焼き菓子の誘惑
夕刻。セルディアの南門をくぐった。
城壁の内側に入った瞬間、空気の密度が変わる。石と人と炭の匂い。荷車の車輪が石畳を叩く音。夕餉の煙が、屋根の上に棚引いている。三日ぶりの都市の匂いだった。
その足で、ギルドに向かった。
カウンターで依頼完了の報告を行う。受付の女が羊皮紙を広げ、羽ペンを構えた。
「依頼内容は、ラーデン村の獣害対策」
「はい」
「当初の主目的は、風斬鷲による家畜被害への対処。現地での聞き取りと調査の結果、風斬鷲が家畜を襲い始めた原因は、営巣地に棲みついた岩石蜥蜴に起因すると判明」
「岩石蜥蜴……」
受付の手が止まった。だが、知らない名ではないようだった。台帳の記録を辿る目をしている。
「岩場に棲みつくやつですね。たまに素材が持ち込まれます」
「岩石蜥蜴を討伐。その後、風斬鷲が営巣地に帰還し、放牧地への接近が確認されなくなったことを翌朝に検証。依頼完了」
「では、風斬鷲は」
「討伐していない。生態系への影響を考慮し、原因の排除をもって対処とした」
受付の目が、ちらりとグレンの顔を見て、書類に戻った。何か言いたげだったが、飲み込んだ。受付の仕事は報告の受理であり、是非の判断は支部長の仕事だ。
◆ ◆ ◆
下取りカウンターに、蜥蜴の素材を出した。鑑定士が鱗を一枚手に取り、指で弾く。甲高い音。眉が上がった。
「岩石蜥蜴か。いい鱗だ」
鑑定士は鱗を光に透かし、牙を掌で転がし、爪の先端を指で押した。
「しかし、ラーデンに出たのか。もっと奥に住んでるイメージだったが」
独り言のように呟いてから、値を口にする。
「鱗は防具素材として優秀だ。牙と爪は加工素材として、まあまあ。——鱗二十二枚、牙四本、爪八本。金貨一枚と銀貨五枚でどうだ」
グレンはシャムロックを見た。シャムロックが肩をすくめる。相場の知識はないらしい。
「それで」
◆ ◆ ◆
宿の部屋に、グレンの生んだ光球が浮かんでいる。一日歩き通した脚が、寝台に腰を下ろした途端に重くなった。
今回の取り分を清算していく。依頼料と素材の買取金を、共有の財布へ半分。残りを二人で等分する。岩石蜥蜴の素材が思いのほかいい値で売れて、手元に残った銀貨は、いつもより厚みがあった。
「また、風呂に行きたいな」
言ってから、グレンは少しだけ身を硬くした。
これは、魔術師としての言葉ではない。役に立つかどうかとは、何の関係もない。ただ、行きたい。それだけの言葉だ。口にしてよかったのか——。
「おお、いいな」
迷う間もなかった。
「ついでに明日は休日にしようぜ」
あまりに軽い同意で、グレンの身構えは行き場を失った。
「蜥蜴殴って剣がガタついてるから、鍛冶屋にも行きたいんだよな」
グレンは、息を吐いた。
肩から、いつのまにか入っていた力が抜けていく。
何でもないことだった。
風呂に行きたいと言えば、いいな、と返ってくる。ただ、それだけのこと。
だがその「それだけのこと」が、自分にとってどれほどのものか、シャムロックにはわからないだろう。わからないまま、軽く受け取ってくれる。それが、ありがたかった。
荷解きのときに脇へ避けておいた包みが、目に入った。
ラーデン村を出るとき、ヘルマンの妻マルタが持たせてくれたものだ。鼻を寄せると、甘く香ばしい匂いがした。
包みを開くと、素朴な形の焼き菓子が四枚。蜂蜜の照りが、光球の明かりを受けてつやつやと光っていた。
一枚を手に取り、口に運ぶ。
さっくりとした歯ごたえ。麦とバターの香り。ほんの少しの塩味の後から、蜂蜜の甘さが広がっていく。グレンは、ゆっくりと噛みしめた。食べ終えて、指に付いた蜂蜜を舐めとった。
二枚目に手を伸ばす。四枚あったのだ。二枚食べても問題はない。
一枚目と同じように、二枚目もなくなった。
残りは二枚。
これはシャムロックの分だ。包みごと渡せばいい。
なのに、渡せなかった。
視線が、焼き菓子に張りついて動かない。手が、包みの上で止まっている。
「一個もらうぞ」
シャムロックの手が伸びてきて、ひょいと一枚摘まみ、ぱくりと食べた。
焼き菓子は、残り一枚になった。
「うん、美味い」
感想は、それだけだった。
最後の一枚も、シャムロックが食べるべきだ。わかっている。わかっているのに、惜しい。たった一枚の焼き菓子が、惜しい。
シャムロックが、最後の一枚を摘まみ上げた。
「あっ」
思わず声が漏れた。
目が、焼き菓子を追っている。摘ままれた菓子が、宙に持ち上がる。グレンの視線も、つられて上がった。
シャムロックが、その一枚を、ゆっくりと左右に振った。
グレンの視線も、左へ右へ動く。
「ふっ」
小さく笑って、シャムロックは焼き菓子をグレンの口に押し込んだ。
「むぐ」
「俺は一個で十分だよ」
指先を舐めとりながら、言う。
蜂蜜の甘さが、口の中いっぱいに広がっていた。さっきと同じ味のはずだった。
だが、いじましく目で追ってしまった一枚は、どこか決まりが悪い甘さがした。
「ありがとう……」




