返却札の空白は、妹の名前で埋められません
「エリナ。今日から祝典衣装室の手柄は、すべてミリアの名で出す」
王宮東広間の床は、磨かれすぎて人の顔を映した。私はそこに映った自分の顔より、王太子アルベルト殿下の袖口を見ていた。
銀糸の縫い止めが、一目だけ逆だった。
婚約者だった人が、私を人前で切り捨てるために着てきた礼服。その袖の逆目は、昨夜、私が仮止めで残した確認印だ。まだ本人確認も、返却札の閉じも終わっていない。
「聞いているのか。おまえのような裾縫い係が王太子妃候補を名乗るなど、最初から滑稽だった。妹のミリアのほうが華がある。衣装室の印も、今後は彼女が持つ」
広間の貴族たちが笑った。
私は頭を下げた。悔しさでではない。殿下の足元で、裾丈が一寸だけ短いことを確認するためだ。
この礼服は、王太子用ではない。
王太子妃候補の「同意衣装」を開く鍵布で、着た本人の歩幅に合わせて裾を落とす決まりになっている。男物の礼服へ仕立て直した跡があるなら、誰かが候補者用の布を、別人の権限で使ったことになる。
「恐れながら、殿下」
「弁明は聞かない」
「弁明ではありません。返却札を止めます」
笑いが、ぴたりと止まった。
衣装係の声は広間では軽い。だが、返却札を止める声だけは別だ。衣装は飾りではなく、誰が何を読んで着たかを残す記録だから。
私は腰の針箱から青い仮止め札を出し、殿下の袖口へ触れない距離で掲げた。
「この礼服は、昨夜二十三時の時点で『王太子妃候補一番棚・仮縫い中』でした。返却札の本人欄は空白。仕立て責任者欄は私、エリナ・ローレン。献上者欄を妹ミリアの名で埋めることはできますが、着用同意欄は埋まりません」
「空白なら、ミリアが書けばいい」
「いいえ。空白は、誰でも埋めてよい欄ではありません。まだ誰も着ることに同意していない、という生活側の証拠です」
私は、広間の端で震えている少女を見た。衣装室の下働き、ノアだ。彼女は小さな腕で、白い外套を抱えていた。祝典用に回収された古外套。今夜、北門の寒番へ戻すはずだったものだ。
王宮の祝典準備係は、それを「余り布」と呼んだ。
ノアにとっては違う。夜明け前、洗い場から帰るための一枚だ。
「まず、その外套の返却を完了します」
私は広間の中央へ進み、ノアの前で膝をついた。
「ノア・ベル。北門洗い場、夜番。外套番号十八。返却先はあなたで間違いありませんか」
少女は、貴族たちの視線に息を詰まらせながら、小さくうなずいた。
「声でお願いします。あなたの外套です」
「……はい。私の、外套です。明け方に、帰るとき、使います」
私は青い札へ彼女の名を書いた。献上者欄ではない。返却先欄だ。
「返却完了。これで、この布は祝典衣装の余りではありません。夜番が帰るための生活到着分です」
外套を肩にかけられたノアの頬に、色が戻った。派手な拍手はない。けれど、下働きの列から、短く息を吐く音がいくつも聞こえた。
殿下が顔を赤くした。
「広間を私物の裁縫台にするな!」
「広間を裁縫台にしたのは、殿下です。未返却の候補者布を礼服に仕立て直し、空白の同意欄を妹の名で埋めようとした」
「証拠はあるのか」
私は袖口の銀糸を指した。
「逆目の仮止めは、開封時刻を示す衣装室の印です。昨夜二十三時、私が候補者棚へ戻したときのまま。ですが殿下の礼服には、同じ逆目が残っている。返却済みなら、逆目はほどかれ、本人確認針で留め直されるはずです」
ミリアが、殿下の横で一歩下がった。
妹は美しい。王宮の灯りの下で、誰もが振り向く顔をしている。だが今、その指先は震えていた。彼女の胸元にも、同じ銀糸の逆目がある。
「ミリア」
私は、彼女を責める声にしないよう気をつけた。
「あなたは、その衣装の同意欄を読んだ?」
ミリアの唇が開いた。答えは出ない。
殿下が代わりに言った。
「候補者に細かい書類を読ませる必要はない。王家が承認した」
その一言で、私は青い仮止め札を二枚目にした。
「王家承認と本人同意は、同じ欄ではありません」
広間の空気が変わった。
貴族たちは、まだ笑いたい顔をしていた。けれど、下働きと侍女たちは違う。誰もが、自分の名札をそっと触っている。誰かの都合で、今日の仕事も、帰る道も、着る服も、別の名にされるかもしれないと知っているからだ。
「本日二十時三十九分。王太子礼服、王太子妃候補衣装、妹ミリア嬢の胸飾り。以上三点を、本人同意欄未読のため返却保留にします。仕立て責任者エリナ・ローレンは、同意欄が本人の声で読まれるまで、王宮衣装室の保守印を返納しません」
「おまえは追放だ!」
「追放処理にも、返却先欄が必要です」
私は自分の針箱を抱え直した。胸が痛くないわけではない。十年通った衣装室の鍵は、手の中で冷たかった。
けれど、ノアの外套は返った。ミリアの沈黙は、まだ誰にも埋められていない。殿下の袖口には、逆目の銀糸が残っている。
空白は失敗ではない。
誰かを勝手に着せないための、最後の余白だ。
広間の扉が開いた。王妃付きの老女官が、息を切らして駆け込んでくる。
「エリナ様。王妃陛下の祝典衣装が……歩くたび、裾が血のように赤く変わります。返却札に、あなたの名でない保守印が押されています」
私は青い札をもう一枚取り出した。
「では、閉じません。王妃陛下が歩いて戻れるまで、その衣装は祝典済みではありません」




