夜襲
日没が迫る頃、グレンは地面に杖を突き立て、魔術陣の構築に没頭していた。森から来る――その確信に近い予測に従い、地表へと魔力を流し込む。
杖先を軸に、淡い光が土の上を走る。複雑な紋様が、焼き付くように浮かび上がり、幾重にも重なっていく。土がわずかに焦げ、乾いた匂いが立ち上った。
焚き火の炎が揺れ、その影が地面に長く歪む。まるで爪で引き裂かれたような、黒い線。
「それは何をしてるんだ?」
火に手をかざしていたゴランが、眉をひそめて尋ねる。隣ではエレナが身を乗り出し、興味と不安が入り混じった視線を注いでいた。
「迎撃準備だ。踏むなよ」
簡潔に告げて立ち上がる。完成した円陣が淡く燐光を帯び、次の瞬間、空気に溶けるように消えた。
「踏んだらどうなる?」
「死ぬ」
間を置かない返答だった。ゴランが反射的にのけぞり、エレナが小さく悲鳴を漏らす。
雷撃が走り、対象を一瞬で炭化させる術式。小型の魔獣なら、肉片すら残らない。
「あんたたちがそこまで愚かだとは思ってないけどな」
辛辣な一言にゴランは口をつぐみ、エレナもそれ以上は言えなくなる。
シャムロックはその様子をじっと見ていた。
「任意で解除できるんだろうな」
「当たり前だ」
「ならいい」
それだけ言うと、剣士は背を向ける。馬の寝藁を整える手つきは淡々としていて、無駄がない。グレンは鼻を鳴らした。信用されていない――だがそれは当然だ。自分も同じなのだから。
日が沈む。光がゆっくりと削られていく。
焚き火の爆ぜる音と、小川のせせらぎが、夜の静けさに溶けていく。風が一度だけ林を抜け、梢を揺らした。
シャムロックが哨戒に出た。その姿は、夕闇に自然と溶け込む。
グレンは焚き火の前に立ち、杖の石突きで地面を軽く叩いた。乾いた振動が手の内に返る。
(本当に来るのか?)
疑念と緊張が交互に意識を撫でる。感覚は研ぎ澄まされていた。
鼻を突く匂いが変わった。
焚き火の煙。湿った土。草の青臭さ。その奥に、異物が混じる。濡れた鉄と獣の臭い。
喉の奥がひくりと引き攣れた。
同時に、背後の気配が止まる。振り返らなくても分かる。シャムロックだ。
グレンは杖を握り直す。掌にじわりと汗が滲み、冷える。魔力が、皮膚の内側でざわつき始めた。
(来る)
次の瞬間藪が鳴り、影が飛び出した。影はそのまま、不可視の円陣へ踏み込む。
直後、雷光が天に突き抜けた。
「ギャッ——!」
閃光とともに、黒い肢体が弾ける。肉が焼け、骨が軋み、焦げた臭いが一気に広がった。魔獣は地面に叩きつけられ、痙攣したまま動かなくなる。見開かれた眼は、すでに光を失っていた。
「……!」
灌木の奥で、複数の気配が、一斉に静止する。呼吸、足運び、獣じみた唸り――すべてが凍り付く。仲間の死を“理解する時間”だ。
そして、咆哮が夜を引き裂いた。複数の影が一斉に躍り出る。怒りと飢えが混じった、統制のない突進。
二体目が罠に触れ、再び雷が走る。だが、そこで動きが変わる。
散開し、罠を避けて人影へと狙いを定める。
「解除しろ!」
シャムロックの声が闇を切り裂いた。すでに走り出している。
「命令すんな!」
グレンは吐き捨て、腕を交差させた。掌の内で魔力が弾け、地面の術式が崩壊する。見えない罠が、霧のように散る。
その瞬間を狙って、魔獣が跳んだ。
長い四肢。歪んだ骨格。空中で軌道を変える異様な柔軟性。
だが、シャムロックは半身をずらしてそれをかわした。次の瞬間、剣が走る。
逆袈裟の一閃が首筋を正確に抉り、血飛沫が夜空に弧を描いた。
「左!」
「わかってる!」
グレンの呼びかけと同時に、剣士は身体を沈めた。その頭上を掠めるように、別の魔獣の爪が空を切る。
直後、グレンの魔術が発動する。空気が凍りつく。氷の槍が瞬時に形成され、一直線に射出された。
氷柱は魔獣の胸郭を貫き、凍結と衝撃で内部から砕いた。骸は音を立てて崩れ落ちる。
「数が、多い!」
シャムロックが吼える。
闇の奥から、まだ気配が湧いてくる。小型だが敏捷、そして狡猾。背後と側面を狙って回り込もうとしている。
「まとめて灰になれ!」
グレンが詠唱に入る。地面が低く唸り、足元から赤い光が滲み出した。
次の瞬間、灼熱の奔流が扇状に放射される。三体の魔獣が逃げる間もなく包まれ、悲鳴は火焔に呑み込まれて消えた。残ったのは、舞い上がる灰だけだ。
シャムロックが対峙している魔獣は左右に細かく動き、隙を探る。だが、その動きはすでに読まれている。間合いに入ったその刹那、鈍器のような一撃が胴を薙いだ。
骨が砕ける嫌な音が響き、魔獣は地面に叩き伏せられる。
「あと一匹!」
グレンの声が背後から飛ぶ。
最後の生き残りは、即座に撤退を選んだ。闇に紛れ、森へと逃げ込もうとする。
だが、シャムロックの踏み込みは疾風だった。一気に肉薄し、振り返る暇すら与えず、喉笛を正確に貫く。
断末魔は上がらない。命は、音もなく掻き消えた。
そして静寂が訪れた。
篝火の爆ぜる音と、荒い息遣いだけが夜気を揺らしていた。血と焦げの匂いがまだ空気に残り、森は息を潜めたまま沈黙している。
「……これで全部か?」
シャムロックが剣を拭いながら問う。
グレンは額の汗を拭い、短く息を整えた。
「多分な」
「そうか」
剣士はそう呟き、剣を鞘に収める。その際、ほんの一瞬だけ口元が緩んだ。疲労ではなく、仕事をやり遂げたあとの充足感に近い微笑だった。
グレンは思わず彼を見た。
結果としては最小の損耗で切り抜けた。言葉を交わさずとも、動きが噛み合っていた感覚がまだ体に残っている。
「結構やるな」
挑発めいた誉め言葉に、シャムロックは肩を竦めた。
「そっちこそ、見た目より使えるみたいだな」
棘を含んだ返しにグレンは口を曲げる。だが、不思議と腹立たしさは湧かなかった。まだ信頼とは呼べない。ただ――背中を預ける一歩手前の距離感が、そこにはあった。
シャムロックがゴランたちの元へ歩み寄る。彼らは幌馬車の影に固まり、蒼白な顔で事の成り行きを見守っていた。
「今まで安全だったかは知らんが、モンスターの動きに違和感がある。野宿は危険だ。進言しておく」
「わ、わかった。次からは必ず宿を取る……」
ゴランは唾を飲み込み、何度も頷いた。エレナも震える声で感謝を口にする。従者たちは武器を握りしめたまま、ようやく現実に戻ってきた様子だった。
グレンは焼け焦げた藪を眺めながら考える。
普段は安全とされる地域で、これほど統制の取れない襲撃が起きるのは異常だ。森の奥で、何かが起きている。
(……嫌な感じだな)
無意識に杖を握りしめる。指先に残る魔力の熱が、なかなか引かなかった。
明日からの旅路が平穏無事である保証など、どこにもない。
出番は終わったとでも言うように、シャムロックはマントに包まり地面に横になった。
「じゃ、昨日は俺スタートだったから、今日はそっちスタートで頼むぜ」
軽く手を振る。その言い方が、どこか当然の役割分担のように聞こえた。
俺スタートだのそっちスタートだのは、見張りの順番の話に違いない。
「……おう」
勝手に決めるなと反発しかけたが、至極真っ当な提案だったので言葉を飲み込んだ。




