表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/57

本人呼名前の候補者材料移管簿は、帰っていない肩を素材名で閉じません

古い補助棚の鍵番号は、開ける音より先に、冷えた茶の匂いを連れてきた。


 王宮衣装室の南端、返却保留窓口の隣に置いた控え椅子には、マルタが両手で温茶の碗を抱えて座っている。夜番針子の外套はまだ肩に戻らず、賃金札も青い仮止め針で机に留めたままだ。


 それでもマルタは、さっきまでより少しだけ喉を動かせた。


「……わたしの肩、まだ、わたしの名前で呼ばれていません」


 その一行を、エリナは古い補助棚鍵番号の下に置いた。


 鍵番号は本人名を開ける鍵ではない。帰っていない人が、名前を言えるまで待つための棚番号だ。


 その時、南階段の方から、赤い紐で束ねた移管簿が届いた。


 運んできたのは祝典材料倉庫の小使いだった。彼は布束を抱えたまま、返却保留窓口の青札板を見ないように目を伏せる。


「王妃祝典衣装の補助材料、候補者肩一式、本人呼名前に材料移管済み。こちらへ受領印を」


 彼が差し出した表紙には、きれいな字でそう書かれていた。


 候補者肩一式。


 エリナは、その語を声に出さなかった。代わりに、表紙の下に挟まれた薄い呼名札を抜く。


 呼名札の表は空白だった。

 裏にだけ、細い赤字がある。


『本人呼名前。祝典材料倉庫へ移管済み』


 マルタの碗が、小さく鳴った。


 ミリアは、帰宅棚三番の前で息を止めていた。彼女の採寸控えも、読了欄を切り取られたまま青札の下にある。ミリアが悪いのか、誰かに名前を使われたのかは、まだ閉じていない。


 だからこそ、エリナは移管簿を破らない。


 破れば、移管がなかったことになる。けれど、なかったことにすれば、この空白を作った手順も消えてしまう。


「受領印は押しません」


 小使いの肩が跳ねた。


「ですが、材料倉庫では、候補者肩一式としてもう棚番が」


「材料名では、人は帰ってきません」


 エリナは青い針を一本取り、移管簿の表紙ではなく、生活影響明細の白い欄に留めた。


「この移管で動くものを、四つ書きます。本人名、外套、賃金札、呼名控え。四つが本人に届いていないなら、移管は材料到着ではなく、生活到着未完了です」


 レオンが黙って南門通過札を机に出した。昨夜の通過時刻はある。けれど、帰ってきた本人の名前を書く欄は空いたままだ。


 セリアが夜番外套の裾を広げる。肩の裏には、急いで外した仮糸の跡が残っていた。肩幅札だけが抜かれ、外套は誰の喉にも戻っていない。


 マルタは碗を置いた。


「わたし、書きます」


 まだ震える字で、彼女は生活影響明細の一行目に書いた。


『マルタ。夜番外套、未帰着。本人呼名前に材料名で閉じないでください』


 ミリアが、二行目に筆を置く。


『ミリア。採寸控え読了欄、本人未読。わたしの名前で、誰かの肩を材料にしないでください』


 小使いは青ざめていた。彼は悪人の顔をしていない。ただ、倉庫で教えられた言葉だけを運んできた顔だった。


「ぼくは、材料移管済みの札を渡せと言われただけで」


「なら、あなたの行も必要です」


 エリナは三行目を空ける。


「誰の指示で、どの棚へ、何を持っていくつもりだったか。あなたが読める範囲だけでいい。読んでいないことは、読んでいないと書いてください」


 小使いはしばらく筆を握れなかった。だがマルタの温茶の湯気が、彼の指の震えを少し隠した。


『祝典材料倉庫小使いトマ。古い退職処理番号つき移管簿を受け取り、候補者肩一式として棚へ運ぶ予定。本人名、外套、賃金札、呼名控えは確認していません』


 退職処理番号。


 エリナはその語の上に針を置く。王妃衣装補助棚の鍵番号ではない。祝典材料倉庫の奥、退職処理済みの帳簿から出てきた番号だ。


 彼女自身の針箱を一度閉じた、あの種類の番号に似ていた。


 胸の奥が冷えた。けれど今、冷えたままで置くべきものがある。


「これは犯人名ではありません。生活到着未完了の番号です」


 エリナは移管簿の表紙に、青い保留札を重ねた。


『候補者材料移管簿。本人呼名、外套返却、賃金受領、呼名控え到着まで未完了。材料倉庫への受領印不可』


 その場で変わったことは、小さい。


 マルタの賃金札が、代理肩束ではなく本人の碗の横に戻った。

 夜番外套は、材料棚ではなく控え椅子の背にかかった。

 ミリアの採寸控えは、妹の罪状ではなく本人未読欄として青札の下に残った。

 小使いトマは、読んでいないことを読んでいないと書いた。


 王宮の祝典は、まだ止まっていない。

 王太子の礼服も、王妃衣装の奥の契約核も、まだほどけていない。


 それでも、材料というきれいな言葉で、人の肩を閉じることだけは、今日ここで止まった。


 ミリアが小さく息を吐いた。


「エリナ様。わたし、まだ許されなくていいです。でも、名前を読む前に、誰かの肩になるのは嫌です」


「それを書けたなら、十分です」


 エリナはそう答え、移管簿の裏へ目を落とす。


 古い退職処理番号の横に、もう一つだけ、かすれた倉庫名が残っていた。


『祝典材料倉庫・旧処分衣装回収室』


 返却ではない。

 材料でもない。


 処分という語が、まだ人の帰る外套を待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ