候補者声紋予備欄は、蜂蜜湯のない喉を貸出済みにできません
候補者控室の奥にある祝辞読み合わせ室は、礼拝堂より狭かった。
狭いぶん、冷めた蜂蜜湯の匂いがよく分かる。
小さな盆の上に、三つの椀が並んでいた。
一つには王妃陛下の印。
一つには王妃付き記録係の名。
最後の一つには、候補者名ではなく、細い紫の札が掛けられている。
『候補者声紋予備欄 貸出済み』
エリナは、その札をすぐに外さなかった。
外せば、ただの証拠になる。
けれどこの部屋では、札の向こうで誰かの喉が乾いている。
「……蜂蜜湯が冷めています」
トマが盆の縁を両手で持ったまま言った。
「これ、読み合わせの前に飲むものですよね。貸出済みなら、誰が飲むはずだった分なんですか」
堂守見習いが息を呑んだ。
王妃付き記録係は、さっきまで礼拝堂で王妃の祝辞文を代読していた女だ。背筋はまっすぐだが、指先だけが紙片の端を強く押さえている。
「わたくしが代読したのは、祝辞文だけです」
彼女はゆっくり言った。
「王妃陛下が読了した、とは書いておりません。声をお借りした、とも書いておりません。時刻、文面、相手方、代読者名。そこまでは、わたくしの責任で書けます」
「では、ここへ」
エリナは読み合わせ簿を開き、空いている余白を四つに分けた。
王妃本人発声待ち。
ミリア本人未読待ち。
記録係代読責任。
エリナ針箱番号、職能責任未引継ぎ。
「声紋予備欄という一つの箱へ混ぜません。代読できる声と、本人が読んだ声は違います。候補者がまだ読んでいない欄と、針箱がまだ引き継いでいない責任も違います」
「でも、貸出済みとあります」
堂守見習いが、壁の喉布棚を指した。
白い布が何枚も畳まれている。読み合わせの前に喉へ巻く布だ。冷えた礼拝堂で声を出す候補者たちのために、衣装室が毎回用意していた。
その一番下の棚だけ、布が一枚抜かれている。
棚札には、候補者名がない。
『予備声紋使用者 欠席扱い』
「欠席ではありません」
マルタが、夜番針子の荒れた指で棚札を押さえた。
「声を出す前の布がないだけです。布がない喉に、欠席って書かないでください」
その一言で、部屋の空気が変わった。
エリナは紫札の上から青い仮止め札を重ねる。
『本人発声待ち。蜂蜜湯再用意。喉布一枚、未貸出へ戻す』
トマは冷めた椀を下げず、新しい湯を頼みに走った。堂守見習いは喉布棚の抜けた位置へ、白い布を一枚戻す。王妃付き記録係は、自分の名で代読時刻を書き、最後に小さく付け加えた。
『本人の声ではない』
それは、犯人の名ではなかった。
けれど、誰かの声を勝手に貸し出す手順を、一つ止める言葉だった。
「ミリア様の順番札は、裏返しのままです」
トマが戻る前に、マルタが読み合わせ台の端を示した。
薄い札が一枚、表を伏せて置かれている。
エリナはそれもめくらない。
「本人が戻るまで、表にしません。読んでいない人の順番を、貸出済みの声で進めません」
そのとき、棚の奥から小さな封筒が落ちた。
封筒には、王太子側の金印ではなく、見慣れない黒い糸が巻かれている。
『予備声紋返却先――王太子祝典壇下、代理祝辞用喉布箱』
マルタの手が、戻された白い喉布の上で止まった。
エリナは封を切らず、青い札だけを置いた。
「返却先を見る前に、まず返されるべき喉を数えます。蜂蜜湯も、夕食も、本人の声も、壇下の箱へは貸しません」




