王太子側礼拝準備室は、読了前の布で祈りを整えられません
礼拝準備室は、白く見えた。
壁の石も、祭壇布も、候補者席に掛けられる膝掛けも、香油で拭かれている。
けれど扉を開けた瞬間、私が先に読んだのは清めの匂いではなかった。
濡れた外套を乾かさず畳んだときの、重い羊毛の匂い。
夜番の指先に残る針油。
そして、まだ本人が読んでいない欄を、別の綺麗な言葉で覆った紙の匂いだった。
「王太子殿下の礼拝支度です。処分済み祝典素材は、ここで清められます」
準備室の書記が胸を張る。
小卓には札が三枚並んでいた。
『礼拝膝掛け 一枚』
『香油布 候補者席用』
『退職処理済み針箱 補修責任移管済み』
私は最後の札に指を置いた。
そこには、私の針箱番号があった。
「祈りの布にする前に、誰の肩から外した布かを読ませてください」
「礼拝準備は上位手順です。外套や賃金札のような下位の返却札は、あとで整理されます」
その言葉で、控え椅子に座っていたマルタが膝掛けへ伸ばした手を止めた。
彼女の外套は、まだ戻っていない。
賃金札も、青い仮止め針で旧処分衣装回収室の控え板に留めたままだ。
「……それ、わたしの肩の布ですか」
細い声だった。
けれど礼拝準備室では、香油瓶が鳴るほどはっきり聞こえた。
書記は顔をしかめる。
「夜番針子の布ではありません。清められれば候補者席の膝掛けです」
「清めても、帰ったことにはなりません」
私は膝掛けの端を裏返した。
縫い代の内側に、マルタの外套棚番号と同じ青糸が残っている。
さらに小さな布片が縫い込まれていた。
『本人呼名前に候補者材料へ移管済み』
昨日、旧処分衣装回収室で見た文言と同じだ。
ただし今日は、その下に別の一行が足されている。
『礼拝準備完了をもって、読了確認に代える』
「代えられません」
私は礼拝机の紙を一枚引き寄せ、空いている下段に書いた。
――礼拝準備は、本人読了欄を読まない。
――膝掛けは、外套返却を代わらない。
――香油代は、夜番賃金を代わらない。
――針箱番号は、退職処理未完了の本人道具を礼拝補修責任へ移さない。
書き終える前に、準備室の奥から若い堂守見習いが出てきた。
腕には白い祭壇布を抱えている。
王太子側の印が押された受領盆へ、その布を載せようとしていた。
「置けば、準備完了になるのですね」
「ええ。早く」
書記がうなずく。
見習いは布を見下ろした。
それから、受領盆ではなく、私の前の青い仮止め札へ向きを変えた。
「では、置けません。わたしは堂守見習いで、祈りの布を渡す係です。読んでいない人の外套を、祈ったことにはできません」
マルタが息を飲んだ。
トマが、小使い用の運搬札を胸元から取り出す。
彼はいつものように小さく頭を下げ、しかし今日は自分から筆を持った。
「運んだ人の名前が空欄のままなら、僕も受領印を押しません。マルタさんの外套と、半日分の賃金札と、帰る南門札が同じ束にあると書きます」
私はうなずき、礼拝準備室用の新しい青札を切った。
『礼拝支度保留。本人読了・外套返却・賃金受領・針箱返還まで、祈りの布として使用不可』
マルタは震える手で、その札の端を押さえた。
「わたし、受け取りません。膝掛けとしてではなく、外套として名前を呼ばれるまで」
それが、今日の小さな礼拝だった。
祭壇の前ではない。
白い石の床で、夜番針子が自分の肩の布を候補者席へ渡さないと決めた、その一呼吸だった。
書記は唇を噛み、奥棚の鍵をつかんだ。
「ならば、王太子殿下の婚約誓約布を確認なさい。あれは王妃衣装補助棚ではなく、正式な礼拝準備室の預かりです」
奥棚が開いた。
中にあったのは、王妃衣装の替え布ではなかった。
薄い誓約布の端に、古い読了欄が縫い込まれている。
『王太子婚約誓約布 旧読了欄』
そしてその裏には、ミリアの花文字ではない筆跡で、私の退職処理済み針箱番号と同じ番号が書かれていた。
私は青札をもう一枚、机の端に置いた。
「次は、祈りではなく、誰の婚約を誰が読んだことにされたのかを読みます」




