井戸の底の水音
ちゃぷん。
真夜中、テオは寝床の中で目を開けた。
(……また、聞こえた)
隣では弟のアースが、毛布を蹴飛ばして寝息を立てている。窓の外は月明かりだけで、村は静まり返っていた。
ちゃぷん、ちゃぷん。
水の音だ。それも、桶の水が揺れるような小さな音ではない。もっと深くて、もっと遠い場所から響いてくる、たっぷりとした水の音。
おかしな話だった。この夏、村には一滴の雨も降っていない。畑の土はひび割れ、村の真ん中にある井戸も、底が見えるほど水位が下がっている。
それなのに、どこかで水が流れている。
テオはそっと体を起こし、音のする方角に耳を澄ませた。
村の外れ――「古井戸」のある方だった。
◇
その日の昼間のことだ。
村の広場には、大人も子どもも集まっていた。井戸の前に立っているのは、村でただ一人の魔法使い、ヨアヒム爺さんだ。
「静かに。今から水を呼ぶ」
爺さんは杖を井戸に向け、しわがれた声で呪文を唱えた。
「水よ、我が声に従え。この井戸を満たせ!」
村人たちが固唾をのんで見守る。
その中でただ一人、テオだけは、井戸の縁にしがみつく「それ」を見ていた。
半透明で、ほのかに青く光る、手のひらほどの小さな影。それがいくつも、井戸の石組みの隙間に身を寄せている。
呪文が響いた瞬間、影たちはびくりと震えた。まるで怒鳴られた子どものように身を縮め、それから――しぶしぶといった様子で、井戸の底へと潜っていった。
ごぼ、と小さな音がして、井戸の水位がほんの少しだけ上がる。
「おお……!」
「さすがヨアヒム爺さんだ!」
広場に歓声が上がった。けれど、上がった水はせいぜい桶二杯分。村中の畑を潤すには、とても足りない。
爺さんは額の汗をぬぐい、悔しそうに首を振った。
「すまん。今のわしの力では、これが精一杯じゃ」
村人たちは肩を落としながらも、口々に爺さんをねぎらって散っていく。
テオは、まだ井戸の縁を見つめていた。
影たちは、もう出てこなかった。
(……嫌がってたな、あれ)
テオがあの影を見るようになったのは、物心ついたころからだ。小川のほとり、かまどの火の中、畑の土の上。この世界のいたるところに、彼らはいた。
小さいころ、一度だけ母さんに聞いたことがある。
「ねえ、あの光ってるの、なあに?」
母さんは不思議そうに首をかしげて、それから少し心配そうな顔をした。その夜、母さんが台所で「あの子、熱でもあるのかしら」と小声でつぶやくのを、テオは聞いてしまった。
それ以来、テオは誰にも言っていない。
あの影が見えるのは、どうやら自分だけらしい。
――そしてもう一つ。
テオには、誰にも言えない秘密がある。
この世界に生まれる前、テオは「日本」という国で生きていた。電気で明かりがともり、鉄の箱が人を乗せて走る世界。その記憶が、テオの頭の中にはぼんやりと、けれど確かに残っている。
あの影が見えるのは、そのせいなのかもしれない。
違うのかもしれない。
答えは分からないまま、テオは十二歳になっていた。
◇
ちゃぷん。
また聞こえた。
テオは静かに寝床を抜け出すと、作業台の下から木箱を引っ張り出した。中には、この春に作った「滑車付きの縄ばしご」が入っている。井戸掃除のときに大人たちが楽に上り下りできるようにと作ったもので、村では「テオのからくり」と呼ばれて重宝されている。
それを肩にかつぎ、ランプを手に取る。
「……兄ちゃん?」
戸口で、背後から寝ぼけた声がした。振り返ると、アースが目をこすりながら半身を起こしている。
「どこ行くの……」
「便所だよ。寝てな」
「んー……」
アースはそのまま、ぱたりと毛布に倒れ込んだ。テオはほっと息をつき、音を立てないように家を出た。
◇
古井戸は、村の外れの、雑草に埋もれた空き地にある。
五十年も前に涸れたきりの井戸で、口は分厚い板でふさがれ、「近づくな」と書かれた札が打ち付けてある。子どもたちの間では、底に魔物が住んでいるとか、落ちた子が二度と戻らなかったとか、そんな噂ばかりがささやかれていた。
テオは板の前にしゃがみ込み、耳を押し当てた。
ちゃぷん……。
間違いない。音は、この下から聞こえてくる。
(涸れた井戸の底から、水の音?)
板を固定している釘は、すっかり錆びていた。テオは持ってきた小さな鉄梃を差し込み、慎重に一枚ずつ外していく。
ぽっかりと開いた暗い穴から、ひやりとした空気が吹き上がってきた。
夏の夜とは思えない冷たさだった。湿った石と、苔と、それから――水の匂い。
(……懐かしい匂いだな)
ふと、そんなことを思った。
どこで嗅いだ匂いだったか。思い出せそうで、思い出せない。
テオは井戸の脇に生えた太い木に縄ばしごの滑車を固定し、何度か引っ張って強度を確かめた。ランプを腰に結びつけ、ゆっくりと穴の中へ降りていく。
石組みの壁が、ランプの明かりに照らされて浮かび上がる。驚くほど丁寧な造りだった。一つひとつの石がぴったりと噛み合い、五十年放っておかれたとは思えないほど崩れていない。
(村の井戸より、ずっと古いのに……ずっと上手に作ってある)
十メートル、十五メートル。
やがて、足が硬い地面に触れた。
井戸の底は、乾いていた。水は一滴もない。
けれど、音は今もはっきりと聞こえる。底の、さらに奥から。
テオはランプを掲げ、周囲を照らした。
そして、息をのんだ。
井戸の壁の一角に、大人がかがんで通れるほどの穴が開いていた。崩れてできた穴ではない。きちんと石で縁取られた、人の手で作られた「入り口」だ。
その奥から、冷たい風と、水の音が流れてくる。
テオは、一歩、その入り口に近づいた。
そのときだった。
入り口の縁に、小さな青い光が灯っていた。
昼間、村の井戸で見た影たちと同じ――いや、少し違う。もっと澄んだ色をしていて、雫のような形をしている。大きさは、テオの親指ほどしかない。
光は、震えていた。
昼間の影たちのように、怯えて身を縮めているのではない。テオのほうを、じっと見つめている。
まるで、信じられないものを見るように。
テオは動けなかった。ランプの炎だけが、かすかに揺れている。
やがて、鈴を転がすような、小さな小さな声がした。
「……あなた」
雫の光が、ほんの少しだけ前に出る。
「わたしが、見えるの?」




