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二号椅子は、侍女控えの帰宅札を候補者席に縫い込めません

王太子側控室に残った二号椅子を、エリナはその場でほどかなかった。


「候補者の名を探す前に、椅子がどこから来たかを見ます」


 王妃付き記録係が欠席札を抱え直し、トマは水差しの封をそのままにした。マルタだけが椅子脚の黒い糸端を指で押さえ、廊下の奥を見た。


「この結び方、控室用じゃありません。侍女控えの椅子を一時的に運ぶ時の仮縛りです」


 王太子側控室の派手な燭台を離れると、廊下の明かりは急に細くなった。奥の侍女控え前には、椅子一脚分だけ床の埃が四角く薄い。外套掛けは三つあるのに、中央だけ名札が外されている。壁際の賃金盆は裏返され、誰にも渡されない銅貨の音だけが中で小さく鳴った。


 そこへ、洗い髪を布でまとめた侍女見習いが駆けてきた。胸の勤務札には、まだ乾ききらない墨でこう足されている。


『候補者席二号準備補助』


 リネ、とマルタが呼ぶと、見習いは肩をすくめた。怒られると思ったのではない。自分の札を見ても、何を失ったのか分からない顔だった。


「私は……候補者様の準備をした覚えはありません。夕食後、外套を掛けて、半日分の賃金を受け取って、北門の灯が点いている間に帰るはずでした」


 エリナはうなずき、勤務札を候補者席の方へは向けなかった。


「では、この札は候補者準備の証明ではありません。侍女勤務がどこまで済み、どこから消されたかを読む札です」


 トマが賃金盆を表へ戻した。盆の縁に結ばれた黒糸は、二号椅子の脚に残った糸端と同じ太さだった。候補者用の青い飾り糸ではない。侍女控えの椅子を、廊下でほどけないよう仮止めする黒糸だ。


「椅子だけじゃないです。賃金札も同じ結び方で、候補者準備費の束へ移されています」


「賃金まで椅子と一緒に?」


 リネの声が細くなった。銅貨数枚の話ではない。北門まで明るい道を歩けるか、明日の朝食を買えるか、次の勤務へ自分の名で戻れるかの話だった。


 マルタは候補者用の青糸を手に取らなかった。かわりに、外套掛けの下に落ちていたくすんだ紐を拾い、椅子の背へ結び直す。


「これは進ませる糸じゃありません。帰る外套へ戻す紐です」


 エリナは青札板を控え前の壁に寄せた。


『リネ半日勤務賃金――候補者準備費ではなく、侍女勤務未払い保留』

『外套掛け中央――本人名確認まで空ける』

『北門夜道帰宅札――本人帰着まで閉じない』


 書き終えると、エリナは筆をリネに渡した。


「受け取り拒否ではありません。まだ受け取っていない、とあなたの字で残してください」


 リネは少しだけ震えたが、筆を置かなかった。


「リネ。侍女見習い。半日勤務はしました。候補者席二号には座っていません。賃金と外套と帰宅札は、まだ私のところへ戻っていません」


 その一行が加わると、裏返っていた賃金盆の銅貨がようやく彼女の側を向いた。支払われたわけではない。けれど、支払われていないことが、誰かの席の飾りではなくなった。


 廊下の向こうから、祝典係官が足早に来た。


「準備補助なら同意済みです。候補者席二号は、式次第上すでに処理されています」


 トマが賃金盆をもう一度裏返した。底板の陰に、古い紫印が押されていた。


『祝典代理着席者・同意済み』


 けれど、その下にあるはずの本人署名欄は、二号椅子から剥がされた椅子布の切れ端でぴたりと覆われている。布の縫い目には、エリナが返したはずの保守針箱番号とよく似た小さな刻みがあった。


 係官が布へ手を伸ばした。


「剥がせば分かるでしょう」


 エリナは、その指を止めた。


「署名欄が読めないなら、同意済みではありません。今剥がして誰かの名を急いで探せば、リネさんの帰宅札がまた材料にされます」


 マルタが椅子背の帰宅外套紐を強く結んだ。王妃付き記録係は、欠席札ではなく未帰着札として写しを取る。トマは北門灯の時刻欄に、まだ閉じない印を置いた。


 リネは空いた中央の外套掛けを見上げた。そこにはまだ外套はない。けれど、名札を掛ける場所だけは戻っていた。


「帰ってからでないと、次の仕事に同意できません」


「その通りです」


 エリナは青札の最後に書き足した。


『二号椅子――本人署名欄を読める状態に戻すまで、候補者席にも祝典材料にも進めない』


 紫印は消さなかった。椅子布も剥がさなかった。隠された署名欄は、リネの半日賃金と夜道帰宅札の隣で、読まれる順番を待つことになった。

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