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王妃読了欄は、礼拝堂の椅子に着くまで済みにできません

落ちた布札は、軽い音を立てなかった。


礼拝堂の床に触れる前に、堂守見習いの少年が両手で受け止めたからだ。彼はもう、読めない布を受領盆へ落とせば、それが誰かの読了にされることを知っている。


「王妃陛下の……読了欄です」


少年の声は震えていた。布札の端には王妃の紋章があり、その下に細い空白が残っている。空白の横には、赤い小さな印。


『祝典読了済』。


王太子側の係官は、息を吹き返したように笑った。


「見ろ。王妃陛下の欄は済んでいる。ならば婚約誓約布も、礼拝堂側で通る」


エリナは布札を奪わなかった。


まず、礼拝堂の奥を見た。


王妃席の椅子は、まだ冷たいままだった。背に掛けるはずの薄い膝掛けは外され、書見灯の皿には芯がない。椅子の横へ置かれる温茶盆も、王太子側の受領盆の下に重ねられている。


読んだ人の欄だけが、本人より先に済んでいた。


「礼拝堂へ移します」


エリナが言うと、係官が一歩前へ出た。


「この場で確認すれば足りる。王妃陛下の印がある」


「印は、椅子に座れません」


エリナは返却保留窓口の青札板から、新しい札を一枚抜いた。


一、王妃陛下が座る椅子。

二、王妃陛下が読む灯。

三、王妃陛下が喉を潤す温茶。

四、王妃陛下の声が届く距離。

五、読了後に本人の名で残る欄。


「この五つが揃うまで、王妃読了欄は読了ではありません。椅子の予約です」


「無礼な。王妃陛下を席や茶で測るのか」


「いいえ」


エリナは、王妃席の椅子へ向かった。


「権威の名で、人が読むための条件を消さないだけです」


堂守見習いが先に走った。彼は椅子の背から、王太子側が掛けていた白い済札を外す。札の裏には、王妃席番号ではなく、婚約誓約原簿の写し番号が書かれていた。


「この椅子の番号ではありません」


少年は、自分の声で言った。


「礼拝堂側は、王妃陛下が椅子に着く前の済札を、王妃席には掛けません」


その言葉で、礼拝堂の空気が少しだけ変わった。


誰かの命令で置かれた白い布が外れ、椅子はただの椅子に戻る。冷たい木目が見えた。そこへ座る人を、まだ待てる形になった。


「トマ」


エリナが呼ぶと、小使いのトマは受領盆の下から温茶盆を抱え上げた。係官が慌てて手を伸ばす。


「それは祝典準備物だ。こちらで受領する」


「受領したら、飲んだことにされます」


トマは盆を胸に抱えたまま、王妃席の横へ歩いた。


「だから、ここに置きます。王妃陛下がまだ飲んでいない温茶です」


盆の上には、冷めかけた茶碗と、小さな布巾があった。布巾の縁を見て、マルタが息を呑む。


夜番針子の彼女は、まだ自分の外套を受け取っていない。賃金札も、南門通過札も、青札板に未帰着のまま残っている。


そのマルタが、布巾を指でなぞった。


「この布目……外套の当て布です。夜番用の残り布を、王妃席の茶布に回したんじゃない。温めるために取っておいた布を、済札の飾りに縫い替えています」


係官が顔をしかめた。


「下働きの布など、祝典に使われれば名誉だろう」


「名誉ではありません」


マルタは、震える手で布巾を折り直した。だが今度は、ただ怯えていない。


「これは、冷えた手で読まないための布です。誰かの読了を早める飾り布ではありません」


エリナはうなずき、布巾の端へ青い糸を一本だけ通した。


縫い付けない。


外せるように、でも失くさないように。


「王妃席・温茶布。本人着席前、受領不可」


トマが帳面に同じ文を写す。堂守見習いは書見灯の皿を取り、空の芯穴を見せた。


「灯もありません。これでは読めません」


「なら、読了済みにはできません」


エリナは、婚約誓約布と王妃読了布札を、椅子の横の小机へ並べた。


二つの空白は似ていた。けれど、同じ罪の名前を急いで書くための空白ではない。


一つは、ミリアが自分で読むまで閉じてはいけない欄。


一つは、王妃が椅子に着き、灯を得て、茶を置き、自分の声で返すまで済みにしてはいけない欄。


「王妃陛下の読了は、王妃陛下の目と声で行われます。婚約誓約原簿の印でも、王太子側の受領盆でも、私の針箱番号でも代わりにはなりません」


係官の声が低くなった。


「王妃陛下が来られなければどうする。祝典は進む」


「来られない理由を書きます」


エリナは青札の最後に一行を足した。


『未着席。未点灯。未温茶。未発声。読了未完了』。


「来られない人を、来たことにはしません。読めない席を、読んだ席にはしません。祝典を進めるなら、誰の声を借りたのか、生活影響明細に書いてください」


礼拝堂の奥で、風もないのに扉の金具が鳴った。


一度。


二度。


堂守見習いが顔を上げる。トマは温茶盆の前に立ち、マルタは布巾から手を離さなかった。


奥扉の向こうから、低い声が届いた。


「私の椅子を、誰が先に済ませたことにしたのですか」


係官の顔から血の気が引く。


エリナは膝を折らず、まず小机の青札をまっすぐにした。


王妃陛下の声は、まだ空白の読了欄より先に届いていた。


そして書見灯の芯穴の奥から、細く巻かれた紙片が滑り落ちる。


そこには、王妃の名ではなく、ミリアの名でもなく、エリナの退職処理済み針箱番号を代読者欄へ移す指示が書かれていた。


日付は、婚約誓約原簿と同じ三日前だった。

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