祝辞読上げ済みは、誰の名を祝った声か未記入です
祝辞台の横に置かれた水差しには、赤い札が結ばれていた。
『祝辞読上げ済み。開始鐘待ち』
けれど、その水差しの前で、小鐘係の少年は唇を押さえていた。朝から何度も合図を練習させられ、声がかすれている。鐘を鳴らす前に読み上げる一言――「ご着席を」さえ、もう喉から出ない。
式部官は眉を寄せた。
「鐘だけ鳴らせばよい。祝辞は済んでいる」
「済んでいるのは、どなたの名を祝った声ですか」
エリナは祝辞札を奪わず、台の上に三本の青糸を置いた。一つめは、読んだ声。二つめは、祝われる対象名。三つめは、鐘を鳴らす本人の状態。
祝辞原稿の対象名欄は空白だった。代わりに端へ小さく『後清書可』と書かれている。小鐘係の喉水は、祝辞台の装飾花の横へ移されていた。
「対象名のない祝辞は、祝われる方へ届きません。喉水のない鐘は、鳴らす人の体を式次第の備品にします」
ミリアが候補者席の前で立ち止まった。膝の上に置かれた白い手袋を取らず、式部官へ向き直る。
「わたしの名を祝う声でないなら、わたしは受け取りません。ほかの方の名を空白で借りる祝辞も、いりません」
客席の奥で、拍手のために上がりかけていた手が止まった。
小鐘係は震える指で水差しを自分の前へ戻した。杯に一口だけ水を含み、鐘の柄へ手を伸ばさず、台の脇に置く。
「……鳴らせる声になるまで、開始鐘は未了です」
王妃付き記録係が頷き、祝辞札の上へ新しい保留欄を重ねた。
『祝辞読上げ済み』ではなく、
『対象名未記入』
『小鐘未発声』
『喉水本人前未到着』
三つの欄が、客席から見える向きに並ぶ。
式部官の顔色が変わった。
「祝典を止める気か」
「いいえ」
エリナは空白の対象名欄を指で押さえた。
「祝う相手も、鳴らす人も、まだここへ届いていないだけです。届く前に済ませる手順を、止めています」
そのとき、祝辞台の下から薄い別紙が滑り落ちた。
そこには対象名として、ミリアの名でも、エリナの名でもない言葉が先に書かれていた。
『王太子殿下の承認済伴侶』
署名欄には、式部官の筆跡で小さくこう添えられている。
『対象名は鐘後に補完』
客席の沈黙が、拍手より重く祝辞台へ落ちた。




