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退職処理済みの印は、王妃の裾を閉じられません

退職処理済み箱は、衣装室の一番奥にあった。


銀の鍵で閉じられ、赤い封蝋で「済」と押されている。中へ入れられた印は、もう誰の手にも戻らない。そういう決まりだった。


けれど、決まりには目的がある。


針を休ませるための箱ではない。誰かの印で、誰かの衣装を勝手に閉じないための箱だ。


「開ける必要はありません」


衣装長代理のベリルが、箱の前に立ちはだかった。彼女の肩には王妃祝典衣装の切れ端が掛かっている。赤く染まった裾を隠すように、白い覆い布が何重にも巻かれていた。


「エリナ様は追放処理済みです。退職印も返納済み。これ以上、衣装室の責任に触れないでください」


「触れません」


私は針箱を抱え直し、箱の横に置かれた返却簿を開いた。


「読みます」


広間からここまで付き添ってきた下働きのノアが、小さく息をのんだ。彼は昨日、外套を返されないまま夜番へ出されるところだった少年だ。今日は王妃陛下の裾を運ぶため、臨時の布運びとして呼ばれている。


臨時、と書かれた名札は、賃金欄が空白だった。


「また空白ですか」


ノアの声は震えていた。


「空白は悪いものではないわ」


私は返却簿の端に青い仮止め札を置いた。


「勝手に埋める人がいると、悪いものになるだけ」


退職処理済み箱の台帳には、三つの欄があった。


保守印名。


確認した生活手順。


責任の移った先。


私の旧保守印は、一行目にあった。エリナ・ノルヴァ。裾返却、候補者採寸、夜番外套。そこまでは正しい。


問題は、三つ目の欄だった。


責任移譲先――王妃祝典衣装一式。


「おかしい」


セリアが言った。昨日、靴の名札を本人確認待ちへ戻した若い侍女だ。彼女は王妃陛下の靴箱を抱えたまま、台帳をのぞき込む。


「人の印が、衣装一式へ移るのですか」


「移りません」


私は答えた。


「印は道具ではなく、確認した人の責任です。裾を閉じたなら、誰が歩いて帰れるか。外套を返したなら、誰が夜番を終えて帰れるか。そこまで見て初めて、一つの保守印です」


ベリルが顔を赤くした。


「王妃陛下の祝典を止める気ですか。王宮承認は済んでいます」


「承認済みと、到着済みは違います」


私は台帳の下段を指した。


王妃祝典衣装一式――返却済み。


だが、王妃陛下はまだ赤い裾で歩いていた。候補者の布はまだ本人へ返っていない。ノアの賃金欄は空白で、セリアの靴箱には返却先がない。


衣装だけが「済」になって、衣装を運び、着て、歩いて帰る人たちの欄が残っている。


「この処理は閉じていません」


私は青い札に、ゆっくり文字を書いた。


生活到着条件未完了。


ベリルが手を伸ばした。


「そんな札、正式書式では――」


「では、正式書式にしましょう」


声は、廊下の入口からした。


王妃陛下だった。


赤い裾を片手で持ち上げ、もう片方の手で壁に触れている。歩くたびに、靴先の白布が床をこすった。痛みを隠すための笑みを浮かべているが、右足だけが半歩遅れていた。


私は頭を下げた。


「陛下。まだ歩かないでください。裾は承認済みでも、帰着条件が未完了です」


「帰着条件」


王妃陛下は、その言葉を繰り返した。


「祝典衣装に、そのような項目があったかしら」


「ありませんでした。だから今、足します」


私はノアの臨時名札を返却簿の横へ置いた。


「まず、運び手の名前と賃金。次に、着る方が自分の足で戻れる裾丈。最後に、候補者布を本人へ返す手順です。三つがそろうまで、衣装は返却済みではありません」


ノアが自分の名札を見た。


「俺の、賃金もですか」


「あなたが運んだ布で、王妃陛下が歩いています。布だけ済みにして、運んだ人を空白にすることはできません」


セリアが靴箱を差し出した。


「では、靴の返却先も書かせてください。昨日まで、王妃陛下の靴は『祝典備品』で処理されていました。でも、これは陛下が明日も歩くための靴です」


王妃陛下は少しだけ目を細めた。


「祝典備品、ね。便利な言葉だわ」


ベリルの唇が震えた。


「私は、上から渡された台帳どおりに」


「だから、あなたの名も空白にしません」


私はベリルを見る。


「この台帳を書き換えた人と、運用した人は分けます。あなたが読まずに押さされた欄は、読んでいないと書いてください。責任を衣装一式へ逃がしたままにすると、次はあなたの名で誰かの裾が閉じられます」


ベリルは反論しなかった。


代わりに、台帳の端へ小さく書いた。


未読のまま受領。


その一行だけで、箱の前にあった空気が変わった。


私は王妃陛下の裾をほどき、仮糸を一本抜いた。赤い警告色が、すっと薄くなる。完全には消えない。けれど、右足を引く痛みは止まるはずだった。


「今夜は仮止めです。祝典は短縮できますが、歩いて戻ることはできます」


「十分です」


王妃陛下は、ノアへ視線を向けた。


「布運びノア。賃金欄をここで書きなさい。あなたの手がなければ、私は衣装室まで戻れなかった」


ノアの目が丸くなった。


彼は震える手で、自分の名前を書いた。賃金欄に、半日分。帰宅外套、返却済み。夜番免除、確認済み。


たった三行だった。


けれどノアは、初めて衣装室の中で名前を呼ばれた顔をしていた。


私は退職処理済み箱へ青い札を貼る。


「エリナ旧保守印。生活到着条件未完了につき、閉鎖保留」


銀の箱は、もう終わったものをしまう墓ではなかった。


誰かの名で勝手に終わらせないための、仮窓口になった。


そのとき、箱の底で乾いた音がした。


封蝋の内側から、細い紙片が滑り落ちる。


余り布台帳の写しだった。


候補者名の欄が、黒く塗られている。


ただ一つ、塗り残された端に、妹ミリアの花文字が見えた。


その横には、私の旧保守印と同じ角度の偽印が押されていた。


王妃陛下が低く言った。


「エリナ。祝典の裾より先に、こちらをほどきなさい」


私は紙片を青い札の下へ挟んだ。


閉じない札が、一枚増えた。

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