翌日付の旧保守印写しは、私の引継ぎ完了ではありません
白い礼服芯布の端に押された旧保守印写しを、私はすぐには偽物と呼ばなかった。
偽物と言えば、話は早い。
けれど早い言葉は、また誰かの欄を閉じる。
「エリナ、お前の印だろう」
レオンが勝ち誇った声で言った。
「退職翌日も保守を済ませていた。つまり、この混乱はお前が引き継ぎを怠ったせいだ」
廊下の針子たちがこちらを見た。夜番のマルタの賃金札。ミリアの未読欄。王妃祝典衣装の起動確認札。三つの紫印がまだ机の上で青い糸に止められている。
その上へ、私の名前に似た印が落ちてきた。
自分の名が、誰かの生活を閉じる刃物にされる感覚がした。
私は息を吐き、芯布片を裏返した。
「これは、私の引継ぎ完了ではありません」
「印がある」
「印だけでは、誰の棚を見たか分かりません」
私は針箱を開けなかった。代わりに、返却保留窓口の机へ三本の線を引く。
一つ目。保守範囲。
「私の保守印が確認できるのは、裾糸、芯布、返却札、貸出棚の状態です。ですが、この写しには、確認した棚番号がありません」
二つ目。引継ぎ相手。
「誰へ渡したか。後任が誰か。読んだ者の名がありません。退職翌日の日付だけでは、私の責任が誰かへ届いたことになりません」
三つ目。生活影響欄。
私は夜番外套棚八番の札を寄せた。
「この写しで王妃祝典衣装が確認済みになると、夜番の外套未返却は作業済みになります。マルタの賃金札は受領済みのまま、本人署名なしで閉じられる。候補者外套も、ミリア様の未読欄も、私の旧印で読んだことにされます」
「だから何だ」
レオンが苛立って言った。
「保守印は保守印だ。王宮の印は、人より上にある」
王妃陛下の視線が冷えた。
けれど私は、その怒りを借りなかった。私の仕事は、怒りを生活の欄へ戻すことだ。
「印は、人の上にありません。誰かが明日も着て、帰って、賃金を受け取り、同意を読めるための責任です」
私は芯布片を青札の中央へ置いた。
「旧保守印写し。本人責任未確認。引継ぎ相手空白。生活影響明細未添付。よって、確認済みではなく、保守責任未引継ぎとして保留」
セリアが小さく息を吸った。
「では、エリナ様の名前も、閉じないのですね」
「はい」
言ってから、胸の奥が少しだけ震えた。
私は退職処理済みの箱に入れられた人間ではない。
まだ誰の肩を守る責任が残っているかを読む者だ。
私は青い糸をもう一本取り、返却保留窓口の端に小さな札を立てた。
仮保守責任窓口。
そこへ置けるのは、衣装だけではない。読まれていない同意欄。帰っていない外套。受け取られていない賃金札。引き継がれていない印箱。閉じたことにされた生活を、閉じないまま置く場所だ。
「今日から、この窓口では、印の真偽より先に生活影響を見ます」
私は針子たちへ向けて言った。
「誰の肩が寒いか。誰の賃金が止まるか。誰の名前が代筆されるか。誰が次にこの印を信じて衣装を着せられるか。そこが空白なら、保守済みとは呼びません」
ノアが門番帽を胸に当てた。
「では、南門の通過札も置けますか。外套がないまま帰した記録を、欠勤処理にしたくありません」
「置けます。あなたが見た帰路も、保守責任の一部です」
「門番の記録まで衣装室へ入れるのか」
レオンが吐き捨てる。
「外套は門を通って帰ります。門で寒さが止まったなら、衣装室の仕事はそこで終わっていません」
私は南門通過札の端へ、外套未返却、と小さく書いた。責めるためではない。マルタが次に自分の名で戻ったとき、欠勤ではなく帰宅条件未完了として読めるようにするためだ。
その言葉に、廊下の針子たちの背が少し伸びた。
私の印は、私を縛る鎖ではなく、誰かが帰るまで責任を残す糸へ戻り始めていた。
マルタの賃金札の横に、セリアが「本人確認待ち」と書く。リナリアは候補者外套札へ「読了者別確認」と足した。ノアは南門通過記録を、もう一度自分の字で写した。
三人の筆跡が並ぶと、私の旧保守印写しは、私ひとりを責める札ではなくなった。
誰の生活を閉じるために使われたのかを、まだ読まなければならない札になった。
王妃陛下が命じた。
「返却保留窓口を、仮の保守責任窓口とします。エリナ、旧印の箱を開ける前に、責任の道筋を読みなさい」
「承ります」
レオンが一歩前へ出た。
「勝手に窓口を増やすな。候補者控室の貸出棚は、王太子側管理室の管轄だ」
その言葉で、私は顔を上げた。
「候補者控室?」
王妃陛下の侍女が紫印台帳の次頁を開く。旧保守印写しの保管欄には、祝典礼服芯布とは書かれていなかった。
候補者控室、貸出棚三番。
貸出対象、夜番外套予備。
私の旧保守印写しは、王妃の礼服ではなく、候補者たちが帰るための棚に紐づけられていた。




