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候補者袖は、拍手の前に本人の席を借りられません

右袖を青糸で止めたまま、エリナは入場幕の横から客席端へ回った。


 そこには、まだ誰も座っていない候補者席があった。


 白布が一枚、空席の背に掛けられようとしている。銀の水差し、膝掛け、足台、足元灯。どれも、座る人のために置かれたものなのに、進行係はそれらをまとめて「入場済み候補者席」と呼んだ。


「空席を見せるな。拍手が遅れる。候補者袖は準備済みだ。座席も準備済みでよい」


 給仕の手が、水差しを別の卓へ移しかける。案内係は白布を広げ、空いた椅子を花で隠そうとした。


 エリナは椅子の前へ立ち、足元灯の芯を指で押さえた。


「この席は、準備済みではありません。本人がまだ座っていない席です」


「袖は――」


「袖の話は終わっていません。けれど、先に席を閉じれば、袖の中へ入れられた名も、客席から見えなくなります」


 ミリアが、候補者袖の束を胸に抱いたまま一歩出た。布を着るためではない。布を、席の前で止めるためだった。


「私の席なら、私が座るまで空けてください」


 その声に、白布を広げていた案内係の腕が止まる。


 ミリアは水差しへ触れず、膝掛けにも手を伸ばさなかった。ただ、椅子の前に置かれた小さな足台を、自分の靴先で半歩だけ元の位置へ戻した。


「水は、私が座ってから飲みます。膝掛けも、足元灯も、私がここに来た時のものです。拍手のために借りないでください」


 王妃付き記録係が、王妃席から見える欄干の内側へ三枚の札を並べた。


 本人未到着。


 拍手不可。


 袖未完成。


 給仕は銀の水差しを戻し、案内係は白布を畳んだ。足元灯はまだ点かない。けれど、消されもしない。誰かの見栄を照らす灯ではなく、本人が席へ来る時に足元を見るための灯として残された。


 客席のざわめきが、拍手になり損ねて止まる。


「祝典の進行を妨げる気か」


 王太子側進行係が、拍手開始印の箱を抱えて迫った。箱の蓋には、すでに細い札が差し込まれている。


 代理着席済み。


 エリナはその札を抜かなかった。抜けば、誰が差したかだけの話になる。彼女は札の横へ青糸を一本結び、空席の前に置いた。


「空席は、まだ帰っていない名を隠さないための席です。本人が座る前に拍手を始めるなら、その拍手は誰の到着を祝ったのかを書いてください」


 拍手開始印は、押されなかった。


 王妃席から、まだ空いたままの椅子がよく見えた。

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