本人呼名前の候補者材料移管簿は、帰っていない肩を素材名で閉じません
古い補助棚の鍵番号は、開ける音より先に、冷えた茶の匂いを連れてきた。
王宮衣装室の南端、返却保留窓口の隣に置いた控え椅子には、マルタが両手で温茶の碗を抱えて座っている。夜番針子の外套はまだ肩に戻らず、賃金札も青い仮止め針で机に留めたままだ。
それでもマルタは、さっきまでより少しだけ喉を動かせた。
「……わたしの肩、まだ、わたしの名前で呼ばれていません」
その一行を、エリナは古い補助棚鍵番号の下に置いた。
鍵番号は本人名を開ける鍵ではない。帰っていない人が、名前を言えるまで待つための棚番号だ。
その時、南階段の方から、赤い紐で束ねた移管簿が届いた。
運んできたのは祝典材料倉庫の小使いだった。彼は布束を抱えたまま、返却保留窓口の青札板を見ないように目を伏せる。
「王妃祝典衣装の補助材料、候補者肩一式、本人呼名前に材料移管済み。こちらへ受領印を」
彼が差し出した表紙には、きれいな字でそう書かれていた。
候補者肩一式。
エリナは、その語を声に出さなかった。代わりに、表紙の下に挟まれた薄い呼名札を抜く。
呼名札の表は空白だった。
裏にだけ、細い赤字がある。
『本人呼名前。祝典材料倉庫へ移管済み』
マルタの碗が、小さく鳴った。
ミリアは、帰宅棚三番の前で息を止めていた。彼女の採寸控えも、読了欄を切り取られたまま青札の下にある。ミリアが悪いのか、誰かに名前を使われたのかは、まだ閉じていない。
だからこそ、エリナは移管簿を破らない。
破れば、移管がなかったことになる。けれど、なかったことにすれば、この空白を作った手順も消えてしまう。
「受領印は押しません」
小使いの肩が跳ねた。
「ですが、材料倉庫では、候補者肩一式としてもう棚番が」
「材料名では、人は帰ってきません」
エリナは青い針を一本取り、移管簿の表紙ではなく、生活影響明細の白い欄に留めた。
「この移管で動くものを、四つ書きます。本人名、外套、賃金札、呼名控え。四つが本人に届いていないなら、移管は材料到着ではなく、生活到着未完了です」
レオンが黙って南門通過札を机に出した。昨夜の通過時刻はある。けれど、帰ってきた本人の名前を書く欄は空いたままだ。
セリアが夜番外套の裾を広げる。肩の裏には、急いで外した仮糸の跡が残っていた。肩幅札だけが抜かれ、外套は誰の喉にも戻っていない。
マルタは碗を置いた。
「わたし、書きます」
まだ震える字で、彼女は生活影響明細の一行目に書いた。
『マルタ。夜番外套、未帰着。本人呼名前に材料名で閉じないでください』
ミリアが、二行目に筆を置く。
『ミリア。採寸控え読了欄、本人未読。わたしの名前で、誰かの肩を材料にしないでください』
小使いは青ざめていた。彼は悪人の顔をしていない。ただ、倉庫で教えられた言葉だけを運んできた顔だった。
「ぼくは、材料移管済みの札を渡せと言われただけで」
「なら、あなたの行も必要です」
エリナは三行目を空ける。
「誰の指示で、どの棚へ、何を持っていくつもりだったか。あなたが読める範囲だけでいい。読んでいないことは、読んでいないと書いてください」
小使いはしばらく筆を握れなかった。だがマルタの温茶の湯気が、彼の指の震えを少し隠した。
『祝典材料倉庫小使いトマ。古い退職処理番号つき移管簿を受け取り、候補者肩一式として棚へ運ぶ予定。本人名、外套、賃金札、呼名控えは確認していません』
退職処理番号。
エリナはその語の上に針を置く。王妃衣装補助棚の鍵番号ではない。祝典材料倉庫の奥、退職処理済みの帳簿から出てきた番号だ。
彼女自身の針箱を一度閉じた、あの種類の番号に似ていた。
胸の奥が冷えた。けれど今、冷えたままで置くべきものがある。
「これは犯人名ではありません。生活到着未完了の番号です」
エリナは移管簿の表紙に、青い保留札を重ねた。
『候補者材料移管簿。本人呼名、外套返却、賃金受領、呼名控え到着まで未完了。材料倉庫への受領印不可』
その場で変わったことは、小さい。
マルタの賃金札が、代理肩束ではなく本人の碗の横に戻った。
夜番外套は、材料棚ではなく控え椅子の背にかかった。
ミリアの採寸控えは、妹の罪状ではなく本人未読欄として青札の下に残った。
小使いトマは、読んでいないことを読んでいないと書いた。
王宮の祝典は、まだ止まっていない。
王太子の礼服も、王妃衣装の奥の契約核も、まだほどけていない。
それでも、材料というきれいな言葉で、人の肩を閉じることだけは、今日ここで止まった。
ミリアが小さく息を吐いた。
「エリナ様。わたし、まだ許されなくていいです。でも、名前を読む前に、誰かの肩になるのは嫌です」
「それを書けたなら、十分です」
エリナはそう答え、移管簿の裏へ目を落とす。
古い退職処理番号の横に、もう一つだけ、かすれた倉庫名が残っていた。
『祝典材料倉庫・旧処分衣装回収室』
返却ではない。
材料でもない。
処分という語が、まだ人の帰る外套を待っている。




