒム爺さんの呪文が、遅れて効いたんじゃないか?」
「さすがだなあ!」
人だかりの真ん中で、ヨアヒム爺さんが首をひねっていた。
「わしの呪文が……遅れて? そんなことは今まで一度も……」
テオは、人だかりの後ろからそっと井戸を見た。
石組みの隙間から、昨日の青い影たちが顔をのぞかせていた。一つ、二つ、三つ。昨日のように縮こまってはいない。こわごわと、けれど興味深そうに、こちらを見ている。
(夜のうちに、ミズハが話をしてくれたんだな)
古井戸から戻ったあと、ミズハは「ちょっと行ってくる」と言って水筒から飛び出し、村の井戸へ潜っていったのだ。何を話したのかは知らない。けれど、影たちの様子を見れば、悪い話ではなかったらしい。
人だかりがばらけたあと、テオは井戸の前に一人で立った。
誰も見ていないのを確かめて、小さく手を合わせる。
「水、分けてくれてありがとう」
石組みの影たちが、びくっと跳ねた。
それから、そろそろと隙間から出てきて、テオのほうをじっと見上げた。昨日のミズハと同じ目だった。信じられないものを見る目。
その中の一つが、ほんの少しだけ、ぺこりとお辞儀を返したように見えた。
テオは思わず笑ってしまった。
「――兄ちゃん、何に頭下げてんの?」
振り返ると、桶を抱えたアースが立っていた。
「お、おまじないだよ。水をくれてありがとう、って」
「井戸に?」
「井戸に」
アースは、ぷっと吹き出した。
「変なの」
「いいだろ、別に」
テオはそっぽを向いた。腰の水筒の中で、ミズハがくすくす笑っている気配がした。
◇
昼過ぎ、アースは村長に呼ばれた。
日照りで地面がひび割れ、畑の畦があちこちで崩れかけているのだという。それを土魔法で直してほしい、という頼みだった。
アースは、村の子どもの中でいちばん土魔法が得意だった。砂で小さな城を作ったり、ぬかるみを固めて道にしたり。村の大人たちも、ちょっとした土仕事はアースに頼むようになっている。
テオは、アースのあとについて畑へ向かった。
「見ててよ、兄ちゃん」
アースは崩れかけた畦の前にしゃがみ込み、両手を地面に押し当てた。
深く息を吸って、声を張り上げる。
「土よ、我に従え! この畦を固めよ!」
その瞬間、テオの目には見えた。
畑の土の中から、もぞもぞと這い出してくる小さな影たち。焦げ茶色の、丸い小石のような体。頭に苔の帽子をのせたもの、ひびの入った背中を丸めたもの。
ミズハや井戸の影たちとは違う、土の精霊たちだった。
彼らは、アースの声にびくりと首をすくめた。それから、いかにも面倒くさそうに、のろのろと畦の上に集まっていく。
一匹が、隣の一匹に何か言った。
声は聞こえない。けれど、その顔は明らかに「またか」と言っていた。
土の精霊たちは、崩れた畦の上でぎゅっと体を押しつけ合った。土が盛り上がり、ひび割れが埋まっていく。
「……よしっ!」
アースが額の汗をぬぐって、顔を上げた。
畦は、元どおりの形になっていた。
けれど――。
テオは見ていた。精霊たちが、仕事を終えるや否や、さっさと土の中に引っ込んでいくのを。押し固めたというより、ただ形を整えて置いていっただけ。そんな雑な仕事だった。
アースが立ち上がり、直したばかりの畦に足をのせる。
ぼろり。
畦の端が、あっけなく崩れた。
「あっ……」
アースは慌ててしゃがみ込み、もう一度手を押し当てた。
「土よ、従え! 固まれ!」
精霊たちが、さっきよりもっと嫌そうな顔で這い出してくる。
(ああ、怒鳴られて嫌がってる)
二度目の畦は、一度目よりもさらに早く崩れた。
三度目。四度目。
アースの声が、だんだん大きくなっていく。精霊たちの顔が、だんだん不機嫌になっていく。
やがて、アースはぺたんと地面に座り込んだ。
「……なんでだよ」
その声は、少し震えていた。
「なんで僕の魔法、すぐ崩れるんだろう。ちゃんと力を込めてるのに。ヨアヒム爺さんにも、『もっと強く命じろ』って言われてるのに」
テオは、何も言えなかった。
言いたいことはあった。
命じちゃ駄目なんだ。怒鳴られて、嫌がってるんだ。お願いして、お礼を言えば、きっと――。
けれど、それを言えば、なぜ分かるのかを話さなければならない。精霊が見えることを。この世界の誰にも見えないものが、自分にだけ見えていることを。
(まだ、言えない)
テオは黙って、アースの隣にしゃがみ込んだ。
崩れた土を、両手ですくう。乾ききって、ぼろぼろとこぼれていく土だった。
「この日照りじゃ、土だって疲れてるんだよ」
テオは、すくった土をそっと畦の上に戻した。
「お前の魔法が悪いんじゃない。今日はちょっと、土の機嫌が悪いだけだ」
「土の機嫌って……」
アースは呆れたように兄を見た。
「兄ちゃんって、変なこと言うよね。井戸にお礼言ったり、土の機嫌とか」
「そうか?」
「そうだよ」
アースは、膝を抱えて畦を見つめた。
それから、ぽつりと言った。
「兄ちゃんってさ、命令しないよね」
「え?」
「工房の道具にも『ありがとな』とか言ってるし。僕に何か頼むときも、『やれ』じゃなくて『手伝ってくれるか?』って言うし。母さんにも、村の大人にも、誰にも命令してるとこ見たことない」
テオは、少し驚いて弟の顔を見た。
自分では、気にしたこともなかった。たぶん、前の世界のおばあちゃんの口ぐせが、そのまま染みついているだけだ。
「……変か?」
「変だよ」
アースはそう言って、それから少しだけ笑った。
「でも、兄ちゃんに頼まれると、なんか手伝いたくなるんだよね。不思議だけど」
テオは、返す言葉が見つからなかった。
そのとき、腰の水筒がちゃぷんと揺れた。
畦の上に目をやると、土の中から、さっきの精霊が一匹だけ顔を出していた。苔の帽子をのせた、小さな焦げ茶色の精霊。
それは、じっとアースを見ていた。
怒鳴られていたときの不機嫌な顔ではなかった。膝を抱えてうつむく男の子を、どこか気づかわしげに見つめている。
それから、ちらりとテオのほうを見て――ふいっと、土の中に潜っていった。
(……あいつら、アースのことが嫌いなわけじゃないんだな)
テオは、乾いた畑の向こうに広がる空を見上げた。
雲は、一つもなかった。
「アース。明日、もう一回やってみよう」
「……うん」
「今度は、僕も手伝うから」
「兄ちゃん、土魔法使えないじゃん」
「使えなくても、手伝えることはあるさ」
アースは怪訝そうな顔をしたが、それでも小さくうなずいた。
水筒の中で、ミズハがささやいた。
「テオ。あの子、いい子ね」
テオは、弟に聞こえないように、小さく「ああ」と答えた。




