吝嗇の代償
翌朝、隊商は再び動き出した。
街道沿いの木々の間から、白くほどける朝霧がゆっくりと立ち昇っている。湿った空気が肌にまとわりつき、車輪の軋みと蹄の鈍い音が、柔らかな地面に吸い込まれていく。草の匂いに、夜露の冷たさがまだ残っていた。
昨晩と同じ配置で、グレンは御者台に座り、前方へ視線を据える。隣ではゴランが手綱を握り、一定のリズムで馬を進めている。荷台の隅では、シャムロックが昨日と同じように目を閉じ、揺れに身を任せていた。
(やっぱりどうにも馴染めないな)
胸の奥に、薄くざらついた感覚が残る。昨日一日、言葉らしい言葉はほとんど交わしていない。ダークハウンドを退けた時も、あの剣士は動かなかった。必要がなかっただけの話だが、だからこそ余計に奇妙だった。普通ならモンスターが出たとなれば、何かしらの反応をするのではないかと。
それでも隣に剣士がいるというのは奇妙な感覚だった。誰かと「分担する」という感覚。背負っていたものを半分預けるような、あるいは奪われたような、不安定な軽さ。その正体を、グレンはまだ言葉にできない。
昼食の休憩を挟み、さらに二時間ほど進んだ頃だった。ゴランは街道脇に広がる開けた地面へと馬車を引き入れた。
車輪が砂利を噛み、低く止まる。従者たちに荷下ろしを指示する声が飛び、積荷が揺れて軋んだ。
グレンは眉をひそめる。
太陽はまだ高く、空気は温みを保っている。影も短い。この時期なら、日没まで三時間は進めるはずだった。
(何かあったのか?)
馬車の不調か、それとも別の理由か。グレンは振り返り、シャムロックを見る。
だが剣士は、やはり目を閉じたままだった。呼吸のリズムも変わらない。何も感じていないようにも、すべてを無視しているようにも見える。
(……本当に何もないのか?)
確信が持てないことが、逆に不安を膨らませる。
御者台から降りたゴランは、額の汗を手の甲で拭い、一同を見回した。
「よし、今日はここまでだ。ここで夜を明かす」
唐突な宣言だった。空気が一瞬、止まる。エレナも、従者のマークとジョーも、わずかに表情を曇らせた。誰も口を開かないうちに、ゴランが続ける。
「馬の足を休ませなきゃならん。このまま進めば疲弊する。明日に響くからな」
表向きはもっともらしい理由だった。だがその奥にある意図を、グレンは直感的に嗅ぎ取る。金だ。宿代を削るための判断。
「……そうか」
短く応じる。内心では、乾いた溜息が落ちた。護衛契約の条件が脳裏をかすめる。「衣食住はそっち持ち」――あの時のシャムロックの押しの強さ。軽く見ていた商人の吝嗇が、ここで形になっている。
「でもあなた」
エレナが心配そうに口を開いた。細い指が夫の袖を掴んでいる。その声音には明らかな不安が滲んでいた。
「わざわざ野営を選ばなくても……万一モンスターに襲われたら……」
「心配いらんよ」
ゴランは軽く手を振る。笑顔はあるが、その奥に計算の影が見える。
「この道は何度も通ってるが、一度も襲われたことはない。それに――」
一拍置いて、視線をグレンとシャムロックへ向ける。
「頼りになる護衛が二人もいるんだ。安心だろう」
投げられた言葉にグレンは肩を竦めるだけで応じた。シャムロックは欠伸を噛み殺しながら目を閉じたままだ。
ゴランの意向に納得してはいない。だが、ここで揉める理由もない。グレンは黙って作業に加わった。
「まったくもう……」
エレナは諦めたように俯く。その横で、従者たちが目配せを交わす。空気がわずかに重い。彼らもまた、主の決断に異議を唱える術を持っていないのだろう。
「それに、皆ここで泊まってるんだよ」
ゴランが周囲を指す。古びた焚き跡が点々と残り、踏み固められた土が黒ずんでいる。人の気配の残骸。
安全の証にも、逆の痕跡の集積にも見えた。
◆ ◆ ◆
焚き火が、ぱち、と乾いた音を立てた。火の粉が夜へ弾け、すぐに闇へ飲み込まれる。
空は朱から藍へと滑らかに移り変わり、東の稜線にはすでに夜の影が滲んでいた。空気は重く、動かない。風がない。
選んだ野営地は緩やかな丘の中腹にあった。四方を灌木が囲み、視界は狭い。守りにはなるが、同時に閉じ込められる形でもある。
火に枝をくべながらグレンはぽつりと呟いた。
「……空気が淀んでるな」
肌に張り付くような湿り気が、呼吸をわずかに重くする。ゴランが振り返った。
「何かあるのか?」
「いや……なんとなく」
漠然とした不安感を、理屈に落とし込めない。危険だと言うには根拠が足りず、黙るには胸がざわつく。背後に控える藪の奥――森から滲み出る“何か”が、霧のように肺へ入り込んでくる。腐葉土の甘い匂いの奥に、わずかな異物が混じっている。
気配というより、圧。
森そのものが息を潜めているような、奇妙な静けさ。
ゴランは肩を竦め、話を打ち切る。作業はそのまま続いた。
シャムロックは岩陰に座り、目を閉じている。だが剣だけは手元にある。鞘の角度も、すぐ抜ける向きだ。
(……あいつは、気付いてるのか?)
グレンは視線を向ける。
「なあ」
声をかけると、剣士の睫毛がわずかに震えた。
「ん?」
「お前、何か感じてないのか」
簡潔な問いに、剣士は数秒沈黙した。その瞳に宿る眠たげな影が僅かに変わる。
「……ああ」
低い声は曖昧な肯定だ。詰め寄ろうとした瞬間、シャムロックが手を上げて制した。
「日が沈んだら襲われるな」
予想を超える断言に、ゴラン夫妻が飛び上がるほど驚いた。
「なぜわかる!?」
ゴランの声が裏返る。
「臭いだ」
シャムロックは鼻をひくつかせた。グレンも意識を集中させて、空気を深く吸う。腐葉土と夜露の入り混じった芳香の奥に、鉄と獣脂の不快な臭気が潜んでいた。杖を握る手に力が入る。
ゴランは呆然と立ち尽くしていた。
「馬鹿な……」
「馬鹿なもんか。もう囲まれてる」
剣士の言葉は揺るぎない。
「危ないのがわかってたなら教えてくれたらいいだろう!」
「今気付いた」
言い訳でも誤魔化しでもなく、事実を置く声音だった。
グレンは改めて周囲を見渡した。夕闇に包まれていく林の影が、まるで牙を剥く怪物のように見えてくる。
「どんな奴だ?」
「小型の魔獣じゃねぇかな。単体ではなさそうだ」
「なんだ」
グレンは鼻を鳴らした。
「楽な仕事じゃないか」
「油断するなよ」
シャムロックの声に、初めて芯が通る。
「ふん」
グレンは杖を軽く回した。風を切る音が鼓膜を打つ。
「舐めるなよ」
火の光が瞳に揺れる。
「まとめて焼き払ってやる」
その言葉に、シャムロックはわずかに口角を上げた。嘲笑なのか賞賛なのか、判然としない微笑だった。




