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異世界鉄道王物語  作者: 蒼屋 瑞希
第一部 窓辺の王女と、地下の水音
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2/10

おばあちゃんの井戸と、小さな水の精霊

「わたしが、見えるの?」


 雫の形をした小さな光が、もう一度たずねた。


 テオは喉を鳴らした。声が出ない。


 十二年間、ずっと見えていた。けれど、向こうから話しかけられたのは初めてだった。村の井戸の影たちも、小川の影たちも、テオと目が合いそうになるとすぐに隠れてしまう。こんなふうに、まっすぐ見つめ返されたことなど一度もない。


「……み、見える」


 ようやく、かすれた声が出た。


「青くて、雫みたいな形で……親指くらいの大きさ。今、ちょっと震えてる」


 光が、ぴたりと止まった。


 それから、ふるふると激しく揺れはじめた。


「見えてる。ほんとうに、見えてる……」


 小さな声が、泣き出しそうに上ずる。


「人間が、わたしを見たのは……いつ以来だろう。もう、思い出せないくらい昔」


 テオは何と言えばいいのか分からず、ただランプを少し下げた。まぶしいかもしれない、と思ったのだ。


 光は、ふわりとテオの目の高さまで浮かび上がった。近くで見ると、その内側でかすかに水が揺れているのが分かる。光というより、月の光を閉じ込めた水の粒のようだった。


「あなた、名前は?」


「テオ。この上の村に住んでる」


「テオ」


 光は、その名前を確かめるように繰り返した。


「わたしの名前は、ミィズゥルハ・セラフィネル・リュリュエ」


「……え?」


「ミィズゥルハ・セラフィネル・リュリュエ」


 鈴を転がすような声で、さらさらと流れるように名乗る。水が石の上を滑っていくような響きだった。


 テオは、口を開いた。


「ミ、ミィズ……ズゥ……」


 舌がもつれた。


「ミィズゥルハ・セラ、セラフィ……リュ、リュリュ……」


 がちっ、と舌を噛んだ。


「いっ……!」


 口を押さえてうずくまるテオを、光がおろおろと見下ろす。


「だ、大丈夫? 人間の口には、むずかしい名前だったかも」


「ご、ごめん。もう一回だけ……」


 テオは涙目のまま、ゆっくりと繰り返した。


「ミィ……ズゥ……ル、ハ……」


「ミ……ズ……ハ……」


 その音を口にした瞬間。


 ふいに、頭の奥で何かがほどけた。


◇


 ――ぎい、こん。ぎい、こん。


 鉄の取っ手を押し下げる音。蝉の声。土の匂い。


 夏休みに預けられた、田舎のおばあちゃんの家。


 その裏庭には、古い井戸があった。水道が引かれてからも、おばあちゃんは毎朝その井戸の手押しポンプで水を汲み、庭の野菜にやっていた。


 そして、汲む前には必ず、井戸に向かって手を合わせていた。


「ねえ、おばあちゃん。なんで井戸にお辞儀するの?」


 幼いころの自分――前の世界の自分が、そうたずねている。


 おばあちゃんは、しわだらけの手を合わせたまま、にこりと笑った。


「井戸にはね、水神様がいらっしゃるんだよ。ミズハノメ様っていう、お水の神様」


「ミズハノメさま?」


「そう。毎日おいしいお水を分けてくださるんだから、ちゃんとお礼を言わないとね」


 おばあちゃんは、もう一度深く頭を下げた。


「水神様、今日もお水をいただきます。ありがとうございます」


 幼い自分も、見よう見まねで小さな手を合わせた。


「ありがとう、ございます」


 ひんやりとした井戸の水は、甘くて、おいしかった。


◇


「……テオ?」


 小さな声に呼ばれて、テオは我に返った。


 井戸の底。ランプの明かり。目の前に浮かぶ、雫の形の光。


 さっき古井戸の口で「懐かしい」と感じた匂いの正体が、ようやく分かった。おばあちゃんの井戸の匂いだ。冷たい石と、苔と、澄んだ水の匂い。


 テオは、ゆっくりと立ち上がった。


 それから、両手を合わせた。


 光が、きょとんとする。


 テオは、目の前の小さな精霊に向かって、深く頭を下げた。


「ずっとここで、水を守ってくれてたんだよね」


 井戸の上から聞こえた、あのたっぷりとした水の音。五十年前に涸れたはずのこの井戸の奥で、それでもまだ水が流れている。誰にも見えないまま、誰にも知られないまま、この小さな精霊はここにいたのだ。


「ありがとう」


 しん、と井戸の底が静まり返った。


 顔を上げると、光が固まっていた。


 震えてもいない。揺れてもいない。ただ、ぴたりと宙に止まっている。


「……いま」


 ようやく、かすかな声がした。


「いま、なんて言ったの?」


「え? ありがとう、って……」


「ありがとう」


 光は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。


「人間に『ありがとう』なんて言われたの、はじめて」


「はじめて?」


「人間はいつも『従え』とか『湧け』とか、そういうことしか言わないもの。わたしたちのことが見えなくなるずっと前から、ずっとそうだった」


 テオは、昼間の村の広場を思い出した。


 ヨアヒム爺さんの呪文に、びくりと身を縮めていた影たち。


(あれは……怒鳴られてたから、だったのか)


「でも、あなたはちがう」


 光が、そっとテオの胸の前まで近づいてきた。


「手を合わせて、お礼を言ってくれた。そんな人間、見たことない」


「おばあちゃんが、そうしてたんだ」


 言ってから、テオはしまったと思った。この世界の祖母には、会ったことがない。前の世界のおばあちゃんの話だ。


 けれど、精霊は気にした様子もなかった。


「やさしいおばあちゃんだったのね」


「……うん」


 テオは、ちょっと照れくさくなって鼻の頭をかいた。


「それで、その……名前のことなんだけど」


「うん」


「ごめん。たぶん僕、何回やっても噛むと思う」


「そうかも」


 精霊があっさりうなずいたので、テオは苦笑した。


「だから、さ」


 一度、深呼吸をする。


「ミズハ、って呼んでもいいかな」


 光が、ふるりと揺れた。


「ミズハ?」


「君の名前の、最初のところ。ミィズゥルハ、の……ミズハ」


 それから、少しだけ迷って付け足した。


「おばあちゃんの井戸にいた、水の神様の名前にも似てるんだ。おばあちゃんが毎朝お礼を言ってた、大事な神様。だから……君にぴったりだと思って」


 精霊は、黙っていた。


 駄目だっただろうか、とテオが不安になりかけたとき。


 ぱあっ、と。


 井戸の底が、青く染まった。


 小さな光が、ランプよりも明るく輝いていた。石組みの壁が、苔が、テオの手のひらが、澄んだ水色に照らし出される。


「ミズハ」


 精霊――ミズハは、くるくるとテオの周りを飛び回った。


「ミズハ。ミズハ! わたし、ミズハ!」


「き、気に入ってくれた?」


「すっごく!」


 ミズハはテオの鼻先でぴたりと止まり、弾むような声で言った。


「名前を呼ばれるのも、ずっとずっと昔のことなの。それに、あなたのおばあちゃんの大事な神様の名前でしょう? そんなの、うれしいに決まってる!」


 テオは思わず笑ってしまった。


 さっきまで、泣き出しそうに震えていた精霊とは思えない。


「ねえ、テオ」


 ミズハが、少しだけ声を落とした。


「上の村、水が足りなくて困ってるでしょう。わたし、知ってる」


「……うん。この夏、ずっと雨が降らなくて」


「わたしが、手伝ってあげる」


 テオは目を見開いた。


「いいの?」


「あなたは『ありがとう』って言ってくれた。だから、今度はわたしの番」


 ミズハは胸を張るように、ぽんと跳ねた。


「この井戸の奥にはね、まだたくさん水が流れてるの。昔、みんなで作った――」


 言いかけて、ミズハはふと口をつぐんだ。


「……ううん。それは、また今度見せてあげる」


「みんなで作った?」


「また今度!」


 ミズハはくすくすと笑った。それから、テオの腰にぶら下がっている水筒に目を留める。


「それ、ちょうどいい大きさ。わたし、入ってもいい?」


「水筒に?」


「いっしょに上に行くの。村の井戸の子たちに、話をしてあげる。怖がらなくていい人間もいるんだよ、って」


 テオが水筒の栓を抜くと、ミズハはするりと中に飛び込んだ。ちゃぷん、と小さな音がする。


 真夜中に聞こえた、あの音と同じだった。


◇


 縄ばしごを登りきると、東の空がうっすらと白みはじめていた。


 テオは息を切らしながら井戸の縁を乗り越え、草むらに転がった。


「はあ……はあ……」


 腰の水筒が、楽しげにちゃぷちゃぷと揺れる。


 そのとき、頭の上から声が降ってきた。


「――兄ちゃん」


 テオは跳ね起きた。


 草むらの中に、毛布を肩に巻きつけたアースが立っていた。眠そうな目は、しかし今はしっかりと開いている。


 その視線は、板の外された古井戸と、泥だらけのテオと、木に結ばれた縄ばしごを順番に見て――最後に、じっとりとテオに戻ってきた。


「便所、長すぎない?」


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