表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/57

針箱返却窓口は、退職済みの私を閉じる場所ではありません

八番棚の外套札を青い糸で留めたあと、衣装室の奥から、古い針箱が運ばれてきた。


黒い木箱。蓋の角だけが擦り切れて、私の親指が何度も押した跡が残っている。退職処理済み、と紫の印が斜めに押され、その下に小さく「返却不要」と書かれていた。


「これで終わりだ」


レオンは箱を示した。


「エリナの道具は王太子側管理室が回収した。退職済みの者が、これ以上返却札に触れる資格はない」


候補者たちの外套掛けが、かすかに揺れた。リナリアは踵をかばったまま、八番棚の青札を見る。セリアは夜番用の手袋束を抱え直した。


私は針箱へ近づいた。


「箱を開ける前に、返却窓口を確認します」


「窓口などない。退職者の箱だ」


「いいえ。ここには、まだ帰っていないものが入っています」


私は蓋の紫印を指でなぞった。印の端が、布ではなく紙を噛んでいる。針箱に貼るには不自然な薄い紙片。退職処理済み箱の札の下へ、別の返却札が差し込まれていた。


ノアが息をのむ。


「それ、外套札ですか」


「夜番針子用、帰宅外套棚八番。受領済み。ただし、受領者名は空白」


私は読み上げた。


廊下が静まる。


八番は存在しない候補者番号ではなかった。候補者控えの外にいる、夜番針子たちの帰宅外套棚だった。祝典衣装を縫い直すために夜を越えた者が、朝、肩へ掛けて帰るための棚。その札が、私の退職箱の下で閉じられている。


外套棚の八番には、いつも薄い灰色の上着が三枚掛かっていた。針子は同じものを順に使うから、袖口の内側に小さな名札を仮縫いする。マルタ、イネス、ユリ。誰が最後に着て、誰がまだ帰っていないかを、布の温度で確かめるための手順だった。


その三つの名が、今は一枚の空白に潰されている。


「空白なら、誰のものでもない」


側近が言った。


「王太子側管理室が受領したなら、管理室の備品だ」


「違います」


私は針箱を開けずに、蓋の前へ青札を一枚置いた。


「受領済みとは、外套が本人の肩へ戻り、帰宅門を通り、翌朝の賃金札が閉じられるまで使う言葉です。箱の中へ入っただけでは、帰宅は完了しません」


セリアが手袋束から一組を抜いた。


「昨日、夜番のマルタが外套なしで南門まで歩きました。雨でした。今日、熱が出ています」


「名前を書けますか」


「書けます」


セリアは青札へ、震える字でマルタ、と書いた。続いて、ノアが門番の証言欄を作り、リナリアが候補者控室の膝掛け一枚を仮貸出欄へ移した。


「候補者用の膝掛けを下働きへ渡すのか」


レオンの声が低くなる。


私は首を振った。


「候補者の名誉を削るのではありません。候補者外套が本人へ戻る条件と、夜番針子が帰れる条件を同じ窓口で読めるようにするだけです。祝典の布は、誰かが帰れなくなるための鍵ではありません」


私は青札を三つに分けた。


一枚目は、候補者外套。リナリア本人が読んだか、踵当て布が戻ったか、帰宅馬車まで肩を冷やさないか。


二枚目は、夜番外套。マルタ、イネス、ユリが誰の順で着たか、南門を通ったか、翌朝の賃金札に欠勤ではなく帰宅条件未完了と残るか。


三枚目は、私の針箱。退職済みではなく、どの針と保守印を誰へ引き継いだか、本人確認が終わるまで閉じない欄だ。


三枚を並べると、祝典衣装室の床に小さな窓口ができた。豪華な礼服より薄い紙なのに、そこへ名前が置かれるだけで、廊下の冷え方が変わる。


針箱の中から、細い音がした。


蓋は開けていない。けれど、紫印の下へ差し込まれた紙片が、湿気で反り、隙間から銀の糸端を覗かせていた。


私は糸端を抜かず、青札の端で押さえた。


「この箱は、私の退職を閉じる箱ではありません。帰っていない外套、返されていない針、読まれていない同意欄を、閉じずに置く窓口です」


王妃陛下が、廊下の向こうで足を止めた。


「窓口の名を言いなさい」


「返却保留窓口。青い仮止め札で、本人名、到着先、帰宅確認、賃金札を別々に残します。空白は、管理室が埋める欄ではありません。本人が帰ってから閉じる欄です」


王妃陛下は、セリアの書いたマルタの名を見た。


「今夜の外套は」


「候補者控室の予備膝掛け一枚を、南門帰宅用に仮貸出。明朝、マルタ本人が返却窓口で名を確認します。候補者用外套七枚は、そのまま本人確認待ち。八番棚は閉じません」


「許可します」


短い言葉だった。けれど、セリアの肩から力が抜けた。ノアが南門へ走り出す。リナリアは、自分の踵当て布を見て、小さくうなずいた。


レオンは針箱を奪おうとした。


私は蓋へ手を置く。


「触れないでください。退職済みの私の箱ではなく、未帰宅の外套札の証拠です」


紫印の斜め下、まだ乾ききっていない日付が見えた。


王妃祝典衣装、起動確認済み。


日付は、明日だった。


まだ始まっていない祝典が、もう確認済みになっている。


返却保留窓口の青札の上で、銀の糸端が、次の空白を指すように震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ