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首掛け確認省略の銀糸は、夜番針子の休憩椅子まで退職処理済みにできません

休憩椅子は、空いているように見えた。


 けれど背もたれには、まだ袖を通されていない帰宅外套が半分だけ掛かっている。座面の横には、湯気の立っていない温茶碗。足元には、次番針子へ渡すはずの針受け皿が、針を一本残したまま置かれていた。


 王太子府の書記は、その椅子へ白い小札を下げようとしていた。


「夜番針子マルタ、首掛け確認省略。旧針箱番号により、休憩済み、交代済み、帰宅準備済み。貸出台を閉じます」


「椅子に座っていません」


 エリナは、小札ではなく、椅子の脚に絡んだ細い銀糸を見た。


 黒紐ではない。首に掛けるための担当札の紐でもない。帳票を美しく見せるための、飾り糸だ。


「休憩済みの札は、椅子に人が戻り、温茶を飲み、外套を自分の肩に掛けてからです」


「首掛け確認は省略できると記載があります」


「省略できるのは飾りの縫い足しです。人が休んだことではありません」


 マルタが一歩前へ出た。昨日より顔色は悪い。それでも、前掛けの端を握る手は逃げなかった。


「私、まだ座っていません」


 彼女は椅子の前で膝を折りかけ、すぐに立ち直った。


「座っていない椅子を空きにされると、次の子が私の針を受けたことになります。温茶も、飲んだことにされます。半刻賃金も、済みにされます」


 トマが温茶碗をそっと持ち上げた。飲ませるのではない。椅子の横の低い台へ移し、湯が冷めたままなのを見える位置に置いた。


「まだ口をつけていません。これ、休憩の証拠じゃなくて、休憩を待っている茶です」


 リネは背もたれの外套紐をほどいた。椅子から外し、マルタの本人名札の下へ結び直す。


「外套は椅子の飾りじゃありません。帰る人の肩に戻る布です」


 カリナも、手首の本人札を押さえたまま、針受け皿の一本を指さした。


「針が一本残っています。次番の人が受け取ったなら、ここは空になっているはずです」


 エリナは青札を三枚出した。


 一枚目に、休憩未了。


 二枚目に、帰宅外套未着。


 三枚目に、針受け皿未引継ぎ。


「マルタ。読めるところだけ、自分の字で足してください」


 マルタは震える指で、太く書いた。


 ――夜番針子マルタ。本人首掛け未了。休憩椅子、未着席。温茶、未飲用。帰宅外套、本人肩未着。半刻賃金、未受領。針受け皿、次番未引継ぎ。


 書き終えると、彼女はようやく椅子に座った。


 それだけで、部屋の空気が少し変わった。誰かの空席だった場所が、マルタの休む席になった。


 書記が銀糸を引き抜こうとした。


「では、その省略糸は無効として――」


「切りません」


 エリナは、銀糸の端へ青い保留布を結んだ。


「これは、誰が休憩と帰宅を一括で済みにしようとしたかを示す生活影響明細待ちの証拠です。飾り糸を切れば、椅子だけがきれいになります。マルタの休憩が戻った理由が消えます」


 ミリアが、低い台の横に半刻賃金札を置いた。


「受け取るまで、ここに置きます。マルタさんの名前で」


 マルタは温茶に触れた。まだ熱くない。けれど、飲んでよい茶としてそこにあった。


「……休んでから、帰ります」


「はい。休んで、帰ってください」


 エリナがそう言うと、休憩鈴は鳴らされなかった。鳴らさなくてよい鈴として、椅子の横に残った。


 そのとき、トマが銀糸の縫い足し日付をのぞきこんだ。


「エリナ様。これ、退職処理の翌日じゃありません」


 小さな字だった。


 王妃衣装公式到着、一分前。


 そして糸の端には、王妃衣装補助棚、古い鍵番号三番、という押し跡が残っていた。

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