蒼氷の谷
夕暮れの帳がゆっくりと大地に降りてくる頃、一行は小川のほとりで足を止めた。西の空は深い茜に染まり、雲は薄く引き延ばされて、燃え残りのようにたなびいている。遠くの峰々は紫紺へと沈み、輪郭だけを残して闇に溶けていく。
河原の砂利を踏む音が、乾いた音を立てる。その合間に、水面を跳ねる魚の軽やかな水音が混じり、静かな夕暮れに細かなリズムを刻んでいた。
「この辺りでよさそうだな」
ゴランが周囲を見回し、地形を確かめて頷く。
荷馬車から予備の幌が引き下ろされ、柱に括りつけられる。布が風を受けてわずかに膨らみ、簡易の雨避けが形を成す。
エレナは乾いた枝を選びながら拾い集めていく。従者たちは水桶を運び、冷たい流れに腕を沈めるたび、小さく息を漏らした。
それぞれが言葉を交わすことなく、しかし確実に役割を果たしていく。動きには無駄がなく、長く積み重ねられた習慣が滲んでいた。
グレンは少し離れた場所に立ち、その様子を見ていた。自分だけが、そこにうまく組み込まれていない。
「俺は……何をすればいい?」
誰に向けるともなく言葉がこぼれる。ゴランが振り返り、軽く笑った。
「お前さんの役目はモンスター除けだ。火を頼む」
その一言に、グレンはわずかに息を吐いた。杖を手に取る。それは彼にとって、最も自然な動作だった。
杖の先端から蛍火のような青白い光が生まれ、枯れ草に触れた瞬間パッと炎が膨らむ。
乾いた草が音を立てて燃え、橙色の光が薪を舐める。湿り気を含んだ煙が立ち上り、鼻腔にかすかな苦味を残した。それだけのことだが、ゴランの表情が和らいだ。
「助かるよ。やっぱ魔術師がいると違う」
「大したことじゃない」
グレンは短く答えた。どう振る舞えばいいのか分からない。視線が落ち着かず、自然と別の方向へ逸れる。
シャムロックが馬の世話をしていた。粗い毛並みを撫で、餌桶に草を盛り、水を満たす。動作は淡々としているが、どこにも無駄がない。
視線に気づいたのか、シャムロックが軽く肩をすくめた。眠たげな目が一瞬だけ向けられる。それだけだった。
二人の間には、依然として言葉にならない距離がある。
互いに踏み込まず、ただ観察している。
◆ ◆ ◆
やがて、焚き火の周りに粗末なテーブルセットが並べられた。火の爆ぜる音とともに、簡素な夕食が始まる。
エレナが小さく身を寄せ、夫に囁く。
「あの二人、うまくやれるかしら……」
「ああ……」
ゴランは妻の不安げな視線を受け、大きく息を吐いた。昼間の光景が脳裏をよぎる。魔術師は常に周囲を警戒し、言葉は最小限。剣士は必要なことしか話さない。
静かすぎる。
それは安心ではなく、どこか落ち着かない沈黙だった。
「もしかすると……」
ゴランは慎重に言葉を選ぶ。
「俺たちが勝手に、相性が悪いと思ってるだけかもしれん」
「どういうこと?」
エレナが首を傾げる。その仕草は夫と同じ栗色の髪をさらりと揺らした。
「つまりだ」
ゴランは声を潜めて続けた。
「あいつらにとっては、あれが普通なんじゃないか。無駄を省いて、必要な時だけ話す」
「でも、今日出会ったばかりでしょう?」
「そうだよなあ……」
ゴランは自嘲気味に笑った。昼間、ダークハウンドを追い払った魔術師の手際を見るに、実力は確かなのだろう。剣士も寡黙だが、その佇まいには油断ならないものがある。ならば今は何も言わない方がいいのかもしれない。
「ま、何とかなるさ」
ゴランは敢えて楽観的な言葉を選び、エレナの肩を抱いた。妻は不安げな表情を浮かべつつも、夫の腕に身を委ねる。夫妻の間では、それ以上の議論は封印された。明日になればまた新たな局面が訪れるかもしれない。今はただ、目の前の困難を乗り越えることだけを考えよう――ゴランは心の中でそう結論づけた。
◆ ◆ ◆
グレンはパンを千切る手を止めていた。周囲の声は、遠くにある。彼の思考は違うところに囚われていた。
(これでいいのか)
内心の問いかけが消えない。
一人で生きてきた。それが当たり前だった。
他人と歩調を合わせるのは落ち着かない。
「おい」
突然呼ばれて顔を上げる。シャムロックがパンを咥えたまま、こちらを見ていた。
「……何」
「肉」
短い言葉とともに、串が差し出される。串焼きになった獣肉が湯気を立てていた。反射的に受け取ってしまう。グレンは無言でそれをかじった。外は香ばしく、中は柔らかい。香辛料の匂いが鼻に抜け、思わず息が漏れた。
「……ありがとう」
小さな声で礼を述べると、シャムロックはわずかに口元を緩めた。それだけだった。
だが、その短い間に、何かが確かに動いた。
夜が完全に落ちる。空には無数の星が散り、川面に淡く揺れる。
見張りは交代制で、最初はシャムロックだった。
グレンは焚き火から少し離れ、毛布にくるまる。地面の冷たさが背に伝わる。
火の熱が、わずかにそれを和らげる。
(悪くない……かもしれない)
思考が、ゆっくりと沈む。
遠くで梟が鳴いた。
薪が弾ける。
その音が、意識を静かに闇へと引き込んでいく。
◆ ◆ ◆
霧に沈んだ蒼氷の谷。
蒼く、冷たい空気。息を吸うたび、胸の奥が凍るようだった。
魔術師たちの里。
グレンはそこで育った。両親はおらず、孤児として長老の家に引き取られた。
魔術の才は飛び抜けていた。
だが、その才能は里の誰とも噛み合わなかった。
彼が手を振れば薪が爆ぜる。水を汲もうとすれば井戸の縁が凍りつく。制御の問題ではない。
彼の魔術そのものが、生活の道具として使えない性質を持っていた。
癒やせない。
灯せない。
温められない。
ただ、壊す。
それだけに特化していた。
ある日、練習場で的を撃っていた。
杖を振ると、的だけでなく背後の石壁まで砕けた。
破片が飛び散り、見学していた子供たちが悲鳴を上げて逃げた。
翌日から、誰もグレンに話しかけなくなった。
十五歳の夏。
里に貴族が訪れた。ヴェルンハイト侯爵。
穏やかな笑みの裏に、何かを計る目をしていた。
グレンは本能的に拒んだ。だが翌月、長老の命令で侯爵の馬車に乗せられた。
「行きなさい」
長老は背を向けたまま、振り返らなかった。
◆ ◆ ◆
そこでグレンは弾かれたように目を開けた。
冷汗が背中を濡らしている。
焚き火の煙が鼻腔を刺し、自分が野営地にいることを思い出させた。
「起きたか」
シャムロックが気怠そうに伸びをする。
「悪い夢でも見たか?」
「大したことじゃない」
「そうか」
それ以上の追及はなかった。




