王太子礼服の右袖は、帰っていない臨時者の名を通せません
入場幕の前で、王太子礼服の右袖だけが重く垂れていた。
楽師の拍子はもう客席へ届いている。進行係は白い手袋で袖口を持ち上げ、着付け係へ早く通せと顎を動かした。
「仮止めは外してください。臨時者リオは帰宅済み扱いです。袖の中で処理済みなら、入場に支障はありません」
エリナは返事の代わりに、袖裏の灰色布片を光へ向けた。小さな布には、リオの名と、乾ききっていない泥の点が縫い込まれている。
その泥は、南門外ではなく、門の内側の水溜まりの色だった。
「これは帰宅済みの印ではありません。帰っていない子の袖を、礼服の中へ先に入れた印です」
リオは列の端で、濡れた袖を胸に抱えていた。ナギが一歩だけ前へ出る。
「名前を呼びます。リオ、いますか」
「……います。まだ、帰っていません」
小さな声だった。けれど、袖裏の布片より先に、本人の声が幕前へ届いた。
シオは封の切れた次仕事札を持ち直し、着付け係の前へ置く。
「読んでいない同意を、袖の裏に縫い込まないでください。私は次仕事札を読めました。でも、リオの帰宅は私の読了では閉じられません」
王妃付き記録係が膝をつき、入場簿の横へ新しい欄を一本引いた。
袖中未帰宅名確認欄。
エリナは青糸を取り、王太子礼服の右袖口を横に一針だけ塞いだ。切るための縫い目ではない。腕を通す前に、誰の名が中へ入れられたのかを読むための縫い目だ。
「王太子殿下の腕を通す前に、リオ本人の帰宅確認が必要です。帰っていない名を着た礼服は、完成していません」
「入場時刻が――」
進行係の声を、着付け係の手が止めた。右袖に腕を入れようとした瞬間、青糸が手袋の甲に触れたからだ。
リオは自分の名の横へ、震える指で書いた。
本人帰宅確認待ち。
ナギがその字の下へ証人名を添え、シオが「読了で代替不可」と小さく書き足す。記録係は礼服入場簿ではなく、袖中未帰宅名確認欄へ時刻を写した。
右袖は、まだ誰の腕も通さない。
客席の拍子が半拍だけ乱れた。王太子側近が布片を引き抜こうとした時、袖裏の奥から、もう一本、細い白糸がのぞいた。
そこには、リオの名ではなく、こう縫われている。
――入場後、未帰宅名を候補者袖へ統合。
エリナは右袖を離さなかった。
「次は、礼服の中へ何人を入れたのかを読みます」




