代理祝辞用喉布箱は、候補者の声が戻る前に夕食を済ませません
祝辞読み合わせ室の壁際に置かれた小箱は、針箱より少し浅かった。
浅いぶん、白い喉布が何枚入っているかすぐに数えられる。七枚。けれど、箱の蓋裏に貼られた札には、布の枚数ではなく別の言葉が書かれていた。
『代理祝辞用喉布 候補者声紋予備欄より貸出済み』
エリナは蓋を閉じなかった。
閉じれば、喉布はもう式典用の小道具になる。けれど蓋の中には、まだ夕食を食べていない誰かの喉が折り畳まれている。
「七枚あります」
トマが声を潜めた。
「王妃陛下の分、記録係様の分、ミリア様の分……だけでは足りません。誰の喉を七枚に数えているんですか」
王妃付き記録係は、読み合わせ室の戸口で一度だけ息を止めた。彼女の手には、さきほど自署した代読時刻控えがある。そこには、はっきりと書いてある。
『王妃付き記録係は祝辞文を代読した。本人読了欄、本人発声欄、候補者夕食欄を代読していない』
エリナはその控えを、喉布箱の横へ置いた。
「まず分けます。喉布は声を借りる布ではありません。声が出るまで喉を温める布です」
マルタが、自分の外套のない肩に掛けられた仮の布を握った。
「では、これも……祝典素材ではなく、帰るための布ですか」
「ええ。あなたの外套が戻るまで、肩を冷やさないための布です」
エリナは青い仮止め針を一本、箱の縁に刺した。
『喉布七枚 貸出済みではなく、本人発声待ち』
それだけでは足りない。
七枚の布が、七つの喉へ届くまで、どの布も祝辞を読んだことにはならない。
トマは盆の上の蜂蜜湯札を見直した。三つの椀は冷めている。けれど小箱の底から、薄い夕食札が一束出てきた。
『候補者控室夕食 式典準備完了後に一括済』
「一括済……」
トマの指が止まる。
「ミリア様、まだ声も戻っていないのに、夕食まで済みにされているんですか」
読み合わせ室の空気が、香油より冷たくなった。
候補者の声を貸し出すだけではない。声が戻る前の喉を、夕食を終えた体として閉じる。腹が空いたままでも、書類の上では式典に耐えたことにできる。
王太子側の係官が、扉の外から笑った。
「式典前の候補者は、食事を控えるのが慣例だ。祝辞に支障が出ないよう、喉布と蜂蜜湯が支給されている。済の札に問題はない」
「支給と到着は違います」
エリナは喉布を一枚も持ち上げなかった。
布を掲げれば、係官はすぐに『使える布がある』と言う。だから先に、布が届くはずの席を数えた。
王妃陛下の声を休ませる席。
王妃付き記録係が、自分の代読責任を戻す席。
ミリアが自分の声で「読みました」と言えるまで待つ席。
マルタが外套を着て帰る前に肩を冷やさない席。
堂守見習いが受領盆を置かず、温茶を運べる席。
そして、まだ名前を呼ばれていない候補者二名の、夕食札を返す席。
「七枚は、七つの祝辞ではありません」
エリナは夕食札の束を開いた。
「七人分の喉が、声を出せるまで待つための布です。候補者控室夕食は、式典準備の末尾ではなく、本人発声の前に戻さなければならない生活到着条件です」
王妃付き記録係が、震える字で新しい欄を書いた。
『喉布到着先』
『蜂蜜湯再温め』
『夕食未了』
『本人発声待ち』
トマは冷めた蜂蜜湯を下げようとして、途中で止まった。
「下げる前に、札を残します。冷めたから廃棄、ではなく、誰にも届かなかった蜂蜜湯です」
「よくできました」
エリナが頷くと、トマは盆の端へ青い糸を結んだ。
『未到着蜂蜜湯 三椀』
マルタは喉布を一枚だけ受け取った。けれど首には巻かない。外套が戻るまでの肩布として、半分を自分の肩に、半分を空いた椅子の背に掛けた。
「ミリア様が来たら、ここに座れるようにします。わたしの肩が冷えないことと、あの方の喉が戻ることは、同じ箱の中に入れられてはいけないんですよね」
「同じ箱に入っていても、同じ済にはしません」
エリナは小箱の蓋裏へ、針で細い紙を留めた。
『代理祝辞用喉布箱は、本人発声・蜂蜜湯到着・夕食未了確認まで貸出済みにしない』
扉の外で、係官が声を荒げた。
「候補者二名など知らない。名簿にない席を勝手に増やすな」
その瞬間、王妃付き記録係の顔色が変わった。
「……名簿にないのではありません」
彼女は喉布箱の底板をそっと外した。
底板の裏に、細い黒糸で縫い付けられた小さな紙片があった。
『欠席候補者夕食 二名分 王太子側控室へ移送済』
欠席。
その言葉は、来なかった人を軽くする。けれど紙片の端には、まだ乾いていない蜂蜜の染みが二つ残っていた。
エリナはその染みを拭かなかった。
「欠席ではありません。喉布も蜂蜜湯も夕食も、本人に到着していないだけです」
青い仮止め針が、箱の底板を閉じないまま留めた。
次に確認すべきは、王太子側控室。
そこには、声を出す前に夕食を済みにされた候補者の椅子が、まだ二つ残っている。




