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代理着席者同意済みは、読めない椅子布で侍女の署名を包めません

椅子布は、まだ剥がさなかった。


 二号椅子の背に縫い込まれた紫の印――『祝典代理着席者・同意済み』は、王太子側控室ならば、その一語で済ませられたのだろう。けれど侍女控え前の裁縫台へ運ぶと、同じ印は違う音を立てた。


 布の下で、薄い紙が擦れている。


「署名欄……ですか」


 侍女見習いのリネが、半日賃金札を胸の前で握ったまま呟いた。昨夜の北門帰宅札は、まだ青札板に閉じないまま留めてある。外套掛けの中央にも、リネの名札だけが空けられていた。


「候補者席に同意した覚えはありません。でも、ここに『同意済み』とあります」


「同意済みという言葉を、先に読ませません」


 エリナは針を置いた。縫い目を切る前に、裁縫台の上へ三つの札を並べる。


 リネの勤務札。

 リネの半日賃金札。

 リネの北門帰宅札。


 その隣に、椅子布の端をほんの指一本分だけ持ち上げた。中の紙は見える。けれど、文字の半分は布の折り返しに包まれていて、署名した名も、読んだ時刻も、本人が何へ同意したかも読めない。


「この状態で、署名欄とは呼べません。これは、署名欄を包んだ布です」


 トマが椅子脚を押さえた。黒糸の結び目は、賃金札をまとめるものと同じだった。だが結ばれている場所が違う。賃金盆ではなく、椅子布の裏で、紙を動かないように縛っている。


「リネさんの賃金札を、椅子布の止め糸に使ったんですか」


「賃金を払った証ではありません。署名欄を見えなくする紐として使われています」


 マルタが低く息を吸った。夜番の外套紐を一本、裁縫台の端に置く。


「私の時は、帰宅外套が代理肩の飾りにされました。今度は、リネの賃金が椅子布の飾りですか」


「飾りではありません」


 エリナは青い仮止め札を一枚取り、紫印の上へ重ねず、半分だけ横へずらして置いた。


「証拠です。賃金がどこへ行ったか。帰宅札がなぜ閉じないか。署名欄がなぜ読めないか。同じ布の下に入れられたなら、同じ生活影響明細で分けます」


 リネは震える指で勤務札を開いた。そこには、本来の文字が残っている。


『侍女控え・夜支度補助。半日勤務。帰宅確認、北門』


 しかし上から貼られた薄紙には、別の文字があった。


『祝典代理着席者補助。本人同意済みにつき、候補者席二号へ転用』


「私、補助の仕事ならしました。椅子を拭いて、外套掛けを移して、夜道の札を受け取るはずでした。でも……候補者席になる同意は、読んでいません」


「では、それを書いてください」


 エリナは空いた裁ち板をリネへ向けた。命令ではない。代筆でもない。本人が読めなかったことを、本人の名で残すための板だった。


 リネはしばらく唇を結んでいた。やがて、半日賃金札の裏へ、小さな字で書く。


『リネ。半日賃金未受領。北門帰宅未確認。候補者席二号への同意欄は、布に包まれて読めません』


 その一行を書き終えた瞬間、マルタが外套紐を椅子背ではなく、リネの名札が空いた外套掛けへ戻した。


「帰る場所に掛けます。椅子の飾りにはしません」


 トマは賃金盆を裁縫台の下から引き出し、空の区画へリネの札を立てた。


「払ったふりの盆じゃなくて、まだ払っていない盆ですね」


「そうです」


 エリナは頷いた。


「同意済みは、本人が読める署名欄と、受け取った賃金と、帰れる札が揃って初めて生活側へ届きます。布で包まれた署名欄だけでは、誰も椅子へ座らせません」


 青札板に新しい行が増える。


『代理着席者同意済み――本人署名欄を本人が読める状態に戻すまで、本人確認待ち。賃金・帰宅札・外套掛け未完了』


 リネはその札を見て、初めて賃金札から手を放した。代わりに外套掛けの空いた名札を指で撫でる。


 そこにはまだ外套は掛かっていない。けれど、空いていること自体が意味を持った。誰かの飾り布で埋められず、候補者席の補助欄にも吸われず、夜道から戻る本人を待つための空白だった。


「ここ、まだ私の場所でいいんですか」


「帰宅確認が終わるまで、誰の候補者席にもなりません」


 エリナがそう答えると、リネは小さく息を吐いた。泣き声ではなく、やっと帰り道の幅を測れた人の息だった。椅子ではなく、外套掛けの前で。候補者名ではなく、自分の名札の前で。


 その時、王妃付き記録係が椅子布の裏を指さした。


「エリナ様。布の折り返しに、もう一つ番号があります」


 紫印の端。リネの署名欄を包んだ内側に、古い鍵番号が薄く写っていた。


 王太子側管理室の番号ではない。


 王妃衣装補助棚――旧鍵番号三番。


 エリナは椅子布を閉じ直し、青札を重ねた。


「棚を開けるのは、次です。先に、リネさんの未読と未払いと未帰宅を、ここに残します」


 読めない署名欄は、犯人の名ではなく、侍女がまだ自分で読む権利の場所として、裁縫台の上に置かれた。

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