採寸控えは、王太子妃の鍵ではありません
王妃陛下の祝典衣装は、衣装室へ運び込まれるまでの廊下を赤く汚していた。
血ではない。
私は膝をつき、裾の一番内側をめくった。白い絹糸の芯だけが、歩幅に合わせて赤く浮き上がっている。誓約布に混ぜる染め戻し薬だ。本人の歩幅と違う採寸で無理に縫い戻すと、糸が警告色を出す。
「呪いだわ」
候補者席の令嬢が、扇の陰でささやいた。
「いいえ。足元の確認です」
私は王妃陛下の靴先から三歩分、床に落ちた赤い点を数えた。右足だけ短い。王妃陛下の癖ではない。別人の採寸控えで、裾だけを急いで合わせた跡だ。
アルベルト殿下が廊下の奥から追ってきた。
「エリナ。まだ衣装室の仕事をするつもりか。おまえは追放処理中だ」
「追放処理にも返却先欄が必要です。ですが今は、王妃陛下が歩いて戻れるかを確認します」
「王家が承認した衣装だ。候補者の採寸控えも王宮の管理物だ。裾縫い係が止めるものではない」
その言葉で、ミリアが小さく肩を揺らした。
妹の胸元には、前話と同じ銀糸の逆目がまだ残っている。笑っている貴族たちの中で、彼女だけが自分の衣装を触れないでいた。触れれば、その布が本当に自分のものか分からなくなるからだ。
私は針箱から白い採寸控えを取り出した。
「採寸控えは、王太子妃を選ぶ鍵ではありません」
「では何だ」
「その人の身体を、別人の都合で使わせないための控えです」
廊下が静かになった。
私は王妃衣装の裏札を開く。保管札、返却札、補修印、本人同意欄。四つの欄は、同じ一着でも別の責任を持つ。
「王家承認欄は、祝典へ出してよいという上位許可です。本人同意欄は、その人の身体と名を使ってよいという最低条件です。採寸控えは、その最低条件を確かめるための生活側の記録です」
「生活側?」
アルベルト殿下が鼻で笑った。
その時、候補者列の一人がよろめいた。公爵令嬢セリア様。白い祝典靴の甲が細すぎて、足首に赤い線を作っている。
侍女が慌てて膝をつく。
「申し訳ございません、セリア様。候補者用として渡された靴で……」
「我慢します。祝典前ですもの」
セリア様の声は高慢に聞こえた。けれど指は震えている。怒りではない。痛みを悟られないよう、扇を強く握りすぎている。
私は靴の返却札を受け取った。
「セリア・ファルム様。右足甲幅、四寸八分。控えでは五寸二分。これはあなたの靴ではありません」
「でも、王太子妃候補棚から出たと」
「棚の名は、本人の名ではありません」
私は侍女を責めなかった。侍女の手にも、赤い糸くずがついている。急な差し替えで、誰かの命令をそのまま運ばされた手だ。
「この靴はミリアの採寸控えで調整されています。ですが、ミリア本人の同意欄は空白。セリア様の着用欄も空白。二人の名前を一つの候補者棚で重ねています」
セリア様が扇を下ろした。
「では、わたくしは……王太子妃候補ではないと?」
「いいえ」
私は首を振った。
「あなたが候補であることと、あなたの足を別人の靴に入れることは、同じ欄ではありません」
ノアが廊下の端から、昨日返した外套を抱いて駆け寄ってきた。
「エリナ様。外套棚の控えも、同じでした。十八番外套の返却先欄に、祝典補助って上書きされかけていて。でも青札があったから、洗い場へ戻せました」
「ありがとう、ノア」
私はその外套の青札を、セリア様に見える高さで掲げた。
「この札は、下働き一人の帰宅を守りました。採寸控えも同じです。名誉を配る札ではありません。足を潰さないため、本人が歩いて戻るための控えです」
セリア様は、細すぎる靴を脱いだ。
廊下に、白い足袋のまま立つ公爵令嬢を見て、何人かが息を呑む。屈辱に見えたかもしれない。けれど彼女の顔から、痛みを隠すための笑みが消えた。
「……わたくしの足で、歩いてよいのですね」
「はい。今は祝典靴未返却ではなく、本人確認待ちです」
私は仮の返却札に、セリア様自身の声で確認した甲幅を書いた。侍女の名も添える。誰かが後で、侍女の失敗にして閉じないように。
アルベルト殿下が、一歩踏み込んだ。
「候補者を扇動するな。ミリアなら同意する。姉の仕事を継ぐと言っている」
ミリアの唇が、今度こそ震えた。
私は妹を見た。可愛い妹。母の針仕事を先に覚えたのは私で、王宮で褒められるドレスを着たのはいつも彼女だった。羨ましくなかったと言えば嘘になる。
それでも、沈黙は署名ではない。
「ミリアが読むまでは、ミリアの同意欄は空白です」
「姉のおまえが決めるのか」
「いいえ。だから空白のまま守ります」
私は王妃衣装の赤い裾へ青札をつけた。
「王妃陛下祝典衣装。本人歩行確認未完了。セリア様祝典靴。本人確認待ち。ミリア・ローレン採寸控え。本人同意欄未読。以上三件、王家承認欄とは別に返却保留とします」
下働きたちの列から、小さな声が上がった。
「わたしの名札も、確認してもらえますか」
別の侍女だ。袖を抱え、泣きそうな顔で立っている。祝典補助の臨時名札が、彼女自身の名を隠すように縫いつけられていた。
「順番に見ます。名前、持ち場、帰る先を本人の声で」
たった一人の靴を脱がせただけだ。王太子の命令を覆したわけではない。王妃衣装の血赤も、まだ止まっていない。
けれど廊下の端で、痛みを我慢していた人が一人、自分の足で立てた。ノアの外套は、祝典布に戻されなかった。ミリアの空白は、誰の筆でも埋まらなかった。
それが、衣装係の責任範囲だ。
「エリナ様」
老女官が、王妃衣装の内ポケットから小さな紙片を出した。
「この補修印の控え、あなたの印ではないとおっしゃいましたね」
私は紙片を受け取った。
朱肉の右端が欠けている。縁に、針で押したような細い傷がある。
息が止まった。
それは、私が見習いのころに一度だけ使い、退職処理済みの道具箱へ封じた古い保守印の欠け方だった。
もう王宮に存在してはいけないはずの私の古印が、王妃陛下の血赤の裾に押されていた。




