旧処理番号の針箱は、エリナの職能責任を退職済みにできません
礼拝堂の読了席に、書見灯の火が戻った。
王妃陛下はまだ来ない。けれど、消えていた灯りが点いた途端、机の上の赤い到着印は、少しだけ乱暴なものに見えた。灯りのない席で読了済みにされた文字は、丁寧な筆跡をしていても、人の目を借りていない。
王妃付き記録係が、震える手で小さな鍵を机へ置いた。
「旧処理番号です。王妃祝典衣装の到着印と同じ束に、これが挟まれていました」
鍵についた札には、古い墨でこうある。
『退職処理済み針箱番号 エリナ保守責任、移管完了』
トマが息を吸った。マルタはリネの外套紐を握り直し、リネは北門帰着札を胸の前に寄せた。誰も、私を見るだけで終わらせなかった。
「エリナさんの針箱も、棚に着いていないんですか」
リネの声は細い。けれど、昨日よりはっきりしていた。
私は針箱番号札を指で押さえた。
「棚には着いています。でも、職能責任は着いていません」
係官がすぐに言った。
「退職処理済みなら、責任は移っています。針箱番号が残っているのは形式上の控えで――」
「形式の控えが、王妃陛下の読了席を消しました」
礼拝堂の空気が止まった。
私は赤印の横へ、三つの札を並べた。
王妃本人読了未到着札。
リネ北門帰着未完了札。
エリナ保守責任未引継ぎ札。
「この番号を『退職済み』と読むなら、誰が王妃陛下の書見灯を確認し、誰がリネさんの外套を北門へ返し、誰が衣装の危険な縫い目を止める責任を受け取ったのか、生活影響明細が必要です」
係官の口が閉じた。
王妃付き記録係が、自分の記録板を机に置く。
「代読責任は、私が書きます。けれど、本人読了の代わりとは書けません」
トマが、空の温茶盆を読了席の脇へ戻した。
「灯りとお茶は、王妃陛下がここへ座るまで済みにしません」
マルタは外套紐を、赤印の上ではなく青札板の端へ結んだ。
「リネの外套も、賃金袋も、まだ北門へ帰っていません。保守責任が誰へ移ったか分からない番号で、私たちの帰宅を縫いません」
リネは一歩だけ前へ出た。北門帰着札の裏へ、自分の字で短く書く。
『本人、まだ帰着していません。エリナ保守責任の移管先を読むまで、外套を候補者席へ戻しません』
その文字を見て、胸の奥が熱くなった。
私が守っていたはずの返却札は、もう私だけのものではない。リネは自分の帰宅を、自分の字で閉じない札にした。
「エリナ」
奥の扉から、静かな声がした。
王妃陛下だった。
記録係が慌てて膝を折ろうとする。王妃はそれを手で止め、読了席へまっすぐ歩いた。灯りの下へ座り、空の温茶盆を見て、それから私の針箱番号札を見る。
「私は、この席で読みます。代わりの声も、消えた灯りも、退職済みの針箱番号も、私の読了にはしません」
王妃は署名欄へ手を伸ばさなかった。
先に、リネの札を読んだ。
「リネ。あなたはまだ帰っていない」
リネの肩が震えた。
「はい」
「では、帰るまで完了ではありません」
次に、王妃は私を見る。
「エリナ。あなたの職能責任は、誰へ渡すのですか」
私は旧処理番号札の上に、青い保留糸を置いた。
「まだ渡しません。王妃陛下の読了席、リネさんの北門帰着、祝典衣装の危険な縫い目。この三つの生活影響明細を読める相手が署名するまで、針箱番号は退職済みではなく、未引継ぎです」
王妃は、ゆっくり頷いた。
「ならば、その札を私の読了席で保管します」
係官が青ざめた。
「陛下、それでは祝典衣装の搬入が――」
「搬入より先に、帰る外套と読める灯りです」
王妃の声は低かった。怒鳴っていないのに、礼拝堂の隅まで届いた。
私は読了席の横に、小さな仮窓口札を立てた。
『祝典衣装保守責任 未引継ぎ窓口』
そこへ、針箱番号札、王妃読了未到着札、リネ北門帰着札を順に置く。三つの札が同じ机に並んだ瞬間、赤い到着印は初めて、どこへ届いていないのかを示す証拠になった。
そのとき、トマが机の下から折れた搬入許可札を拾い上げた。
「エリナさん。これ、同じ旧処理番号です」
札の表には、王太子礼服搬入許可。
裏には、まだ乾ききらない墨で一行だけ足されていた。
『ミリア婚約誓約布、保守責任移管済み』
ミリアの名が、初めて同じ番号の下で息をしていた。
私は青い糸を切らずに、その札の角へ結んだ。
「次は、婚約誓約布を読みます。誰の婚約を、誰の退職済みで済ませようとしたのか」
王妃の書見灯が、もう一度小さく揺れた。
消えなかった。




