おばあちゃんの井戸と、小さな水の精霊
「わたしが、見えるの?」
雫の形をした小さな光が、もう一度たずねた。
テオは喉を鳴らした。声が出ない。
十二年間、ずっと見えていた。けれど、向こうから話しかけられたのは初めてだった。村の井戸の影たちも、小川の影たちも、テオと目が合いそうになるとすぐに隠れてしまう。こんなふうに、まっすぐ見つめ返されたことなど一度もない。
「……み、見える」
ようやく、かすれた声が出た。
「青くて、雫みたいな形で……親指くらいの大きさ。今、ちょっと震えてる」
光が、ぴたりと止まった。
それから、ふるふると激しく揺れはじめた。
「見えてる。ほんとうに、見えてる……」
小さな声が、泣き出しそうに上ずる。
「人間が、わたしを見たのは……いつ以来だろう。もう、思い出せないくらい昔」
テオは何と言えばいいのか分からず、ただランプを少し下げた。まぶしいかもしれない、と思ったのだ。
光は、ふわりとテオの目の高さまで浮かび上がった。近くで見ると、その内側でかすかに水が揺れているのが分かる。光というより、月の光を閉じ込めた水の粒のようだった。
「あなた、名前は?」
「テオ。この上の村に住んでる」
「テオ」
光は、その名前を確かめるように繰り返した。
「わたしの名前は、ミィズゥルハ・セラフィネル・リュリュエ」
「……え?」
「ミィズゥルハ・セラフィネル・リュリュエ」
鈴を転がすような声で、さらさらと流れるように名乗る。水が石の上を滑っていくような響きだった。
テオは、口を開いた。
「ミ、ミィズ……ズゥ……」
舌がもつれた。
「ミィズゥルハ・セラ、セラフィ……リュ、リュリュ……」
がちっ、と舌を噛んだ。
「いっ……!」
口を押さえてうずくまるテオを、光がおろおろと見下ろす。
「だ、大丈夫? 人間の口には、むずかしい名前だったかも」
「ご、ごめん。もう一回だけ……」
テオは涙目のまま、ゆっくりと繰り返した。
「ミィ……ズゥ……ル、ハ……」
「ミ……ズ……ハ……」
その音を口にした瞬間。
ふいに、頭の奥で何かがほどけた。
◇
――ぎい、こん。ぎい、こん。
鉄の取っ手を押し下げる音。蝉の声。土の匂い。
夏休みに預けられた、田舎のおばあちゃんの家。
その裏庭には、古い井戸があった。水道が引かれてからも、おばあちゃんは毎朝その井戸の手押しポンプで水を汲み、庭の野菜にやっていた。
そして、汲む前には必ず、井戸に向かって手を合わせていた。
「ねえ、おばあちゃん。なんで井戸にお辞儀するの?」
幼いころの自分――前の世界の自分が、そうたずねている。
おばあちゃんは、しわだらけの手を合わせたまま、にこりと笑った。
「井戸にはね、水神様がいらっしゃるんだよ。ミズハノメ様っていう、お水の神様」
「ミズハノメさま?」
「そう。毎日おいしいお水を分けてくださるんだから、ちゃんとお礼を言わないとね」
おばあちゃんは、もう一度深く頭を下げた。
「水神様、今日もお水をいただきます。ありがとうございます」
幼い自分も、見よう見まねで小さな手を合わせた。
「ありがとう、ございます」
ひんやりとした井戸の水は、甘くて、おいしかった。
◇
「……テオ?」
小さな声に呼ばれて、テオは我に返った。
井戸の底。ランプの明かり。目の前に浮かぶ、雫の形の光。
さっき古井戸の口で「懐かしい」と感じた匂いの正体が、ようやく分かった。おばあちゃんの井戸の匂いだ。冷たい石と、苔と、澄んだ水の匂い。
テオは、ゆっくりと立ち上がった。
それから、両手を合わせた。
光が、きょとんとする。
テオは、目の前の小さな精霊に向かって、深く頭を下げた。
「ずっとここで、水を守ってくれてたんだよね」
井戸の上から聞こえた、あのたっぷりとした水の音。五十年前に涸れたはずのこの井戸の奥で、それでもまだ水が流れている。誰にも見えないまま、誰にも知られないまま、この小さな精霊はここにいたのだ。
「ありがとう」
しん、と井戸の底が静まり返った。
顔を上げると、光が固まっていた。
震えてもいない。揺れてもいない。ただ、ぴたりと宙に止まっている。
「……いま」
ようやく、かすかな声がした。
「いま、なんて言ったの?」
「え? ありがとう、って……」
「ありがとう」
光は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。
「人間に『ありがとう』なんて言われたの、はじめて」
「はじめて?」
「人間はいつも『従え』とか『湧け』とか、そういうことしか言わないもの。わたしたちのことが見えなくなるずっと前から、ずっとそうだった」
テオは、昼間の村の広場を思い出した。
ヨアヒム爺さんの呪文に、びくりと身を縮めていた影たち。
(あれは……怒鳴られてたから、だったのか)
「でも、あなたはちがう」
光が、そっとテオの胸の前まで近づいてきた。
「手を合わせて、お礼を言ってくれた。そんな人間、見たことない」
「おばあちゃんが、そうしてたんだ」
言ってから、テオはしまったと思った。この世界の祖母には、会ったことがない。前の世界のおばあちゃんの話だ。
けれど、精霊は気にした様子もなかった。
「やさしいおばあちゃんだったのね」
「……うん」
テオは、ちょっと照れくさくなって鼻の頭をかいた。
「それで、その……名前のことなんだけど」
「うん」
「ごめん。たぶん僕、何回やっても噛むと思う」
「そうかも」
精霊があっさりうなずいたので、テオは苦笑した。
「だから、さ」
一度、深呼吸をする。
「ミズハ、って呼んでもいいかな」
光が、ふるりと揺れた。
「ミズハ?」
「君の名前の、最初のところ。ミィズゥルハ、の……ミズハ」
それから、少しだけ迷って付け足した。
「おばあちゃんの井戸にいた、水の神様の名前にも似てるんだ。おばあちゃんが毎朝お礼を言ってた、大事な神様。だから……君にぴったりだと思って」
精霊は、黙っていた。
駄目だっただろうか、とテオが不安になりかけたとき。
ぱあっ、と。
井戸の底が、青く染まった。
小さな光が、ランプよりも明るく輝いていた。石組みの壁が、苔が、テオの手のひらが、澄んだ水色に照らし出される。
「ミズハ」
精霊――ミズハは、くるくるとテオの周りを飛び回った。
「ミズハ。ミズハ! わたし、ミズハ!」
「き、気に入ってくれた?」
「すっごく!」
ミズハはテオの鼻先でぴたりと止まり、弾むような声で言った。
「名前を呼ばれるのも、ずっとずっと昔のことなの。それに、あなたのおばあちゃんの大事な神様の名前でしょう? そんなの、うれしいに決まってる!」
テオは思わず笑ってしまった。
さっきまで、泣き出しそうに震えていた精霊とは思えない。
「ねえ、テオ」
ミズハが、少しだけ声を落とした。
「上の村、水が足りなくて困ってるでしょう。わたし、知ってる」
「……うん。この夏、ずっと雨が降らなくて」
「わたしが、手伝ってあげる」
テオは目を見開いた。
「いいの?」
「あなたは『ありがとう』って言ってくれた。だから、今度はわたしの番」
ミズハは胸を張るように、ぽんと跳ねた。
「この井戸の奥にはね、まだたくさん水が流れてるの。昔、みんなで作った――」
言いかけて、ミズハはふと口をつぐんだ。
「……ううん。それは、また今度見せてあげる」
「みんなで作った?」
「また今度!」
ミズハはくすくすと笑った。それから、テオの腰にぶら下がっている水筒に目を留める。
「それ、ちょうどいい大きさ。わたし、入ってもいい?」
「水筒に?」
「いっしょに上に行くの。村の井戸の子たちに、話をしてあげる。怖がらなくていい人間もいるんだよ、って」
テオが水筒の栓を抜くと、ミズハはするりと中に飛び込んだ。ちゃぷん、と小さな音がする。
真夜中に聞こえた、あの音と同じだった。
◇
縄ばしごを登りきると、東の空がうっすらと白みはじめていた。
テオは息を切らしながら井戸の縁を乗り越え、草むらに転がった。
「はあ……はあ……」
腰の水筒が、楽しげにちゃぷちゃぷと揺れる。
そのとき、頭の上から声が降ってきた。
「――兄ちゃん」
テオは跳ね起きた。
草むらの中に、毛布を肩に巻きつけたアースが立っていた。眠そうな目は、しかし今はしっかりと開いている。
その視線は、板の外された古井戸と、泥だらけのテオと、木に結ばれた縄ばしごを順番に見て――最後に、じっとりとテオに戻ってきた。
「便所、長すぎない?」




