一桁違いの糸巻きは、カリナの手首を旧針箱番号へ結べません
洗面水は、もう濁っていなかった。
それでもカリナは、署名台の前で右手首を隠そうとした。袖口から、白い糸が一本だけのぞいている。手袋の粉ではない。仮留めの糸だ。ほどかれずに残った先が、肌に赤い線をつくっていた。
「痛いですか」
ミリアが問うと、カリナは首を振りかけて、途中でやめた。
「……痛いです。けれど、候補者なら我慢するものだと」
「候補者ではなく、カリナさんの手首です」
私は針箱を開けず、青札を一枚取った。『本人手首仮留め糸』と書き、カリナの手の横へ置く。
王太子府の係官が、すぐに糸巻きを掲げた。
「その糸は貸出済みです。糸巻き番号は旧保守針箱番号と一致します。つまり、退職済みのエリナ殿の責任で候補者衣装へ仮留めされたものです」
数字は、たしかに似ていた。
けれど一桁だけ違う。私の旧針箱番号の末尾を、細く削って書き換えたような番号だった。
「似た番号は、読んだ責任になりません」
私はカリナの手首に触れる前に、糸巻きを受け取らなかった。
「糸巻き貸出窓口へ運びます。糸は、手首から外してから数えます」
糸巻き貸出窓口は、候補者保管棚二号の奥にあった。高い台の上に、小さな糸巻きが並んでいる。台の前には担当札が一枚、紐の切れたまま置かれていた。
首に掛かっていない札だった。
「担当札はここにある。担当者は確認済みだ」
「首に掛けた本人がいない札は、担当者ではありません」
私が言うより先に、トマが動いた。彼は台の脚に手をかけ、糸繰り台を低く下げた。小さな台が、カリナの目の高さまで降りる。
「これなら、カリナさんが番号を読めます」
カリナはまだ震えていた。けれど、手首を引っこめなかった。自分で糸の先をつまみ、低くなった台の上へ差し出す。
「一桁、違います」
かすれた声だった。だが、本人の声だった。
「この糸巻きは、エリナ様の針箱番号ではありません。私の手首に結ばれていた番号です」
ミリアが洗面器をもう一度、カリナの近くへ寄せた。
「隠すための水ではありません。見せても大丈夫にするための水です」
その短い援護で、カリナの肩が少し下がった。
リネが帰宅外套を裏返した。内側の縫い目に、同じ白い仮留め跡が残っている。
「外套を袖材料にする糸ではありません」
リネは外套を抱え直し、カリナの手首の糸と並べた。
「帰る布を、候補者衣装の仮留めに使った跡です。私の外套も、カリナさんの手首も、まだ帰っていません」
係官は舌打ちした。
「糸など、切れば済む」
「切って済みにすると、誰の手首だったか消えます」
私は糸を切らなかった。カリナ本人に見える高さで、結び目を一つずつゆるめる。ほどいた糸を、旧針箱番号の札へは巻かない。カリナの名を書いた小さな本人札へ巻き直した。
『カリナ手首仮留め糸 本人確認済み。旧針箱番号へ転用不可』
カリナは自分の名を見て、息を吐いた。
「私の手、候補者の材料じゃないんですね」
「ええ。あなたの手です。読む手で、帰る手で、嫌なら止められる手です」
王妃付き記録係が貸出台帳を閉じないまま、青い保留紐で押さえた。
「糸巻き貸出窓口、本人札未確認のため貸出未完了。首に掛けていない担当札では、糸を借りられません」
担当札は、台の隅で軽かった。
だが裏面に、さらに小さな字がある。
『旧保守針箱番号により、担当者読了済みとして扱う』
私の知らない読了が、私の番号に似せて、誰かの首のない札へ移されていた。
私はその札を裏返したまま、青札で押さえた。
「次は、この札を首に掛けた本人を呼びます。掛けていないなら、読了も担当も、まだ始まっていません」




