拍手開始印は、空席を本人到着の音で隠せません
拍手用の白手袋が、客席の膝の上で一斉に持ち上がりかけた。
小鐘を持つ給仕の指は、まだ鳴らしていない。けれど王太子側進行係は、拍手開始印の箱を胸に抱えたまま、空席の前へ半歩踏み出した。
「代理着席済みだ。候補者席は見せた。拍手を始めれば、式次第は進む」
空席を見せたのではない。
空席を、音で埋めようとしている。
エリナは椅子の背に残した青糸を解かず、拍手用扇の束へ視線を落とした。銀の扇面には、候補者名ではなく、細い朱印だけが先に押されている。
拍手対象、王太子妃候補代理。
「代理は、誰の手を鳴らされるための名前ですか」
「祝典全体のためだ。本人が座るかどうかは後で整える」
進行係が小鐘へ顎を振る。給仕の指が震えた。
その時、ミリアが袖の束を抱いたまま、客席側へ深く頭を下げた。
「その拍手は、受け取りません」
ざわめきが止まる。
「私がまだ座っていない席を祝う拍手なら、それは私の到着ではありません。誰かが座ったことにも、読んだことにも、同意したことにも、しないでください」
客席端の若い侍女が、拍手用扇を閉じた。隣の案内係も起立合図の白手袋を下ろす。給仕は小鐘を鳴らさず、箱の横へ置いた。
王妃付き記録係が、欄干の内側で新しい札を三つに分ける。
候補者本人到着、未了。
代理着席、祝典承認に使用不可。
拍手開始、対象未到着のため保留。
エリナは拍手開始印を奪わなかった。箱の蓋を閉じるのではなく、開いたまま王妃席から見える位置へ向けた。
「拍手は、空席を隠す音ではありません。誰かの到着を、本人の名で迎える音です」
白手袋の列は、まだ鳴らない。
その沈黙の中で、空席の水差しと足元灯だけが、本人を待つ席として残った。
進行係の袖口から、一枚の祝辞読上げ札が滑り落ちる。
祝辞読上げ済み。
ただし、読上げ対象欄にはまだ、誰の名も書かれていなかった。




