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王太子婚約誓約布は、旧読了欄だけで婚約を読ませません

礼拝準備室の奥に置かれていた誓約布は、白ではなかった。


薄い銀糸で王家の紋が縫い込まれ、その下に、候補者の名を書くはずの細い欄が三本並んでいる。一本目は王太子レオンの名。二本目は空白。三本目には、古い読了欄から切り取ったような小さな布片が、仮縫いで留められていた。


「婚約誓約布です。王太子殿下の礼拝で読み上げるため、早急に整えるようにと」


堂守見習いの少年は、声を落として言った。彼の手は、まだ祭壇布の受領盆を離さない。さきほどエリナが教えた通り、読めない布を盆に載せれば、それは“礼拝済み”として閉じられるからだ。


エリナは誓約布へ針を刺さなかった。


「整える前に、誰が読んだことになっているかを見ます」


王太子側の係官が鼻で笑った。


「婚約に必要なのは王家の承認だ。裾縫い係が候補者の気分まで待つ必要はない。古い読了欄があるなら、それで足りる」


「古い読了欄は、婚約を読む口ではありません」


エリナは布片の端をそっと持ち上げた。裏に残っていた糸の方向が、礼服の芯布ではなく、採寸控えを束ねる細い仮糸と同じだった。


布片の表には、ミリアの花文字に似た頭文字が一つだけある。けれどその下に続くはずの文は切り取られ、読了の対象が何であったのか、本人の名で確かめる欄も残っていない。


「これは、候補者が婚約文を読んだ印ではありません。採寸控えの端にあった、“あとで読む”ための仮目印です」


「同じことだ」


「違います」


エリナは返却保留窓口の青札板から一枚を取り、誓約布の横へ置いた。


そこに書くのは、相手を責める言葉ではない。


一、誰の婚約文か。

二、誰が最後まで読んだか。

三、読んだ人が、外套、賃金札、帰宅札を本人名で閉じられているか。

四、その布を整える職能責任者は誰か。


係官の顔色が変わった。


「そんな明細を付けたら、礼拝に間に合わない」


「間に合わないのは礼拝ではありません。読んでいない人を読了済みにする手順です」


ミリアは、この部屋にはいない。だからエリナは、彼女の代わりに読了欄を埋めない。空白を裁判の証拠にも、婚約の鍵にも、すぐにはしない。


ただ、読んでいないものを読んだことにされない席として守る。


「トマ」


エリナが呼ぶと、小使いのトマが小さな帳面を開いた。


「南門通過札、マルタさんの半日賃金札、候補者控室の温茶札、ぜんぶ未帰着のままです」


「そこへ一行足して。婚約誓約布、本人読了前。受領盆へ載せない」


トマはうなずき、自分の字で書いた。少年の字はまだ曲がっていたが、誰かの名を勝手にまっすぐ整える字ではなかった。


堂守見習いも、受領盆を一歩後ろへ引いた。


「僕も書きます。礼拝堂側は、読了欄がない布を祈り済みにしません」


その一言で、部屋の空気が変わった。


今まで“上から降りた準備”だったものが、外套を返す人、賃金を受け取る人、読んでから名を書く人の手順へ落ちていく。エリナはその流れを見届けてから、誓約布の端に青い仮止め糸を一本だけ通した。


縫い付けるためではない。


ほどけないようにするためでもない。


「未読保留。本人が読める場所へ戻るまで、婚約誓約布として起動しません」


係官が机を叩いた。


「その判断を誰の権限で行う」


エリナは、誓約布の下からもう一枚、薄い紙を抜き出した。


古い針箱番号表だった。退職処理済みとして閉じられたはずの、エリナ自身の針箱番号。その番号が、婚約誓約布の整備責任者欄に写されている。


だが、欄の横にある受領印は、王太子側管理室のものではなかった。


礼拝堂保管庫の、婚約誓約原簿の印。


しかも日付は、エリナが退職処理を出した翌朝ではない。


三日前。


彼女がまだ追放される前、王太子が公開断罪の台詞を用意していた日の朝だった。


エリナは紙を折らず、青札の下へまっすぐ差し込んだ。


「私の針箱番号も、読んでいない婚約も、処理済みにしません」


礼拝堂の鐘が、まだ鳴らない時刻を一つ告げた。


そして婚約誓約原簿の奥で、同じ印を持つもう一枚の布札が、未開封のまま震えるように落ちた。


そこには、ミリアの名ではなく、王妃陛下の祝典読了欄と同じ空白が残っていた。

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